Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

記号の乱舞:アガサ・クリスティー『五匹の子豚』

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 アガサ・クリスティーの『五匹の子豚』(1942)を再読した。言うまでもなく「大傑作」である。ここでは、1. 「謎」に関する本作独自の扱いを見た上で、2. 登場する伏線、ミスディレクションダブルミーニングのあり方を立ち入って分析したい。実際、本作に登場する乱舞ともいうべきこれら記号の多様性は、おそらくクリスティー作品史上でも驚くべき水準に達している。

 なおネタバレは2. において行うが、1. においても作品の興趣に触れる部分がある(引用、及び丸括弧内の頁付はハヤカワ文庫の山本やよい訳による)。

1. 「謎」の身分について

 日本で「ミステリー」とも呼ばれる探偵小説において、「謎」は決定的な(それでいて、それ自身きわめて謎めいた)役割を演じる。そして『五匹の子豚』における「謎」の身分は、探偵小説史上でもすぐれて興味深い、独自のものと言える。

 いやそんなことはない、謎はむしろ分かりやすく冒頭に提示されているではないか ー そう思われるかもしれない。確かに「序章」のカーラ・ルマルションの話を聞いた我々は、「キャロラインは夫クレイルを本当に殺していないのか」、「クレイルを殺した犯人は誰か」といった謎が本作を導くことを知る。それは確かにその通りである。だが、ここで探偵小説における「謎」についてもう少し考えてみる必要がある。

 実のところ、ある事象が「謎」であることが分かるのは、探偵がそれをまず指摘することを通してである。つまり ー これはTwitter上での郷原さんとのやりとりを通じて気づかされたことなのだが ー 「そこに不思議な謎がある」ということに、警察も、ワトスン役も最初は気づかないのであって、そこに注意を向けることこそ、探偵の最初の能力ということになる。この意味で、「謎」は「手がかり」と同義ではないにせよ、いわば「原−手がかり」としての役割を演じると言って良い(実際、本作においても、解決の部分でポワロは事件の「鍵」として二つの謎を挙げている)*1

 翻って『五匹の子豚』である。この作品の特徴は、我々読者が、五人の証言を聞く現場に、そして五人の手記に、探偵ポアロと共に立ち会うことにある。その際、解決編とでもいうべき第三部に至るまで、ポアロがその中で何を謎と、手がかりとみなすか、は伏せられている*2。このかなり徹底した態度は、「物的証拠」の登場する通常の事件であれば不自然に感じられることだろう。だが、過去の事件を扱う「回想の殺人」という設定は、その不自然さを回避することに成功している。

 しかしこの成功は同時に、それまでのクリスティー作品とは、あるいは他の作家の作品とは、きわめて異なった緊張感を読者に強いることになる。何を事件の手がかりとしたらよいのか、そして、出発点とすべき「謎」が何であるのか、本来であれば探偵がヒントを与えてくれるこうしたことさえ、我々は自分で考えながら読んでいかねばならないからだ。そう、本作の「謎」は、フーダニットやハウダニットといったところには実はない。そうではなくむしろ

 

 何が謎なのか

 

といういわば一つ上のレベルの「謎」が問題となっているのである。これこそ、本作の核心といってよい*3

 この謎の設定が一層興味深く、独自なものとなるのは、これが「記述」の水準に跳ね返ってくる点にある。手がかりや謎がどこにあるか明示されない、ということは、我々はどこに手がかりがあるかを記述の中で探らねばならない、ということだ。言い換えれば ー この点は中西理氏の優れたクリスティー論にとりわけ学んだことだが ー あらゆる記述が伏線かもしれないという意識を持ちつつ、読み進めざるを得ないということである。これは、探偵小説の読書経験として、かなりラディカルなものだと言えるだろう。

 次節では、この「記述」の水準、すなわち、伏線、ミスディレクションダブルミーニングといった記号がどのように登場しているのかを具体的に見ていくことにする。

【以下、作品の真相に触れる】

 

