Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

二つの系列の交錯:エラリイ・クイーン 『盤面の敵』

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 エラリー・クイーン の『盤面の敵』(1963)を再読した。これは『災厄の町』以降のクイーン作品群において、特筆すべき地位をもつ作品と思われる。その「特筆すべき地位」をここでは、本作のネタを割りつつ示していきたい(訳及びページ数はハヤカワミステリ文庫の青田勝訳による)。また注において『十日間の不思議』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』のモチーフにも触れる。

 なお現在ではよく知られるようになった通り、本作はダネイのプロットを直接リーが書き起こしたものではなく、一度シオドア・スタージョンがそのプロットから執筆したものである*1。このハウス・ネームのようになった時期の「エラリー・クイーン」をそれまでのクイーンとどう関係づけるか、というのはクイーン研究において重要なテーマであろうが、本記事では差し当たり区別しないで扱う。ただし、この作品を読み終えた読者であれば気付くことだが、スタージョンの存在は本作のプロットと本質的に関連していように思える。

【以下、作品の真相に触れる】

 

1.二つの系列と『盤面の敵』

 以前の記事で、私は後期クイーンを「筋書き殺人の系列」と「見立て殺人の系列」の二つに分けた。そして、後者はまた「操り殺人の系列」と一致する、とも指摘しておいた。

*「筋書き殺人」とは〈真犯人の近くにいる者が書き残した文書〉に沿って殺人事件が起きることであり、「見立て殺人」とは、マザー・グースや聖書など〈読者の世界と共通する文書〉に沿って殺人が起きること、と定義する。

 この二系列を踏まえると、本作『盤面の敵』の特徴は、「筋書き」と「見立て」両方の要素が共存している点にあると言える。ごく簡単に指摘すれば

ー ウォルトに向けて「彼」が書いた複数の手紙=殺人の「筋書き」

ー 「J」「H」「W」「H」のカード=神の名の四文字の「見立て」

となる。

 しかし重要なのは、この共存がどのようになされているか、である。この点を考えるためには、少し迂回が必要である。

2.迂回:筋書き・見立て・操り

 先述した通り、見立て殺人の系列はまた「操り」の系列でもある。この系列の特徴は、事件の手がかりを直接命題にして推理するのではなく、手がかりを「見立てという別の記号」に翻訳する作業を挟む点にある*2。この作業が「操り」と密接に関わるのは、登場人物とりわけて探偵クイーンに対して犯人が「この見立て記号を読ませる」という形でなされ、クイーンを操ることが多いからだ。

 私が「筋書き殺人」として分けた系列に「操り」のモチーフを見て取る論者もいる*3。しかしここでは操りを、「ある人物が他の人物を操り事件を引き起こさせる」という狭い意味でとる。そうすると、ある人物Aが殺人プランの筋書きを別の人物Bに与えて実行させる、というケースは起こりにくいことが分かるだろう(例えば、「Aが弱みを握ってBに筋書きを与えて操る」のだとしても、この筋書き自体がAの弱みになりうるし、実際後期クイーンではこうした安易な犯罪計画は出てこない)。むしろ、「事件を直接手掛ける者をそれと悟らせることなく操る」ことが操り手にとって安全なのであって、そのための道具立てが(主に探偵に別の真相を読ませる)「見立て」なのである。もう少し正確に言えば、これまた以前も書いた通り、「筋書き殺人」にも「操り」の諸テーマは伏在しているが、それが顕在化するのは「見立て殺人」においてなのである。

3.『盤面の敵』における交錯

 改めて『盤面の敵』に帰ろう。まずこの作品の「見立て」モチーフから。「J」「H」「W」の3枚のカードを最初、探偵と警視の両クイーンはジョン・ヘンリー・ウォルトの名前の頭文字と考える。ここにもう一枚の「H」が加わると探偵クイーンは悩み、最終的に「狂気」と手紙の「Y」も加えて「神の名の四文字」という答えを導く(JHWH→Jehovah→Yahweh→Y)。ポイントは、最初の推理は誤ったものであるが、真犯人がそう誤導しようとしたわけではない、という点にある。つまり「見立て」と「操り」は(少なくともこれまでの作品のように)連関している訳ではないのである。

 次に「筋書き」モチーフを見てみよう。そこに現れるのは、「神」というウォルトの別人格による「手紙という筋書き」がウォルトを操るという構図である。ここには、先に「筋書きと操り」の間に書いたような不備はない。神という「無限な」存在者の指示に、容貌も知力も地位もゼロの男=ウォルトは服従「すべき」と考えているからであり、そうである以上、別人格としての神が弱みを握られ、裁かれることなどないからである*4。クイーン作品群における本作の特筆すべき地位とはそれゆえ、「筋書き殺人」に「操り」のモチーフを明示的に導入することに成功した点にある。クイーンは、「見立て殺人」と重ね合わせてきた「操り」の着想を「筋書き殺人」へと移すことで、二つの系列の交錯を実現したのである。

