Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

もう一つの極北:笠井潔『バイバイ、エンジェル』

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 笠井潔氏の矢吹駆シリーズの新作『煉獄の時』が近々出るとのことで、シリーズの読み返しを始めている。今回は記念すべき一作目、『バイバイ、エンジェル』(1979)について少しまとめておこうと思う。周知のことの振り返りという側面もあるが、第2節以降で提示される論点は、もしかしたら珍しいかもしれない。

 また本記事のタイトルは、以前書いた「ある極北」と題したエラリー・クイーンの『九尾の猫』に関する記事を念頭に置いて付けたものだ。第3節で、クイーンのこの作品と『バイバイ、エンジェル』とが、ある点で探偵小説の歴史上好対照な位置を占めることを示そうと思う。この指摘も初めてなされるものかもしれない。

 なお今回は最初の単行本で読み直したため、参照するのは角川書店版(1979年)になる。

 

[以下、『バイバイ、エンジェル』の真相に触れる。]

1.真犯人の二重性

 第6章の「1月27日」で明かされる、オデット殺し、アンドレ殺しの二つを中心とした事件の真相は、ごく簡潔にまとめてしまえば、「マチルドがアントワーヌとジルベールの二人を操って起こしたもの」である(事件の詳細な構図はいま脇に措く)。マチルドと残る二人の関係は矢吹駆によってまずは次のように言われている。

「最初に僕が見つけた犯人はただの操り人形でしかなかった。本当の犯人はその背後に隠れていた。僕は彼女を発見した。この事件の表面には子供じみた率直さがあったが、その下には成熟した女の悪意が秘められていた。」(241頁)

 つまり「操り人形」=アントワーヌとジルベール、「本当の犯人」=マチルドということだ。だが、この小説を読み終えた者ならば、こうした「犯人像」が全体の半分でしかないことを知っている。カケルがアントワーヌとジルベールを追い詰めていく場面から引こう。

「君たちはただの手先だ。操られた木偶人形だ。〔…〕そうだ、観念で人を殺せるのは君たちを操っているあの女のような型(ティップ)の人間だ。」(280頁)

 「観念」の言葉が出てきたことからも分かる通り、ことは勿論、事件の核心をなす「観念的な殺人」に関わっている。小説の中盤、カケルはモガール警視とナディアに次のように語る。

「観念という、現実のかたちは決して持ちえないもの。〔…〕これが時として人間に憑くのです。〔…〕これに憑かれて行われる殺人は、人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが犯す殺人です。つまり、犯人は、彼ではない。彼に憑き、彼を操っているものこそ真の犯人なのです」(158頁)

 すなわち、アントワーヌとジルベールを操っていた「本当の犯人」であるマチルドを操っていた観念という「真の犯人」がいる、ということになる。その観念のあり方 ー 本来であれば立ち入って論じなければならない箇所だが ー をここでは、カケルとマチルドの「思想対決」の部分から三箇所、短く引用して見るにとどめる。

「君はただ、〔…〕真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。」(298頁)

「君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ」

「豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ」(299頁)

 引用に頼りすぎたようだが、以上から『バイバイ、エンジェル』の犯人像の全体は次のようにまとめられる。アントワーヌ、ジルベールという「操られた木偶人形」を操っていた「本当の犯人」はマチルドだが、そのマチルドに憑いていた観念 ー 「真理」、「正義」、「自己犠牲」、さらに革命に伴う様々な弾圧全てを「合理的に説明しうる理論」(298頁)ー こそが、彼女を操っていた「真の犯人」である。

 「1月27日」に、カケルがモガール邸で披露する推理で明らかになるのは、この犯人像の半分 ー「マチルドによるアントワーヌとジルベールの操り」の部分 ー である。マチルドとカケルの思想対決は、残る半分、すなわち「観念」という「真の犯人」を暴露するために不可欠な場面として設定されているのである。

