エラリイ・クイーンの『九尾の猫』(1949)を越前敏弥氏の訳(ハヤカワ文庫、2015年)で読み直した。ここでは、おそらくはあまり指摘されているとは思えない、クイーン作品群における本作独自の位置を取り出してみたい。この傑作と言って良いだろう探偵小説は実のところ、彼が取り組んできたある「テーマ」の行き着いた形を示している。行き着いてしまったがゆえに、そもそもそのテーマの作品であるということが、気づかれないほどに。
以下、本作に限らず、クイーンの代表作の幾つかについても「ネタバレ」を行うため注意されたい。具体的には『Yの悲劇』、『ギリシア棺の謎』、『災厄の町』。『十日間の不思議』の四作である。
【以下、諸作品の真相に触れる】
『九尾の猫』は、ある先行作の変奏、ヴァリエーションであると考えられる。その先行作とは、ー いささか驚くべきことに ー『災厄の町』(1942)である。「驚くべきことに」と書いたのは、この両作は一見したところ対照的な作品であるからだ。『災厄の町』はライツヴィルという地方の小さな町が舞台であり、殺人も一つしか起こらず、またクイーン警視も登場しない。対して、『九尾の猫』は国名シリーズ同様、大都会ニューヨークが舞台であり、9件の殺人と1つの殺人未遂、そして暴動による死者とクイーン作品史上屈指の犠牲者を記録する作品だ(勿論、クイーン警視も登場する)。
しかし、犯人像とその解明プロセス、という点で両者はまずもって明確な類似性を有している。どちらの作品も、ある男性が中盤で犯人と目される。『災厄』ならジム・ヘイト、『九尾』ならカザリス。しかし作品の末尾で探偵クイーンによって指摘されるのは、その妻が犯人である、という事実である(前者ならノーラ、後者ならカザリス夫人)。しかも、どちらの作品でも夫は罪の意識から妻をかばい、自分が殺人事件の罪を被ろうとしていた。このように「夫婦関係」を軸とした犯人像と解明プロセスにおいて、両者の構造は相同的である。
しかしそれだけではない。
ここでさらにクイーンの作品群を遡行することにしよう。法月綸太郎はエッセイ「1932年の作品群をめぐって」で、『災厄の町』が『Yの悲劇』(1932)をある仕方で「焼き直した作品」だと指摘している。その焼き直しは、犯行における毒物の使用、犯人が嫌疑を免れるために服毒すること、最初に犯行を計画した夫自身は沈黙を強いられること、など多数に及ぶ。
しかし法月が指摘しているように、両作品は何より、「筋書き殺人」のプロットを持つ点で共通している。『Y』においては、ヨーク・ハッターの書いた「ヴァニラ殺人事件」という探偵小説の梗概を、子供ジャッキーがその筋書き通りに実行し、『災厄』においては、夫ヘイトの書いた(配達されない)三通の手紙を見つけた妻ノーラが、その手紙の内容に沿った事件を起こしていく。
では『九尾の猫』はどうか?この作品で、犯人カザリス夫人が従ったような、ある人物の書いた「文書」は存在しただろうか?
存在する。それは夫カザリスの手になる、3桁に及ぶ数の「カルテ」である。カザリス夫人は、このカルテを過去から順番に引っ張り出し、ニューヨークの電話帳と付き合わせて特定できたカルテ記載の人物(カザリスが産科医時代に取り上げた子供)を、殺そうとする。
このカルテには、確かに殺意や明確な殺人計画などは記載されていない(これが本稿冒頭で、「行き着いてしまったがゆえに、そもそもそのテーマ〔=筋書き殺人〕の作品であるということが、気づかれない」と書いた理由だ)。しかし、このカルテがなければ、彼女は連続殺人を起こすことはなかった。単なるトリガーではなく、このカルテは彼女にとって、殺すべき人物を順番にあげたリストとして機能している。
『Yの悲劇』では一つづりの犯罪計画書であったものが、『災厄の町』では三通の手紙となり、『九尾の猫』ではそれが、生まれた際の事実をただ書き連ねただけの、百枚以上に及ぶカルテへと還元されている*1。『九尾の猫』はいわば、〈筋書き殺人の零度〉とでもいうべきものをプロットの中核に抱えた作品なのだ。『Yの悲劇』の変奏である『災厄の町』のさらなる変奏*2、あるいは『Yの悲劇』の第二変奏曲。
犯罪計画も、殺意も不在である以上、無味乾燥なカルテの束を補うような、犯人を犯罪へと駆り立てていくようなファクターが新たに必要である。それこそが前作『十日間の不思議』(1948)で全面的に導入された、精神分析で扱われる「無意識」の欲望である。クイーンにおける精神分析の身分を正確に同定するのは今後の作業としたいが、ひとまずそれは、『Yの悲劇』の犯罪計画書や『災厄の町』の手紙が事実を列挙しただけのカルテの束に還元されたことと、相補的な仕方で作中で機能している、とは言えるだろう。
*以下、『十日間の不思議』及び『ギリシア棺の謎』の核心にも触れる。
最後に、『十日間の不思議』が、「筋書き殺人」と共通点の多いクイーン得意のテーマ=「あやつり」に精神分析を導入した作品であることを思い起こしておこう。「あやつり」の出発点を告げる『ギリシア棺の謎』と「筋書き殺人」の出発点を告げる『Yの悲劇』が1932年に好一対の作品として生み出されたように、『十日間の不思議』と『九尾の猫』もまた、精神分析を踏まえてそれぞれのテーマを展開したという点で、やはり一対の作品として考察されるべき作品たち、と言うことができるだろう。
(2/13 誤字を訂正)