Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「見立て殺人」の記号学的考察:エラリイ・クイーン『ダブル・ダブル』を通して

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 エラリイ・クイーンの『ダブル・ダブル』(1950)を再読した。この作品の「見立て殺人」(ここでは数え歌殺人)について少し書いておきたい(最初は細かい話となる)。同作の引用は青田勝訳(ハヤカワ文庫)による。

 (1)まず探偵小説の「記述」に関するある特徴を見た上で、(2)「見立て殺人」「童謡殺人」について考える。いずれも、パースの記号学を元にした私の考えた探偵小説図式の中で検討する。

*以下はその図式を知らなくても読める筈であるが、パースの記号学に関する(特にイコン・インデックス・シンボルについての)基本的な知識は必要と思われる。

 

(1)探偵小説の事件の記述はある死体や状況を指示するものだが、この点を考えるにあたり示唆的なのが、パースによる「シンボルの退化形式」に対する考え、特に「単称的シンボル」に関する次のような考えである。

・単称的シンボル:現存する個物をその対象とする。

(例)子どもと一緒に歩いていて、私がそのある方向を指差して「あそこに風船がある」と言ったとしよう。その言葉は一つのシンボルである。しかし私は「あそこに風船がある」というシンボルを「指差す」というインデックスによって表現しており、そして私の言葉はその指標的行動によってある具体的な事実に関する情報を伝えている。

 探偵小説における「密室の中でナイフで刺された死体が転がっていた」という記述もこれと同様である。文という「命題的シンボル」がある特定の死体や個別の状況を指示する、というかたちで、命題的シンボルがインデックス的に機能することで、「単称的シンボル」になっていると言えるだろう*1

 

(2)見立て殺人においても、こうした〈命題的シンボルの単称的シンボルへの退化〉は起きている。例えばヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929)では、「誰が殺したコックロビン?『私だわ』、すずめが言った、『私の弓と矢でもってコックロビンを殺したの』」という歌と同じ状況の死体が発見される。ここでも、歌におけるシンボルが特定の死体という個物を指示しているといってよい。

 しかし見立て殺人には、それ以上のものがある。それは無論、童謡や歌を通して過去・現在・未来にわたる事件全体の構造や図式が示されることだ。ところでパースによれば、構造上の類似性を示すダイアグラムや図式はイコン(類似記号)である。したがって見立て殺人において、歌における一つ一つの文は確かにインデックス的ではあっても、歌全体は複数の事件全体のイコン(類似記号)として機能するのだ、と言えるだろう*2マザーグースの童謡「昔ばあさんがおったとさ、靴のお家に住んでいた…」を用いるクイーンの『靴に棲む老婆』(1943)でも、この点に変わりはないと思われる*3

 

 さて、ここでようやく『ダブル・ダブル』の話である。本作が「数え歌殺人」として、七年前に発表された『靴に棲む老婆』とわずかだが異なる点として、個々の殺人や死体の状況を表すものが「命題」ー 歌に現れるような文 ー ではもはやなく、「名辞」ー たった一つの単語 ー になっていることが挙げられる。この本で出てくる数え歌は、

 「金持、貧乏人、乞食に泥棒…」

である。「金持」、「貧乏人」といった一つの単語がそれだけで個々の事件を指示する。数え歌全体がイコンとして機能している点は同様だが、個々の事件を指示しているのはもはや「命題」ではなく、命題をさらに分解した「名辞」なのである

【以下、本作と『九尾の猫』の核心に触れる】

 

 さて、前回の記事で私は、『九尾の猫』が〈筋書き殺人の零度〉とでも言うべきプロットを抱えている、と指摘した。『九尾』では、三桁に及ぶカルテの束が連続殺人の一種の筋書きになっているのであって、これは先行するクイーンの「筋書き殺人もの」が徹底された姿なのである、と。この徹底化を上の考察から改めて考えれば、それは、先行作で見られた筋書き=「命題」群が、名前や体重、身長などを記したカルテの「名辞」群にまで還元された結果と言えるであろう。

