Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「笠井潔『バイバイ、エンジェル』パリ草稿ノート発掘」を読んで:ひとまずの走り書き

 『ジャーロ』第80号に掲載された「『バイバイ、エンジェル』パリ草稿ノート発掘」を読んだ。笠井潔氏の『バイバイ、エンジェル』は物理学者になろうとしていた私を哲学者へと方向転換させることになった、私にとって紛れもない「青春の書」であり、この本についての草稿を目にできたことには感慨深いものがあった。

 同書をまた読み返してまとまったものを書ければと思うが、それに先立ち、一つ気がついたことを簡単に記しておきたい。それは、パリ草稿ノートに存在した「読者への挑戦」についてである。

 

 従来の「読者への挑戦」への批評とも取れるこの「読者への挑戦」において、物語の書き手(クリスチーナ・シェール)は、これまでの推理作家たちが「読者の論理作業」に必要な「材料」のみを提出して読者に挑戦してきたことを、次のように批判している。それはあたかも、奇術師がテーブルの上に並べたカードに注目させるようなものである。しかし、奇術を見破ろうとするのであれば、他の場所、たとえば奇術師の仕草や表情に目を向けないといけない。推理小説の真相を当てる際も同様であって、「推理に必要な材料」以外に、「作者の個性、趣味、発想の特徴」などを知らねば当てることはできない。そこで、本作において書き手の「私」は、「論理的推論の素材となるカードを並べただけでなく、そのカードの配り方、その手つき、その表情、その身振りまでをも自覚的に描こうとした」—この余分と思われる部分によってこそ、読者は直観を駆使し、正しい結論へと推論することができるのだと。

 

 「作者の個性」やクセを知ってこそ推理が可能である—この主張から私が思い出したのは、これが、他ならぬ笠井氏自身がクイーンの国名シリーズ(の後半)を最初に読んだときにとった手法であった、ということである(『模倣としての逸脱』所収の「楽しみからの逸脱」参照)。このエッセイの中で氏は「作中に潜む犯人を対象とする推理から、作者クイーンを対象とする推理に」方法を変更したと述べている。「作者が好む犯人のタイプ、作中でさりげなく犯人を紹介するときの手つき、スタイル、等々に注意してみたほうがよい」。

 とするならば、この「読者への挑戦」において、書き手である「私」は、「推論の素材」の並べ方、クセ、表情などを描いたと主張することで、笠井潔という〈大文字の作者〉の仕草、振る舞い、クセをも何らか再現(ミメーシス)しようとしたのだ、と述べていることになる。

 この達成の深度がどこまで及んでいるのか、というのはひとまず措くとして(書き手である「私」の視点・語りを設定した「作者」の個性やクセを読む、ということはやはり問題となるだろう)、重要なのは、ここで「語り手」と〈大文字の作者〉の関係の問題、すなわち後に『天啓の器』でひとまずの達成を見るような、「〈大文字の作者〉をいかにして消すか」という問題意識がすでに氏のなかで胚胎していたであろうことが、見える点である。

 近代の形式を使って近代を裏返そうとすること、そこに氏は探偵小説というジャンルの一つの特徴を見ているが、その裏返しはすでに、この最終的には残されなかった「読者への挑戦」においても、ある程度自覚的に実践されていたように思われる。

 

*1/28午後、表現を一部訂正。