Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

手がかりか、ミスディレクションか:アガサ・クリスティー『カリブ海の秘密』

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 アガサ・クリスティーの『カリブ海の秘密』(1964)を読んだ。後期クリスティーについては未読作品もあり、もう少し諸著作の分析を進めねばならないが、本作にはこの時期のいくつかの特徴が見られるように思った。伏線、ミスディレクション、手がかりの関係に注目して、簡単に検討してみたい。

 なお以下で用いるのは永井淳訳(クリスティー文庫、2003年)である。

【以下、作品の真相に触れる】

 

1.伏線の張り方

 本作のポイントとなる場面は作品の第1章で早速描かれる。それは勿論、パルグレイヴ少佐がミス・マープルに「医者から聞いた連続殺人」について話し、その犯人が写っている男性の写真を出そうとして、思いとどまる場面である。ミス・マープルは彼女の「右肩ごし」に、少佐がある人物を見て思いとどまったのではないかと当初考える(そして少佐は後の章で命を落とす)。

 全体の鍵となるこの場面は最終的に次のように解決される。パルグレイヴ少佐の「左目」は「義眼」であり、彼女の右肩ごしに後ろを見ることはできなかった。実は彼は「右目」で見た、左側にいる人物の姿に驚いたのである。そのとき「左」にいた人物はケンドル夫妻であり、事件の真犯人はティム・ケンドルということになる。

 問題は、こうした「義眼」「右目と左目」「ケンドル夫妻の位置」といった情報がどこで与えられていたか、である。その伏線は実のところ、各所に散りばめられている。

(1)義眼について

 この点は、まず最初にさらりと書かれている。冒頭のパルグレイヴ少佐の人物描写のところに「義眼」(10頁)とある。

 より明示的に書かれているのは、後半のセニョーラ・デ・カスペアロとミス・マープルとの会話で、ここで少佐は「斜視」だったと述べるカスペアロに対して、ミス・マープルは「少佐の片目は義眼でした」とはっきり述べている(260頁)。ここは伏線というよりも、読者の注意が向けられるという点で「手がかり」に近い記号と言えるだろう。

 しかしここだけでは右目と左目、どちらが義眼なのか判然としない。

(2)右目と左目

 私の読み落としでなければ、「左目が義眼である」という明確な記述はない。この点は実のところ、ある記述から簡単な推論をおこなう必要がある——そしてその推論は非キリスト教文化圏の人にはやや難しいと思われるものだ。ミス・マープルはカスペアロの言葉が事件解明のヒントになったとして、次のように述べる。

彼女は〔…〕彼の目は悪魔の目だとかばかげだことをいったんですよ。そこでわたしがあれは義眼のせいで、彼のせいにするのはかわいそうだとかばったら、彼女は少佐の右の目と左の目がそれぞれ別の方向を見ていた、つまり斜視だったといったんです〔…〕。(340頁)

 実際カスペアロは、少佐は「悪魔の目を持っていた」と述べている(260頁)。ここで、「悪魔」に近い人物を、「右側(right)」ではなく「左側」に配した福音書の記述を想起しなければならない*1。つまり、ミス・マープルはカスペアロとの対話を通して、「悪魔の目」とは「左目」のことであり、そちらが義眼であったのだ、ということに気が付くのである。ここはやや難しい伏線だと言わねばならないだろう。

(3)ケンドル夫妻の位置

 少佐が慌ただしく写真を隠す場面では、「少し離れた場所に座っているティム・ケンドル」と書かれているだけである(26頁)。ケンドルが「左側」にいたという記述は、後でミス・マープルの回想の中に現れる。「左手の、ホテルの方角へ少しはなれた場所に、ティム・ケンドルと彼の妻がいた」(50頁)。

 

 このように一つの重要な場面を解明するための伏線は、冒頭(10頁)と前半(50頁)、そして終盤(260)と広く散らばっている。このことは推理小説において、何もおかしなことではない。だが本作において、あるいはこの時期のクリスティーにおいて特徴的と思われるのは、「こうした伏線の所在がしばしば探偵の推理で明確に振り返られない」点にある。例えば(3)について、最後の推理で「少佐が亡くなった直後に思い出したことですが、左側にケンドル夫妻がいました」という形で改められることはない。読者は積極的に読み返し、その伏線を——確かに見出すことに大きな困難がある訳ではないにせよ——見つけ直さねばならないのだ。

