Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

繰り返される言葉の意味:エラリイ・クイーン『災厄の町』について

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 エラリイ・クイーンの傑作『災厄の町』(1942)について感想を書きたいと思います。なお完全ネタバレありです。というよりもネタバレしかしていません。丸括弧内の算用数字は越前敏弥氏の訳(ハヤカワ文庫、2014年)の頁数を示します。それでは始めます。 

【以下、作品の真相に触れる】

 

  クイーンの最後の推理で明かされるこの作品の全体像は、ジム・ヘイトの出さなかった三通の手紙を利用して、ノーラ・ライトが彼とその(先)妻ローズマリーに復讐する、というものです。ヘイトは期せずして重婚の罪を犯していたことになり、ローズマリーはそれを盾に彼を強請ります。ノーラはローズマリーを殺してヘイトにその罪を被せる、という訳です。

 さて2014年の文庫版の解説をクイーン研究家の飯城勇三氏が書いていますが、その最後に「ジムの『妻を殺してやる』という言葉も、ノーラの『ジムは犯人じゃない』という言葉も、まぎれもなく本音だったのです」(512)とあります。この指摘を手引きとして、ここではそれぞれの言葉の意味を考えてみたいと思います。

 前者についてはあまり問題がありません。いわゆる「ダブルミーニング」です。この「妻」はノーラのことを指していると思われていたが、実はローズマリーのことを指していた、という訳です。解明の前後で「指示対象が変化する」タイプのダブルミーニングということになります。

 重要なのはノーラの発言の方です。彼女は例えば次のように述べます。

「ジムがわたしを殺そうとしたなんて、ぜったい信じないわ。」(216-7)

 「ジムを逮捕なんてできない!何もしていないんだから!」(253)

また裁判の場面では地の文で次のように書かれます。

 「ノーラは〔…〕あらゆる攻撃から夫〔ジム・ヘイト〕を擁護した。夫への愛情と、どうあっても無実を信じてやまない気持ちを繰り返し口にした。」(396)

 さて、こういったノーラの発言は最後のクイーンの推理の際には直接言及されません。ただ「ノーラはジムの身を心配するように見せていた」(493)と述べられるだけです。探偵クイーンのこの解釈に従えば、「ノーラはジムの身を案じ、夫を信じる貞淑な妻を演じることで、ひいては自分に疑いがかからないようにしていた」ということになるでしょうか。これは罪を被せた以上に、ジム・ヘイトに対する厳しい復讐といえるかもしれません。ジムは、かつてノーラを捨てたことの代償として、「贖罪」の意識で口をつぐんでいました。彼女のこうした言葉はジムをますます口をつぐむことへと追い込んでいったかもしれません(逆に「ジムが犯人です」であれば、彼にも反抗心が湧こうというものです)。

 

 しかし本当にそれだけでしょうか?

 

 「ジムは無実だ」ということを意味する言葉を、つまり〈真実〉を繰り返し語る彼女は、同時にまた、この言葉の内容を文字通りに受け取って欲しいとも、賭けていたのではないでしょうか?

 それは矛盾した行為です。なんと言ってもノーラこそジムを犯人に仕立て上げたのですから。三通の手紙を燃やすことなく警察に渡してジムを犯人仕立て上げつつも、彼を犯人でないと主張する、そうした矛盾です。しかしその矛盾を超えるような、「不可能な解」をこそ、彼女は案出して欲しかった、それを望んでいた、そのように読むことも可能だと思います。いや、同じ内容のことを、時に叫んでまでも繰り返し主張していたことを考えれば、その読みは十分妥当性をもつのではないでしょうか。

(*「ジムは何もしていない」という発言自体に一種の行為遂行的矛盾、やっていることと言っていることの矛盾が孕まれているかもしれません。ジムを沈黙させ、犯人へと追い込もうとすることと、無実を主張することの矛盾です。)

 探偵小説においてはときに、証拠同士が「矛盾」し、それを克服するような「弁証法」的な(あえてヘーゲルの言葉を使いましょう)推理がなされるように見えるときがあります(実際には弁証法的ではない、というのが私の見解ですが、今はこの点は措きます)。しかしここに見られるのは、決して直接語られることなく、ただ示されるだけの矛盾であり、それは弁証法的に克服されることなく、ついには「狂気」ないし「錯乱」へと至ります。実際、彼女は最後に「崩れ、体を揺すって笑いこける」(411)のですから。これは彼女が矛盾、月並みに言えば〈愛と憎の一体化〉によって引き裂かれた結果、と読むこともできるでしょう。

 

 今述べた通り、愛と憎は裏表、というのは小説において「月並み」なことかもしれません。しかし愛と憎の不可分離性を「ジムは何もしていない、無実だ」という言葉だけに託した上で、しかもその点を解決の場面でも触れず記述しない、というのは、やはり探偵小説においてはただ事でないことだと感じます。その記述の不在が作家クイーン自身も気がつかなかったことであれ、意図したことであれ、です。いや、むしろ何も書かなかった点こそ、クイーンという作家の力量を示している、とも言えます。

 この解釈を取るならば、ノーラ・ライトはエラリイ・クイーンの数多い小説の中でも、最も忘れがたく、また魅力的な登場人物の一人である、ということになります。少なくとも私は彼女のことを忘れることはないでしょう。

 

(1/25夕方一部追記。2/20語句一部修正。)