2. 伏線、ミスディレクションダブルミーニング

2-1. 伏線

とはいえ、勿論本当にすべての記述が伏線になるわけではない(探偵小説においてある記述が伏線であったかどうかは、解決編との関係においてのみ決まる)。本書の伏線は多く存在するが、代表的なものを挙げておこう。

 

バッグに入っていたジャスミン香水の小瓶の中身を捨て(83頁)

ジャスミンの香りを嗅いでいた。(169頁:メレディスの証言)

アンジェラがクレイル氏にペーパーウェイトを投げつけて(327頁)

部屋に背を向けていましたので。エルサに説明していたのです。(356頁:メレディスの証言)

 

 伏線とは、ひとまず「事件を何ら指し示すとは思われていなかった記述が、解明部分において事件のある相を指し示すことになる」ような記号としておこう。上記のうち最初の2つ、ジャスミンの香りの部分は、まさにクレイル夫人が実験室で香水の中身の瓶を捨て、毒薬コニインに詰め替えたことを示唆する。アンジェラの件は、クレイル夫人(キャロライン)が「アンジェラが犯人である」と誤解する背景となる。そして、今挙げた四つの伏線のうち、もっとも見事なものは最後のものだろう。これはメレディスが、クレイル夫人が毒薬を盗んだところを、扉を背にエルサと話していたため見ていない、と告げているところだが、立場を反転させると、彼と向かい合っていたエルサは扉の中のその光景を見ていたことになる。ある記述における〈立場の反転〉が推理に用いられる訳だ。巧みである。

 

2-2. ミスディレクション

 ミスディレクションについてはここでは一つだけ挙げるに留めよう(次の「ダブルミーニング」のところで、別のミスディレクションを扱う)。

 

ある晩、フィリップ・ブレイクの泊まっていた部屋から姉が出てきたんです。(241頁:アンジェラの証言)

 

 ミスディレクションとは、伏線とは対照的に、「事件を何らか指し示すと思われていた記述が、解明部分においてそうではないことが明らかになる」記号である。今挙げた部分に限らず、フィリップがクレイル夫人を実は愛していた、という記述は複数見られるが、これらはフィリップを犯人とみなすよう読者を誤導するものであって、事件という出来事とは無関係であることが明らかになる。

 

2-3. ダブルミーニング

 本作最大の特徴として指摘されるのが、このダブルミーニングの重層的な取り扱いである。ダブルミーニングとは、簡潔にいえば、「ある意味を指し示すと思われていたものが、実は事件の別のことを指し示すことが明らかになる」ような記号のことである。ミスディレクションと伏線の統合された記号である。ただしその統合のあり方は様々だ。ここでは三つ挙げよう。

A. まず一つ目。

 

あの子の荷造りはおれがやる[I'll see to her packing.](291頁:メレディスが聞いたクレイルの発言)

 

 この発言は、アンジェラの荷造りのことを示唆すると思われていたが(ミスディレクション)、実はメレディスやフィリップの聞き間違いで、エルサを追い出すことを告げる発言「あの子には出て行ってもらう(I'll send her packing)」 であった(伏線)ことが明らかになる。これは、「聞き間違い」ということで、記述それ自体が別のものに書き換わってしまうようなタイプのダブルミーニングである*4。ただし、この記述が「ミスディレクション」として機能するのは別の記号との関係においてである。

 その別の記号とは「アンジェラのことを相談していた」(291頁)というクレイル夫人の嘘である。これ自体がミスディレクションとして機能する訳だが、この嘘を聞いた結果、メレディスは「あの子の荷造りはおれがやる」というのはアンジェラを話題にしたものなのだ、と思い込んでしまう(これが結果として読者を誤導することになる)。別のミスディレクションとの関係で、ある記号がミスディレクションとして機能し、最終的にそれが ー 言葉の置き換えを通して ー ダブルミーニングとなる、とまとめられるだろう。

B. 次のダブルミーニングは、本作においてひときわ優れたものである。

 

今日はどれもいやな味がする![Everything tates foul today.](79頁:クレイルの発言)

 