 そして『ダブル・ダブル』は、『九尾の猫』における「筋書き殺人」のこうした名辞群への徹底化や還元を、「見立て殺人」においておこなったものだと見ることができる*4

 

 さらに、言うまでもないことだが、「あやつり」のテーマが導入されていることも、『ダブル・ダブル』の特筆すべき点である。探偵クイーンは、犯人の思惑に則った推理を披露し(ただし本作ではこの推理は「誤っている」訳ではない)、その結果、犯人に別の事件を引き起こさせてしまう。今、「見立て殺人」と「筋書き殺人」を仮に「なぞらえ」という同種のものとしてまとめるならば、『九尾の猫』という「なぞらえ」ものに、先行作で展開された「あやつり」のテーマを組み込んだのが、『ダブル・ダブル』と言えるかもしれない。そしてこの作品はさらに一歩を踏み出し、犯人の方が「数え歌」にあやつられる、という逆転の構図を打ち出すに至る。

 重要なのは、このあやつりというテーマの導入と、「あやつりーあやつられ」の逆転が決して「なぞらえ」ものに外在的ではない、ということだ。見立て殺人や筋書き殺人における「なぞらえ」は、本質的に「あやつり」を伏在させざるを得ない。例えば、クイーン初期における筋書き殺人の代表的傑作を思い起こそう。そこでは、「筋書き」を使って犯人が主体的に事件を引き起こしていた、と言えるだろうか? むしろ筋書きにあやつられるようにして犯人は事件を引き起こしていたのではないだろうか(そしてこれは『九尾の猫』においても例外ではない)。見立て殺人や筋書き殺人における「なぞらえ」はこのように、犯人の主体性を宙吊りにする。『ダブル・ダブル』は、見立て殺人における「あやつり」性を主題化し、さらには「あやつりーあやつられ」関係の逆転にまで踏み込むことで、探偵小説における犯人の主体性なるものを徹底的に疑問に付そうとした作品なのである*5

 とはいえ、数え歌にあやつられるようにして犯人が事件を引き起こして行かざるを得ない、という本作における「あやつりーあやつられ」の逆転は、登場人物の作者による恣意的な配置(ワルドー兄弟を商人とするなど)によっている、とも言えるかもしれない。こうした構図の逆転は、クイーンの後続作においてさらなる展開を見せることになる。

*1:[2/20夕方追記]この段落の内容には問題がある。例えば、「そこに死体がある!」のような発言は、指標性を伴ったシンボルであると言えるだろうが、事件に関する記述のすべてをインデックス的と捉えるのはやはり問題があろう。しかし次の(2)にみるような、「見立て殺人における童謡の文や命題がインデックス的である」というのはもしかしたらありうるかもしれない。今後の考察事項としたい。

*2:もっとも、これはパースの記号分類からは外れた考えにも思われる。というのも、彼にとって類似性を示す図式(たとえば設計図など)は「名辞的」であって「命題的」ではないからである。この点の考察は他日を期したい。

*3:この本がどうしても見つからず、本稿を書く前に参照することができなかった。記憶で引いていることをお断りしておく。

*4:第二次世界大戦後のクイーンが、大戦間の作品にみられるような、「読者への挑戦」を挟んだゲーム空間の創出というだけにとどまらず、いわば表現のレベルにおいても、命題の持っているような有意味性を剥奪しようとしていることは注目に値する。

*5:[2/21追記]シェイクスピアの『マクベス』の台詞から取った本書のタイトル『ダブル・ダブル』には、探偵クイーン自らが指摘する通り、様々な「二重性(ダブル)」が登場する。しかし探偵にも指摘されることないまま、残存する一つの「ダブル」がある。それは、数え歌の最後の登場人物「チーフ」が、リーマからその呼び名で呼ばれる探偵クイーンを指すと同時に、あらゆる点で「チーフ」である犯人ウィンシップをも指す点である。ここには、「チーフ」=「探偵/犯人」という、探偵小説のジャンルにおける探偵と犯人の相同性が暗示されている。