Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

供儀の場としての装幀:菊地信義氏の仕事をめぐる一つの断想

 装幀者・菊地信義氏が亡くなった。昨年二月に出した自著『数理と哲学:カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』(青土社)の装幀は氏の手になるものである。最初の本を出す機会があれば、その装幀は是非菊地さんに、と私はかねてより思っており、本を出す際、編集の方から依頼を出してもらった。結果、幸運にも引き受けていただくことができた。

 この記事は、装幀を氏に引き受けてもらった一人の人間が、その装幀を見、またそれに触れたことからの思いつきを書き綴った、エッセイ未満の雑感に過ぎない。また内容に関しても、しばしば哲学や思想の研究者が菊地氏の仕事について書く主題 — すなわち死と生をめぐるもの — をやはり繰り返すことになるだろう。その意味でこの文章に大きな新規性はない。それでも氏が言うように、装幀というものがまずもって内容を伝えるというよりも、本に目を止めさせ、本を手に取らせることにあるならば、氏の仕事に対する、いわば「文章による出来損ないの装幀」として、この雑感がその多様なる仕事に目を止めてもらう契機になればと願う。

 

 まずは自著に関するエピソードから始めてみたい。告白するが、『数理と哲学』を出す以前、私は装幀に関する氏のエッセイを熱心に読んでいた訳ではない(むしろそれらエッセイは自著刊行の後に読むことになった)。だが、幾つかの本の装幀に、とりわけて『テロルの現象学』を中心とした笠井潔氏の何冊かの本の装幀に私は惹かれるものを感じ、その装幀を担当していたのが「菊地信義」であることを知っていた。またフィルムアート社から出ていた菊地氏の仕事をめぐるムック本も折々開いては読んでいたということもあって、可能ならば最初の単著は菊地さんに、と勝手に思い描いていたのだ。

 青土社の編集者にこの希望を伝えたとき、「菊地さんは高齢ということもあってお仕事を減らしているので、もしかしたら難しいかもしれません、その場合はまた別の方に依頼を出しましょう」といったようなことを言われた。正直難しいかな、と私は感じていた。だが、菊地氏は引き受けて下さった。その理由は聞いていない。だが見本完成後、忘れられない氏の言葉を、編集者からのメールを介して私は聞くことになる。

 私は本の「あとがき」で、笠井潔氏の『テロルの現象学』を読んだことが私を哲学の道へと進む大きなきっかけとなった、と書いた。菊地さんはこの一文を読んで、自分が装幀した本が触れられていて「驚い」たのだという。メールには、「『テロルの現象学』は非常に思い入れのあるお仕事だったので、それが発端となって、こうして時を越えて『数理と哲学』に巡り合えたことは、言葉にできない感慨がある」、そう菊地さんは述べていたと書いてあった。私にとって菊地さんに装幀してもらえたことが大きな喜びであったことは勿論、向こうにとってもこの仕事が何かであったのだと分かり、氏に担当してもらったことはやはり間違いではなかった、そう確信することができた。装幀という紙一枚を通して、コミュニケーション=交流が確かにそこでなされた、その実感を得たのである。

 

 さて、こうした交流は、菊地氏によればある種の「生」と「死」に関わるものである。例えば『装幀談義』では、作家によって書かれたテキストはある意味で死体であり、読まれることで再生するのだと述べられている。加えて、それゆえ装幀家のつくる装いとは「暮石みたいなもの」であるとも。

 実際私は、原稿をすべて編集部に渡し、造本へと作業が移っていく過程で、自分のテキストがある種の仕方で「死につつある」と感じていた。そして、私の本は菊地さんの多くの人文書を特徴付ける「白物」の装幀 — 白地に文字が載せられる装幀 — を受けることになった。そのカバーの白さは、なるほど、一方ではテキストに対する「死装束」のようでもあり、他方では新生児を包む「おくるみ」のようでもある。そして、『数理と哲学』の隠しテーマともいうべき「重ね合わせ」概念になぞらえられるようにして、カバーの上半分は折り返され、重ね合わされている。それは見ようによっては、「死装束」と「おくるみ」の、つまりは「死」と「生」の重ね合わせのようでもある。