 この時期のクリスティー作品の特徴の一つ、それは「伏線が各所に散らばり、ときにそれらの具体的な場所が解明において明示されない」点にある。クリスティーは実のところ、普通に思われている以上に「難しい」作家であり、再読を強く要求するタイプの作家なのである。

2.ミスディレクションと手がかり

 この作品における、最大の手がかりの一つ、というよりも事件全体の構造を暗示するもの、それは勿論、「パルグレイヴ少佐が医者から聞いた過去の連続殺人事件」——しばしば「浴槽の花嫁」となぞらえられる——である。その「男性の殺人犯」は誰か? これが作品を駆動する最初の謎であり、連続殺人事件の構図(自殺未遂の後、自殺と見せかけて妻を殺す)を一つの手がかりとして我々は読み進める。

 しかし興味深いことに、クリスティーはここに、もう一つの「過去の殺人事件」を重ね合わせる。それは、「パルグレイヴ少佐が別に話していた女性の犯罪者」のことである(234頁)。それはどうやら、グレゴリー・ダイスンの先妻を葬り、自ら妻の座におさまったラッキーのことではないか、そう思われるように書かれている。

 この「男性の犯罪者と女性の犯罪者の対置」は本作の重要なポイントである。実際、モリー・ケンドルが自殺未遂を引き起こした箇所で、もし「女性の犯罪者」というミスディレクションがなかったとしたら、読者はその夫であるティムが過去の連続殺人と同じ構図の事件を繰り返そうとしているのではないか、という疑いに比較的簡単に到達してしまうだろう。だが、「男性と女性」というシンプルな対照関係の効果により、読者はこの疑いにそう簡単に到達することができない

 

 後期クリスティーのもう一つの特徴、それはこうした〈手がかりとミスディレクションの対照的配置〉にあるように思われる。推理小説である以上当然ではないか、そう思われるだろうか。だが、シンプルに二項対立的な仕方でミスディレクションと手がかりを配置してしまうことは、かなりの賭けであり、推理小説について常に用いられる技法ではない。「どちらかが手がかりで、どちらかがミスディレクションであろう」——この二者択一を設定しても騙しきれるとクリスティーは踏んでいるのである。後続作品において、この配置はさらに「伏線、手がかり、ミスディレクションの判別不可能性」といった仕方で展開されるように思われる*2

終わりに

 このように、伏線、手がかり、ミスディレクションのある独特な配置が、この時期のクリスティー作品の独自性を形作っているように思われる。それは、「これら三つの探偵小説記号の不定性」とでも言うべきものだ。勿論、解明の後では、「あれはミスディレクションだったのだ」と読者は確定することができる。だが、読んでいる最中の不定性、つまり「どちらかはミスディレクションで、どちらかは手がかりや伏線であろうが、はっきりしない」感覚は、クリスティーに固有のもののように思われる。

 最後に、こうした彼女の作風をいわば自己言及的に表しているフレーズを抜き出しておこう。ミス・マープルはある人物に「旅行中に会った人のことなんて、ごくわずかしか知らない」(254頁)と述べる。こうした旅先の〈知識の不確定性〉は次のようにまとめられる。

それでもなお、彼女の思いはまた出発点に戻ってしまうのだった——人は相手の言葉をそのまま信じているだけなのだということに。人はその点を警戒しなければならないのかもしれない。たぶん……(256-257頁)

 「言葉」を「そのまま信じ」、また「警戒」すること。クリスティーを読むとはその揺れ動きを体験することでもある*3

 

【補足】本作でミス・マープルはラフィール老人に援助を求めるが、彼女がこの人物を信頼した理由の一つは、多くの人が「少佐は高血圧だった」という噂を信じている中、ラフィールだけがその噂を信じていない、というところにあると思われる(83頁)。もっとも、クリスティーミス・マープルが彼を信じる理由としてこの点を挙げていない。このようなところも、クリスティー作品を注意深く読まなければならないポイントだと言えるだろう。

*1:それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」(マタイによる福音書、26.41、新共同訳、1998年。)

*2:普通、伏線は解明まで気づかれないから「伏線」と呼ばれる訳であるが、後期クリスティーにおいて、事態はもう少し複雑なことが示せればと思っている。

*3:彼女が「回想の殺人」や「旅行中の殺人」を得意としたのは、彼女のこうした記号の不定性に対する趣向から帰結したもののように思われる(おそらく逆では無い)。