2.〈首のない屍体〉ものとしてではなく

 前節の内容は、この小説の基本事項と言ってよい。基本事項をわざわざ書いたのは、この作品を、従来位置付けられているのとは違った探偵小説の系列(あるいはサブジャンル)に位置付けるためである。この作品は、通常、〈首のない屍体〉ものとみなされている。そしてそれは勿論、正しい(なんと言っても中盤でカケルが「首切りの本質」について話すのだから)。だが前節最後でまとめた犯人像の全体を踏まえると、それとはまた別の系列に、本作を位置付けることが可能となる。

 それは〈筋書き殺人〉である。勿論、それはかなり特殊な意味での「筋書き殺人」、あるいはその一つの極限形ともいうべきものだ。このことを説得的に示すために、エラリー・クイーンの作品を迂回しよう。『九尾の猫』(1949)である*1

 

[以降、『九尾の猫』の真相に触れる。]

 

 まず「筋書き殺人」をどう考えるか、というところから始めよう。3月末に出る紀要掲載の論文*2で筆者は、世間に広く知られている文書や考え(典型的にはマザー・グースの「童謡」)に見立てられて起こる「見立て殺人」に対して、「筋書き殺人」を次のように定めた。

 

 筋書き殺人=犯人もしくはその近くにいる者だけが知りうる文書や考えに沿って起こる(連続)殺人事件のこと。

 

 「筋書き殺人」における「筋書き」の典型として、「ある人物が書いた推理小説の梗概」を思い浮かべればよいだろう。クイーンのある作品では、こうした梗概を入手した人物が、その梗概に沿って殺人事件を引き起こしていく。広く知られている童謡などではなく、特定の人物だけがまずは手にしうる文書や考えに事件が従っていること、これがまずはポイントである。

 しかしながら『九尾の猫』には、一見したところ、そのような「文書や考え」は存在しないように思える。犯人であるカザリス夫人は、「犯行計画書が記された文書」を入手して、それに応じて連続殺人事件を引き起こしていたようには見えない。

 だが、存在する。詳しくは本記事の冒頭でも記したかつての投稿を参照してほしいのだが、それは「夫カザリス医師の手になる3桁に及ぶ数のカルテ」である。カザリス夫人はこのカルテを過去から順番に引き出し、ニューヨークの電話帳と照らし合わせて特定できた人物を、次々と殺していくのである。

 無論、このカルテにはいかなる犯罪計画も記されていない。だが犯罪計画とは無縁の筈のカルテが、カザリス夫人にとっては殺すべき人物を列挙した「殺人リスト」として機能している。筆者はそれゆえ『九尾の猫』を、〈筋書き殺人の零度〉に到達した作品であると特徴づけた。「零度」とは、殺人や犯罪の意図など「ゼロ」である文書や考えが殺人リストとして機能してしまうことで、「筋書き殺人」がそう見えなくなる形にまで行き着いてしまった、ということを意味している*3

 

 『九尾の猫』をこのように「筋書き殺人」の一つの極限形として置いてみると、『バイバイ、エンジェル』がクイーンのこの作品と対照的な場所を占める、「筋書き殺人」のもう一つの極限形であることが見えてくる。次節でこの点を明らかにしよう。

3.もう一つの極限へ

 『バイバイ、エンジェル』がいかなる意味で「筋書き殺人」の系列に位置づけられるのか、慎重に見ていくことにしよう。

 

(1)まず、前節における「筋書き殺人」の定義にある、「犯人もしくはその近くにいる者だけが知りうる文書や考え」に相当するものが『バイバイ、エンジェル』の中にあるか、という点について。連続殺人を中心とした事件の連鎖が従ったような、文書や考えが、本作に存在するだろうか。

 そのようなものは「直接には」存在しないようにまずは思える。だが少なくとも「背後には」存在すると言える。それは勿論、〈赤い死〉(ラ・モール・ルージュ)の革命思想である。この革命思想に憑かれて、マチルドをはじめ、彼女に操られたアントワーヌとアルベールも実行犯として殺人事件を引き起こしていった。そしてこの思想は、(「童謡」のように世間に広く知られたものではなく)犯人とカケル以外には知ることのできないものである。