 だが、「死装束」と「おくるみ」では、あまりに「白物」に限定した言い方だろう。氏の装幀はそれだけではない。そこで、「白物」に象徴的に現れるような〈死と生のひそやかなドラマ〉が行われる装幀という場、それを私は今「供儀」という言葉で表現してみたいと思う。供儀とは、あるものの犠牲的な死によって生者たちが交流することとも言われる。テキストは著者の手を離れた瞬間一度死に、生者たちによるその死せるテキストの問い直しとしての交流が引き起こされる。装幀とは、こうした交流を紙一枚で僅かに支える「供儀の場」のようなものではないか。

 勿論、供儀とは犠牲を要求し、それゆえ聖なるものとはいえ、暴力を不可避に伴うものでもある。本という器に人を沸き立たせるものよりも、むしろ人を鎮めるものを見ていた菊地氏が、「供儀」という私の形容に違和感を感じたであろうことは想像に難くない。

 だが、血が流れることもなければ、沸き立ちも蕩尽もないが、同時に、確かに装幀という本の表面は、テキストの死とその再生からなる交流を可能にしている。私たちは本を見ることができるし、カバーに触れ、またカバーと本の接触を感じることができる。さらには、そうした接触の際、微かな物音が立つことも知っている。それらの感覚は供儀の零点、あるいは極小の通過儀礼ともいうべきものであり、その微細な感覚を経由することで、私たちは本を開き、テキストを問い直すという行為に入っていくことができるのではないか。生と死の重なりを色で表現したとも言える「白物」を氏の仕事の象徴とみなせば、菊地氏が装幀を行うさいに傾注していたことの一つは、こうした極小の供儀の場を様々な仕方で演出することにあった、私にはそう思えるのである。

 

 結局私は、生前の菊地氏とお会いする機会はなかった。喫茶店『樹の花』で待ち合わせて、自著の装幀などについてあれこれ話してみたかった — そうした思いがなかったと言えば嘘になる。だが装幀という供儀の場を通して生じた交流=コミュニケーションより深い、著者と装幀者の間の「会話」など果たして生じ得ただろうか。

隠すことと見えないこと:G・K・チェスタトン『ブラウン神父の無心』

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 思うところあり、ギルバート・キース・チェスタトンの『ブラウン神父の無心』(1911)を(何度目か分からないが)読み返した。ここでは三つの作品を中心に、この探偵小説史上屈指の名短編集について少し論じてみたい。

 それら三作品とは、「折れた剣の招牌」「透明人間(見えない人)」、そして「イズレイル・ガウの信義」である。収録された他の四つの短編についても言及する。

*引用は南條竹則坂本あおい訳(ちくま文庫、2012年)による。原文を参照する際はプロジェクト・グーテンベルクのものを利用した。

 

【以下、諸作品の真相に触れる。】

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もう一つの極北:笠井潔『バイバイ、エンジェル』

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 笠井潔氏の矢吹駆シリーズの新作『煉獄の時』が近々出るとのことで、シリーズの読み返しを始めている。今回は記念すべき一作目、『バイバイ、エンジェル』(1979)について少しまとめておこうと思う。周知のことの振り返りという側面もあるが、第2節以降で提示される論点は、もしかしたら珍しいかもしれない。

 また本記事のタイトルは、以前書いた「ある極北」と題したエラリー・クイーンの『九尾の猫』に関する記事を念頭に置いて付けたものだ。第3節で、クイーンのこの作品と『バイバイ、エンジェル』とが、ある点で探偵小説の歴史上好対照な位置を占めることを示そうと思う。この指摘も初めてなされるものかもしれない。

 なお今回は最初の単行本で読み直したため、参照するのは角川書店版(1979年)になる。

 

[以下、『バイバイ、エンジェル』の真相に触れる。]

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三つの記号:アガサ・クリスティー『ナイルに死す』

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 アガサ・クリスティーの『ナイルに死す』(1937)を再読した。巧みなストーリーテリングに支えられた人気作であり、トリックもクリスティーの生み出した中では有名なものだろう。ここでは、これまでの彼女の作品の分析同様、あくまでも伏線やミス・ディレクションといった「記述・記号」の水準において本作を検討してみたい。

 2022年に公開された再映画化作品『ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督・製作・主演)もなかなか良く出来た作品であり、観ながら気づかされた部分もあるのだが、本記事では原作のみを扱う。なお参照するのは加島祥造訳(ハヤカワ文庫、1984年)である。

 

[以下、作品の真相に触れる。]

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「ホワットダニット」とは何か:アガサ・クリスティー『バートラム・ホテルにて』