補足:〈犯人ー探偵〉と〈作家ー読者〉

 以上が本記事のメインの考察であるが、少し足を伸ばしておく(考えが少し荒くなるが、ご容赦願いたい)。作品の最後で探偵クイーンはランボーの「Je est un autre」(私は一人の他者である)とその一解釈「One is played upon, not player」を引き、ウォルトの中にいる別人格を解釈している。そしてこれは勿論、事件という盤面を挟んで「犯人」と相対する「探偵」についても言えることだろう。ウォルトの中にいる他者としての別人格はなんと「神」であった。では探偵クイーンの中にいる他者とは何か?

 彼が結論にたどり着くきっかけ、それは「バアルゼブブ」という悪魔の名をもつ犬(DOG)がひっくり返ったところ(GOD)を見ることによってであった。この重層性は慎重に読まれねばならないが、ここではひとまず単純に、探偵における他者が「悪魔」によって示唆されていることに注意しておこう。「犯人/神」と「探偵/悪魔」という構図は、ポオ以来示唆されてきた〈探偵と犯人の精神的同型性〉の一つと言えるだろう*5

 さらにもう一つ。解説で訳者の青田氏は、作中のクイーンが盤の向こう側の相手である犯人と悪戦苦闘しているとした上で、これを作者と読者の関係へと敷衍して「彼はこの小説でなにをいおうとしているのだろう?」(376頁)と問いかけている。この問いかけに少しだけ応じてみたい。

 私はここで、『盤面の敵』という作品を、おそらくは作家クイーンの思惑を超えて、彼の作品群の中で位置付けた、言い換えれば、この謎めいた作品に一つの解を与えた。しかしこれで、読者である私が作者に勝利したことになるのだろうか? 笠井潔はどこかで、本格作品の作者は、読者に解決を見破られることで、作品の卓越性を示し勝利するのだと、いわば「負けることで勝つ」のだと述べていた。とするならば、私が後期クイーンの作品群を仮に読み解いたのだとしても、その敗北によって作家クイーンは自らの作品群の卓越性を示し勝利することになる。逆に勝利したはずの読者たる私は、クイーンの見事さに感嘆し、敗北することになる。「敗北によって勝利する」、「勝利によって敗北する」という、この(いわば第三項による弁証法止揚なき)勝利と敗北の関係こそ、探偵小説という「競技(Play)」の本質をなしているのかもしれない*6

*1:[追記]フランシス・M・ネヴィンズによれば、「フレッドの梗概を基に、シオドア・スタージョン(1918-85)が書きあげ、刊行前にフレッドとマニーが、スタージョンの原稿にかなりを手を入れている」とのこと(『エラリー・クイーン 推理の芸術』、飯城勇三訳、国書刊行会、2016年、320頁)。

*2:『ダブル・ダブル』においては、事件はマザー・グースの童謡における「項」と同一視され、『悪の起源』では事件を進化論における「段階」と同期する。そして『十日間の不思議』では、ハワードの諸行為が十戒の「戒律」と対応付けられる。

*3:例えば小森健太朗「『攻殻機動隊』とエラリイ・クイーン  ー あやつりテーマの交錯」[2005]、『神、さもなくば残念』、作品社、2013年、160-170頁を参照。

*4:「容貌も、知力も、社会的経済的地位ともゼロに近い」ウォルトだからこそ、「無限に近づいたような人格を別に作りだした」(365頁)とされる。また彼は「義務に忠実」であり、彼の読む聖書に「すべきである」が詰められていることが強調されている(251頁)。

[以下追記]法月綸太郎は、こうしたゾンビのようなウォルトと超越的な存在との間に「不思議のひと触れ」が生じるのは、スタージョンがダネイの神学的プロットを自分の領域に引き寄せた故ではないか、としている(『盤面の敵はどこへ行ったか 法月綸太郎ミステリー塾疾風編』、2014年)。

*5:そして、この「私の中にいる他者」からは、本記事の最初に書いた通り、本作におけるスタージョンの存在を思い浮かべずにはいられない。ダネイとリーの重ね合わせによる作家である「エラリー・クイーン」の中に、スタージョンというた他者が入り込むことで本作は初めて成立し得た、という作品成立の事情とプロットの並行性をどう考えるべきだろうか。

*6:これは勝利と敗北が直結する点で、スポーツにおける「勝負に勝ち、戦いに負ける」などとはやはり異なったものだろう。ただし、読者が正しい推理をせず、作者に「負ける」ケースもきちんと考えないといけないのではあるが…。