エラリー・クイーンの『靴に棲む老婆』(1943)を宇野利泰訳で読み返したので、備忘代わりに少し書き留めておきたい。
以下、本作の核心だけでなく、後期のクイーンの主要作品(『十日間の不思議』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後の一撃』)さらには『ギリシア棺の謎』と『Yの悲劇』についてもそのモチーフには触れてしまうので注意されたい(どれだけの人が読んでくれるんだろうか…)。
【以下、作品の真相に触れる】
『靴に棲む老婆』は、『ギリシア棺』同様、犯人が探偵の推理を使って自分とは別の人物を犯人に指摘させ罪を逃れる、という構造が出てくる(とはいえ、『十日間』のように、探偵の推理を使ってさらに別の事件を引き起こすわけではない)。同作との違いは、その「別の人物」をこそ真犯人は操っていた、という点にある。探偵を操って犯人と推理させる当の人物を、まさに犯人が操っていた、という訳だ。
そしてもう一つ重要なのは、勿論、マザー・グースという「見立て」の導入だ。以前書いた通り、後期のクイーンには筋書き殺人の系列と見立て殺人の系列がある*1。『靴に棲む老婆』も加えて新たに書き直してみよう。
筋書き殺人:(『Yの悲劇』→)『災厄の町』→『九尾の猫』
見立て殺人:『靴に棲む老婆』→『十日間の不思議』→『ダブル・ダブル』→
『悪の起源』→『最後の一撃』*2
そして後者の系列は「操りもの」の系列でもある*3。実際、『靴に棲む老婆』でも操りのモチーフは登場する。操りと見立て、双方のテーマを導入したことがクイーンの作品群における本作の位置、と言うことになるだろう。とはいえ、見立てと操りとが本質的に関係する訳ではない(つまり探偵に対する「操り」と連関する訳ではない)。ただし、操られていた者(サーロー)が、マザー・グースという見立てをしてしまうことで、操っていた者(チャーリー)を困惑させるという〈見立てによる力関係の逆転〉は、後続するある作品でさらに展開される点で注目に値する。また『災厄の町』という筋書き殺人ものの後で、後期作品の主要なモチーフとなる「見立て」が本作で導入されたことの意義は、やはり非常に大きいと言うべきだろう。
*「筋書き殺人」とは、真犯人の近くにいる者が書き残した個人的な文書に沿って殺人事件が起きることであり、「見立て殺人」とは、個人的な文書ではなくマザー・グースや聖書など(あえていえば)読者の世界と共通する文書に沿って殺人事件が起きることである、とひとまず定義しておく(おそらくより適切な定義がある)。
「見立て」と「操り」の連関ではこのようにいささか弱い本作であるが、しかし前期作品に近い推理が展開される点には大きな魅力がある。
後期の見立て作品における「推理」の大きな特徴は、連続する事件から「それらが何かに見立てられていること」を導出する(個別の事件が見立てのどんなファクターに対応しているか読む)点にある。これは、物的な手がかりや時間や空間による機会の限定から犯人を特定する前期作品の「推理」とは異なるものだ。そして、『災厄の町』の後続作品である『靴に棲む老婆』は、時期的には確かに後期に属するものの、「株式メモ裏の鉛筆の跡」という物的な手がかりと、告白書を読む機会という二点から犯人を絞り込んでいく推理過程は前期作品のそれを思わせる。この推理は優れたものと言えるだろう*4。
このように、「見立て」と「操り」を併せて導入しつつも両者の連関が弱いという点で、後期の傑作群の達成には及ばないものの、前期作品と通底する推理が楽しめるという点で、本作『靴に棲む老婆』は過渡期の秀作と言えるだろう。
※字句を一部修正した。
*1:[追記]以前の記事の本文では、「二つの筋書き殺人の系譜がある」と書いていたが、注の追記で「筋書き殺人の系譜と見立て殺人の系譜」と呼んだ方がよいと指摘した。
*2:[追記]『フォックス家の殺人』を後期クイーン作品の中でどう位置付けるか、というのはなお課題である。クイーンが自身の思考を押し進めていった結果、クリスティー的な問題系と接触した作品、と考えることができそうであるが…。
*3:[追記]それゆえ「操りもの」の系列と見る場合、『靴に棲む老婆』の前に『ギリシア棺の謎』を入れるべきである。
*4:告白書と株式メモ、どちらが偽装であったかが反転するところは、勿論いわゆる「後期クイーン的問題」に属する。またこの問題を踏まえると、推理に瑕疵がない訳ではない(株式メモ裏の鉛筆の跡が偽装かもしれない、また告白書を保管した警察官が犯人かもしれない、など)。しかし私は後期クイーン作品を読む際に、「後期クイーン的問題」に大きくコミットしない。私が重視するのは「犯人による探偵の推理の使用」の側面のみである。