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 この記事では、アガサ・クリスティーの『バートラム・ホテルにて』(1965)の考察を通して、「ホワットダニット」と呼ばれる探偵小説における特殊な「謎」のあり方について考えてみたい。この作品は大傑作とは言えないまでも、「ホワットダニット」を中心的な興味に据える彼女の一連の作品群の中で、一つの極限形とも呼べるものを提出しているように思える。

 なお参照するのは乾信一郎訳(クリスティー文庫、2004年)である。

【以下、作品の真相には直接触れないが、手がかりや伏線に触れる】

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「笠井潔『バイバイ、エンジェル』パリ草稿ノート発掘」を読んで:ひとまずの走り書き

 『ジャーロ』第80号に掲載された「『バイバイ、エンジェル』パリ草稿ノート発掘」を読んだ。笠井潔氏の『バイバイ、エンジェル』は物理学者になろうとしていた私を哲学者へと方向転換させることになった、私にとって紛れもない「青春の書」であり、この本についての草稿を目にできたことには感慨深いものがあった。

 同書をまた読み返してまとまったものを書ければと思うが、それに先立ち、一つ気がついたことを簡単に記しておきたい。それは、パリ草稿ノートに存在した「読者への挑戦」についてである。

 

 従来の「読者への挑戦」への批評とも取れるこの「読者への挑戦」において、物語の書き手(クリスチーナ・シェール)は、これまでの推理作家たちが「読者の論理作業」に必要な「材料」のみを提出して読者に挑戦してきたことを、次のように批判している。それはあたかも、奇術師がテーブルの上に並べたカードに注目させるようなものである。しかし、奇術を見破ろうとするのであれば、他の場所、たとえば奇術師の仕草や表情に目を向けないといけない。推理小説の真相を当てる際も同様であって、「推理に必要な材料」以外に、「作者の個性、趣味、発想の特徴」などを知らねば当てることはできない。そこで、本作において書き手の「私」は、「論理的推論の素材となるカードを並べただけでなく、そのカードの配り方、その手つき、その表情、その身振りまでをも自覚的に描こうとした」—この余分と思われる部分によってこそ、読者は直観を駆使し、正しい結論へと推論することができるのだと。

 

 「作者の個性」やクセを知ってこそ推理が可能である—この主張から私が思い出したのは、これが、他ならぬ笠井氏自身がクイーンの国名シリーズ(の後半)を最初に読んだときにとった手法であった、ということである(『模倣としての逸脱』所収の「楽しみからの逸脱」参照)。このエッセイの中で氏は「作中に潜む犯人を対象とする推理から、作者クイーンを対象とする推理に」方法を変更したと述べている。「作者が好む犯人のタイプ、作中でさりげなく犯人を紹介するときの手つき、スタイル、等々に注意してみたほうがよい」。

 とするならば、この「読者への挑戦」において、書き手である「私」は、「推論の素材」の並べ方、クセ、表情などを描いたと主張することで、笠井潔という〈大文字の作者〉の仕草、振る舞い、クセをも何らか再現(ミメーシス)しようとしたのだ、と述べていることになる。

 この達成の深度がどこまで及んでいるのか、というのはひとまず措くとして(書き手である「私」の視点・語りを設定した「作者」の個性やクセを読む、ということはやはり問題となるだろう)、重要なのは、ここで「語り手」と〈大文字の作者〉の関係の問題、すなわち後に『天啓の器』でひとまずの達成を見るような、「〈大文字の作者〉をいかにして消すか」という問題意識がすでに氏のなかで胚胎していたであろうことが、見える点である。

 近代の形式を使って近代を裏返そうとすること、そこに氏は探偵小説というジャンルの一つの特徴を見ているが、その裏返しはすでに、この最終的には残されなかった「読者への挑戦」においても、ある程度自覚的に実践されていたように思われる。

 

*1/28午後、表現を一部訂正。

手がかりか、ミスディレクションか:アガサ・クリスティー『カリブ海の秘密』

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 アガサ・クリスティーの『カリブ海の秘密』(1964)を読んだ。後期クリスティーについては未読作品もあり、もう少し諸著作の分析を進めねばならないが、本作にはこの時期のいくつかの特徴が見られるように思った。伏線、ミスディレクション、手がかりの関係に注目して、簡単に検討してみたい。

 なお以下で用いるのは永井淳訳(クリスティー文庫、2003年)である。

【以下、作品の真相に触れる】

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