Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

後期クイーン雑考:『悪の起源』と『最後の一撃』を中心に

f:id:daisuke_nakamura:20220110115815j:plain

 一般に「後期」と言われる時期 ー『災厄の町』から『最後の一撃』まで ー におけるエラリイ・クイーンの主要作品を読み返してきた。その再読を通して思ったことを、ここに簡単に書いておきたい。この記事は雑考、あるいは備忘録のようなものであり、今後の思考のための叩き台という感じが強い点をお断りしておく。

*以下、『悪の起源』(1951)と『最後の一撃』(1958)に関するネタバレがある(『九尾の猫』と『ダブル・ダブル』の内容にも触れている)。

【以下、作品の真相に触れる】

 

 以前の記事でも書いたように、『災厄の町』から『九尾の猫』へと、「筋書き殺人」のある徹底した還元がなされており、後者の作品で見出されるのは、〈筋書き殺人の零度〉あるいは〈筋書きなき筋書き殺人〉とでもいうべき姿であった。

 「筋書き」あるいは「見立て」とは複数の事件を結びつけるものであり、そこには、個々の事件における手がかりを読むための鍵の側面、つまり「手がかりの手がかり」とでもいうべき側面がある*1。しかし後期クイーンに特徴的なのは、この「筋書き」や「見立て」から物語性とでもいうべき側面が徐々に脱色されていく点にある。

 「見立て殺人」であれば、これも先の記事で書いた通り、『靴に棲む老婆』から『ダブル・ダブル』へと、見立てに使われる童謡はかなり簡素化されている。前者であれば、文で綴られた童謡が用いられるが、後者では、名の連鎖のみでできた数え歌が用いられる。これは『九尾の猫』における還元のあり方に対応している。

 では「筋書き殺人」と「見立て殺人」が、それぞれ『九尾の猫』と『ダブル・ダブル』とで、「なぞらえが文から語やデータへと還元された」のだとして、後続作品の『悪の起源』と『最後の一撃』ではどうだろうか?

 

1.『悪の起源』では、様々な事件(砒素の混入したまぐろ、投げ込まれた死んだカエル、送付されるワニ皮の財布…)は、「魚・両棲類・爬虫類・鳥類といった人間へと至る進化の段階」に見立てられている、という謎解きがなされる。一つ一つの事件が生物学的なある類に対応させられ、全体を繋ぐ糸は「進化論」という訳だ。そこには、筋書きやマザーグースのような物語性はもはやない。ただその代わりに、「進化」というより大きな時間性を伴ったものが見立てとして導入されている。

 

2.『最後の一撃』もこの路線の継続として考えられる。この作品で次々と送りつけられる20に及ぶカードと品物、それらは「フェニキア語の20のアルファベット」になぞらえられている、と謎解きされるのだ。出来事・事件をつなぐのは物語でも、あるいは進化の時間性といったものでももはやない。ただの「アルファベット順」なのである。

 そして、この作品で犯人特定の決め手となる推論はさらに読者を唖然とさせるものだ。それは、「カードの裏面に書かれていた記号は、実は本の校正に使われる記号でした」というものだ。ここでは、〈ある記号は別の記号でした〉という形で、記号を別の記号に「置き換え」ることを介して答えが与えられることになる*2

 

[初期クイーンとの差異]初期作品では、ある手がかりから「情報」すなわち「命題」を取り出し、その複数の命題を連鎖させることで論理的な推論を作り出していた。

 探偵小説である限り、勿論、後期クイーンでも最終的には命題を用いて推論はなされる。しかし、ある手がかりは命題や文といった情報にまず翻訳されるのではなく、手がかりはただの名辞や語、さらには記号といったものに一度翻訳される。これが後期クイーンの「異形」とも言える推論の特徴といってよい。中西理氏が指摘しているような、クイーンの後期作品で顕在化する「論理のように見えて論理を超えたところにある」もの、「論理の特異性」とは、一つにはこうしたところにあるように思われる。

 ともあれ最低限言えることは、『九尾の猫』と『ダブル・ダブル』の達成から『悪の起源』を経て『最後の一撃』へと、「手がかりを文・命題としてではなく、語・記号として読む」クイーンの歩みは継続され、深化している、ということである。

*1:この意味で、「見立て」や「筋書き」は、偽の手がかりやメタ手がかりを考察する「後期クイーン的問題」と密接な関係がある。

*2:「置き換え」は、フロイトによれば無意識のおこなう基本作業であり、その点でここで披露される推理は疑いなく「精神分析的」である。とはいえ、「抑圧」などのメカニズムがこの作品で主題化されている訳ではないので、やはり最後の推論を精神分析的だ、とだけ言ってすますこともできないだろう。