 これは先のものと異なり、この記述単独でダブルミーニングを形成する。当初は今飲んだ、クレイル夫人が運んできたビールのことを指していると思われていたのが、「どれも(everything)」の部分に注目することにより、既にいやな味の何かを飲んでいた、となる訳だ。短い記述の中に誤導と伏線の双方が含まれている。

C. しかし本作で最も素晴らしいダブルミーニングはこれではない。本作最大の記号、それは

 

 クレイル夫人が16年前にアンジェラに当てた手紙(233-234頁)

 

である(ここではその記述を具体的に書かない)。この手紙を読んだ後、ポワロは「お姉さんは有罪で、罪を償うことによって心の安らぎを得た」とアンジェラに指摘し、「〔クレイル夫人〕本人の言葉までが不利な証拠となっている」(235頁)と心中で述べる。こうしたポワロの発言はミスディレクションであり、この発言との関係で、我々読者はこの手紙の内容を誤導される(この点はA.と同様)。しかし最後に、この手紙の真の内容は、「クレイル夫人がアンジェラを犯人と勘違いし、彼女を守ろうとしていた」ものであることが明らかになる。確かにダブルミーニングである。

 これだけ長い記述に、ダブルミーニングを仕掛けられるというのは驚くべき手腕と言えるだろう(ちなみに、この手紙を「手がかり」として読者が読みにくいのは、194頁に現れるもう一通の手紙、クレイルがエルサに当てた手紙と対をなしているからだ)。

 

 私は前回の投稿で、エラリー・クイーンは「記号の不在という記号」によって、探偵小説の記号の肥沃化に貢献した、と書いた。このことに間違いはない。しかし、クイーンはまずもって手がかりと魅力的な謎と推理の人、すなわち「記号を読む」ことに重心がある作家である(私の記号図式で言えば、クイーンは「第三次性」の人である)。私の記号図式における「可能記号」ー 伏線やミスディレクションなど ー の多産性という点においては、クリスティーが上を行っているように思われる(クリスティーは何より「第一次性」の人だ)。

 

 『五匹の子豚』は、起きた事件内容そのものを見れば、ごく単純な、詰まらないとさえ言えるものである。にもかかわらず、乱舞する記号の意味を明らかにするポアロの推理が、「絵の意味の反転」として最後に焦点化するとき、そこに、千街晶之氏が解説で述べているような「名犯人」が立ち上がると我々は感じる。単純でつまらないとも思える内容が、記述と推理の関係によって反転し、忘れがたい光景を一瞬幻視させる。これこそ、「ミステリー」を読むという非凡な経験に他ならない。

 

*10/14 入手した英語版原書(HarperCollins, 2013)を参照して一部改訂。

*1:私の作った「探偵小説の記号図式」においても(例えばこちらを参照)、謎は手がかりと同様、パースの言う「名辞」 ー 情報を与えるが、まだ命題にならない記号 ー に対応する。謎とは記述のうちに与えられるものではなく、あくまで「読まれる」ものなのである。

*2:勿論、同種の先例が存在しない訳ではない。ここでも偉大なる先達はポオである。新聞の資料などを探偵の推理なしに要約的に前半で提示する「マリー・ロジェの謎」がそれだ。

*3:私はかつてTwitterで、この「何が謎なのか」はクイーンの『十日間の不思議』において問題になっている、と呟いた。だが改めて『五匹の子豚』を読んでみると、クイーンのこの最大傑作の問題意識はまた別のところにあるように思われる。クイーンの『フォックス家の殺人』が『五匹の子豚』を踏まえているだろうことは、例えば中西理氏のこちらの記事で指摘されているが、そこから半歩踏み込んで、『十日間の不思議』と『五匹の子豚』の関係についてはいずれまとめてみたい。

*4:それゆえ厳密には「ダブルミーニング」以外の概念をこの記号に与えた方が適切であろう。

[11/29追記]この"I'll see to her packing"と"I'll send her packing"の取り違えは「誤認」、すなわち「双子の取り違え」同様、私の図式で言えば[2-1]類似性による誤認(のトリック)に対応するだろう。