Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「ホワットダニット」とは何か:アガサ・クリスティー『バートラム・ホテルにて』

f:id:daisuke_nakamura:20220207222904j:plain

 この記事では、アガサ・クリスティーの『バートラム・ホテルにて』(1965)の考察を通して、「ホワットダニット」と呼ばれる探偵小説における特殊な「謎」のあり方について考えてみたい。この作品は大傑作とは言えないまでも、「ホワットダニット」を中心的な興味に据える彼女の一連の作品群の中で、一つの極限形とも呼べるものを提出しているように思える。

 なお参照するのは乾信一郎訳(クリスティー文庫、2004年)である。

【以下、作品の真相には直接触れないが、手がかりや伏線に触れる】

 

1.手がかりとミス・ディレクション、再び

 まず以前の記事でも触れた、「手がかりとミス・ディレクションの対称性」を見ることから始めよう。ミス・マープルものの前作『カリブ海の秘密』(1964)ほど明示的ではないものの、ここでも読者に比較的目につきやすい仕方で、「手がかり」と「ミス・ディクレクション」が対照的な仕方で配置されている。それは二つの地名、「ボリーゴーラン」と「ルツェルンである(「ボリーゴーラン」は89頁、「ルツェルン」は57頁、115頁)。

 このうち、事件に直接関わる手がかりは前者であり、後者はミス・ディレクションである。しかし二つの地名が対称的に並べられることで、「どちらかが手がかりで、どちらかがミス・ディレクションなのだろうが、ではどちらか、あるいは両者は何らか関係するのだろうか」といった宙吊り状態に読者は置かれることになる。この記号の宙吊り、不定状態は、前作に続いてクリスティー的な記号配置の効果と言える。

 しかし、地名「ボリーゴーラン」は、それが事件を何らか示すものであることを最後の解明まで伏せる、いわゆる「伏線」として用いることもできたはずである*1。とするなら、クリスティーは敢えて「ルツェルン」と併置することで、この地名が事件と何らか関わるかもしれない、という可能性を示唆していることになる*2。この一種大胆な所作こそ、まさに「ホワットダニット」という彼女が得意とした謎の提示方法と関係するのである。

2.「ホワットダニット」雑考

 クリスティーの代表作『五匹の子豚』において、私は以前、推理の出発点となる「謎」のありかを探偵が示さず(例えば「どのように…したか」、「なぜ…したか」といった謎を明示せず)、読者が積極的に謎という〈原-手がかり〉を読んでいかなければならない、と指摘した。それはつまり、ハウダニットホワイダニットといった通常の「謎」とは一つ上の水準の謎、「何が謎か?」が問われているということと等しいとも。

 そして実のところ、本作『バートラム・ホテルにて』も含め、いわゆる「ホワットダニット」とは、この「何が謎か?」という謎の不定性と一体のものであるように思われる。このことを見るために、「ホワットダニット」タイプの典型とも言える本作『バートラム・ホテルにて』とホワットダニットでないタイプの本格推理小説、それぞれの特徴をごく簡単に比較してみよう。なお比較に際して、私がパースの記号学を拡張しつつ見出した探偵小説の三層 — 記述(第一次性)、事件内容(第二次性:記述の対象)、読解(第三次性:謎・手がかり・推理など探偵が読むこと)— を用いる。

【ホワットダニット以外の作品】記述→読解→事件内容

 事件の記述の中から、「手がかりや謎」という探偵によって読まれた要素を介して、事件内容という対象が — 解明以前においては十全とは言えない仕方で — 指示される。探偵小説の一つの特徴はこのように、記述とその対象である事件の間を、謎・手がかり・推理といった読解項が繋いでいる点にある(この特徴を→で上では示した)。とりわけ、謎(フーダニット、ハウダニットホワイダニット等)は事件内容を何らか指し示す点で、読者にとって重要な導き手の役割を果たしていると思われる。

 探偵小説の最後で披露される推理とは、あるいはこの対象の指示を十全におこなうことであり、またあるいは指示対象となる事件が別のものであった、ということを指示することにあると言えるだろう。

【ホワットダニットの作品】記述…読解…事件内容

 対して『バートラム・ホテル』では、複数の事件・出来事が乱立し、「どれがメインの事件か分からない」という状況が提示される。例えば、列車強盗、牧師失踪、エルヴェイラのアイルランド行き、ゴーマン殺し、など大きいものから小さいものまで様々な出来事が次々と連関を欠いたまま提示される。実際、今やクリスティー読者の座右の書とも言うべき『アガサ・クリスティー完全攻略』(2014/2018)において、霜月蒼氏は「結果として本作は、『いったい何が起きている/起こった/起こるか』がさっぱりわからない物語になっている」と述べている(クリスティー文庫、204頁)。

 「いったい何が起きているかがさっぱりわからない」ということは、元を辿れば、推理を始める起点が読者には与えられない、ということだ。つまり、どれが解くべき謎で、どれが手がかりなのか、判然としないため、事件内容を「読む」ためのヒントが確定しない。何が謎か分からず、結果読むためのヒントがないのだから、事件内容への指示も必然的に曖昧に、不確定にならざるを得ない(この曖昧さを上では三点リーダ…で示した)。

 これは「何が謎か?」の一つの展開だと言えるだろう。『五匹の子豚』では、確かに謎のありかはポワロに指示されないとは言え、まだクレイル殺しというメインの事件が一つ存在していた。だが本作では、乱立する事件の中で、どれがメインの謎を構成する事件であるかが一切指示されないため、読者は大小多様な木からなる森の中に迷い込んだような感覚をもつことになるのである。

[ホワットダニットの暫定的定義]

 中西理氏の論考に触発されて以来、私は長らく「ホワットダニット」をどのように特徴づけるべきか考えてきた。しかし今ようやく、暫定的な定義に至ったようだ。それは次のようなものである。

 「ホワットダニット」とは、フーダニットやホワイダニットといった謎を直接提示せず、むしろ「何が謎か?」という一つ上の水準を読者に考えさせることにより、個別の「謎」が本来何らか指し示すであろう事件内容を様々な仕方で曖昧化する — その結果「何が起きた(ている)か」が焦点となる —、そうした特殊な謎のあり方のことである。

最後に

 先に、『バートラム・ホテル』では、「伏線」として最後まで事件に関わる記号であることを読者に伏してもよいであろう「ボリーゴーラン」という地名が、「手がかりかミス・ディレクションか」といった仕方で敢えて可視的に提示されていると述べた。これは要するに、様々な事件が乱立し、個別の「謎」が明示されない結果、そもそもその地名を伏線として隠す必要がなくなった、ということでもある。『盗まれた手紙』を記述の水準へと転用したテクニックの一つと言ってもよいだろう。ある記号が手がかりか、ミス・ディレクションか判然かしなければ、敢えて伏線を多数張らなくても、読者を騙し切ることができるのである*3。そして無論のこと、こうした「記号の不確定性」で読者を騙し抜くことを可能にしているのは、クリスティーの叙述の才に他ならない。

 上で得られた定義はいまだ暫定的なものに過ぎない。今後、クリスティー作品の検討を読み進めていく過程で、さらなる検証の鑢にかけられねばならないだろう。

*1:ここでは「伏線」をこのような狭義の意味で取る。

*2:加えて「ボリーゴーラン」の位置する国「アイルランド」も登場する(97頁)。

*3:勿論、この作品に「伏線」がまったく不在という訳ではない。例えば、「夫人は〔…〕いつもこのようなまちがいをやっている。ほかの人も、厚いおおいをされて、薄暗い照明の下では、同じまちがいをする」(38頁)という叙述は伏線と言えるだろう。