 

(2)革命思想は「筋書き殺人」における「筋書き」と同一視することはできない。だが思想対決の一場面を見てみよう。アンドレは実は密告者ではなかったが、アントワーヌたちにはそう信じさせておきましょう、と微笑と共に告げたマチルドの言葉を受けて、カケルは次のように呟く。

「……まるで筋書き通りだ」(297頁)

 この「筋書き」とは何だろうか。続くカケルの言葉を見れば、これは、アントワーヌらを後戻り不可能な場所にまで導いたマチルドの「欺瞞」に満ちた「計画」のことだ、ということになる。つまり、犯罪計画を描き、アントワーヌらを追い詰めて指示を与え、自らも部分的に実行した「筋書き」を描いたのはマチルドであった、ひとまずはそう思える。とするなら、「知りうる文書や考え」に沿ってではなく、ある人物が考えだした計画に従って事件は引き起こされたのだから、これは「筋書き殺人」ではない、ということになるのではないか。

 だが『バイバイ、エンジェル』の読者は知っている。こうした計画をマチルドが自ら思考して産み出した、ということに少なくとも疑問符をつけざるを得ないことを。なんと言っても、「人間にどんな主体性がある。なにもありはしない」(282頁)と本作の探偵は言い切るのだから。マチルドの計画や発想さえ、革命思想から、さらにはそこへと彼女を導いていった「普通以下の自分を正当化するため」の「正義」や「真理」といった観念から、つまるところ「異様で奇怪で狂気じみた観念」(310頁)から、否応なく導かれざるを得なかった「筋書き」であったのではないか。

 とするならば、次のように言えるだろう。マチルドに憑き、彼女を操る革命思想に至るまで累積した諸々の「観念」があり、そこから導かれた「筋書き」にさらに憑かれるようにして犯人たちは事件を引き起こしていったのだ、と*4。『バイバイ、エンジェル』においては、「犯人たちの主体的な思考の立案による犯罪の実行」といった能動性は後景に退いている。アントワーヌやジルベールを操っていたマチルドに憑いていた「観念」が産み出した筋書きにより、彼女たちはさらに操られていた ー こうした「筋書き」は、「犯人もしくはその近くにいる者だけが知りうる文書や考え」のヴァリエーションとみなすことができよう。

 

(3)主たる論証は以上だが、『バイバイ、エンジェル』が「筋書き殺人」ものと言える、傍証を挙げておこう。それは、エラリー・クイーンの「筋書き殺人」ものにおいてもまた、犯人は筋書きに翻弄され、主体性を奪われたような設定を常に施されている、という点である。

 前節で挙げた『九尾の猫』の犯人、カザリス夫人を見てみよう。彼女の犯行の背景にあるものは、探偵エラリーによれば次のようなものである。産科医時代、彼女の夫であるカザリスは自分の子供 ー すなわちカザリス夫人の子供 ー を取りあげるのに失敗した。他方で彼は、他の多くの母親から子供を取り上げるのに成功している。カザリス夫人はそうした母親たちが子供をもつことを許せず、次々とその子供たちを殺していくに至るのである。

 エラリー自身は明確に述べていないが、犯罪の根幹にあるのはそれゆえ、〈無意識の願望充足による復讐〉だと言えるだろう。カザリス夫人は、犯罪を自ら意識的にコントロールできてなどいない。発見したカルテの束という筋書きに踊らされるようにして、彼女は無意識の衝動のままに事件を起こしていた。そしてクイーンの「筋書き殺人」ものである他の2作品においても、犯人はやはり意識的な犯行計画の立案者というよりも、筋書きに操られるようにして事件を引き起こすのである*5

 観念に憑かれ、操られるようにして事件を引き起こしていったマチルドは、これらクイーン作品の「筋書き殺人」ものの犯人の系譜に立つことが、以上から見て取れよう*6

 

 さて、ここまで読んでき方には、『バイバイ、エンジェル』が、いかなる意味で『九尾の猫』と対照的な「筋書き殺人」のもう一つの極北であるか、理解できる筈である。『バイバイ、エンジェル』では操り手である犯人をさらに操っていた「観念」こそ真犯人であると指摘されていた。とするならば、殺人や犯罪の意図など「ゼロ」である文書や考えが殺人の「筋書き」として機能した〈筋書き殺人の零度〉たる『九尾の猫』に対して、『バイバイ、エンジェル』は、「筋書き」を、さらにはそれら筋書きを析出した〈原ー筋書き〉とでも言うべき「異様で奇怪で狂気じみた観念」を、事件の「真の犯人」と指摘した探偵小説なのである。『九尾の猫』が「筋書き殺人」の極小値であるとするならば、『バイバイ、エンジェル』は「筋書き殺人」の極大値を記しづけた作品だと言ってもいい(それゆえ両作品とも、「筋書き殺人」と一見判別しがたい作品となった)。

 勿論、この「累積した観念=筋書きという真犯人」を、作中の手がかりから推理することで読者が当てられるように、この作品は書かれているわけではない。その意味で、この犯人は初期クイーン作品のような「パズラー」の外側に位置する犯人である。

 だが、この点は本作の価値を減じるものではない。何と言っても筆者の知る限り、『バイバイ、エンジェル』は、人間ではない「筋書き」や、それを生み出した「観念」という〈原ー筋書き〉を犯人と指摘した、ただ一つの探偵小説なのであるから*7

終わりに

 このように、『バイバイ、エンジェル』は「首なし屍体」ものであると同時に、「筋書き殺人」ものとして、その極北を『九尾の猫』と対照的な仕方で実現した作品である。

 ところで『災厄の町』以降のエラリー・クイーンの作品には、「筋書き殺人」を扱ったものもあるが、支配的なのは無論のこと「見立て殺人」のテーマである。そして、『バイバイ、エンジェル』で「筋書き殺人」のはやくも極北に至った駆シリーズが、続く『サマー・アポカリプス』(1981)で、「見立て殺人」を扱うのは、こうしたクイーンの理路を踏まえるならば、探偵小説の展開としてやはり必然であったように思える。

 

 巽昌章氏が創元推理文庫版『バイバイ、エンジェル』に付された優れた解説で指摘しているように、この作品は様々な「赤」に彩られている。だが、マチルドとの思想対決の最後に登場する伊万里の「蒼」が、終章における空の「蒼灰色」へと反映することで、小説は赤から蒼へと反転する。そしてこの「蒼」は『サマー・アポカリプス』における南仏の「藍色の空」と「青空」を予告しているのである。

*1:飯城勇三氏は『エラリー・クイーンの騎士たち』(論創社、2013年)所収の笠井潔論の中で、『バイバイ、エンジェル』を、やはり「首のない屍体」ものであるクイーンの『エジプト十字架の謎』(1932)と関連づけている。本記事は、クイーンと『バイバイ、エンジェル』の関係というテーマにおいて、飯城氏のこの論を補完するものでもある。

*2:中村大介「筋書き・見立て・操り:後期エラリー・クイーンの展開」、『雲雀野 ー 総合教育院紀要』、豊橋技術科学大学、2022年。こちらで読むことができる。

*3:『九尾の猫』が「筋書き殺人」の系列の一つの「極北」であるというこの主張は、クイーンの作品群の展開も踏まえている。この点についてもこちらの記事を参照。

*4:マチルドと、アントワーヌ及びジルベールとの違いは勿論重要である。アントワーヌの「実存主義」やジルベールの「人間主義」のような「ちゃちな観念」(310頁)では、マチルドの到達した「異様」な観念が生み出したような殺人の筋書きに至り得なかった、とここでは言っておこう。

*5:これら2作は有名な作品であるが、念のため反転して以下記す。それら2作品とは『Yの悲劇』(1932)と『災厄の町』(1942)である。『Y』においては、遺伝的な欠陥を抱えるという設定の残忍な少年ジャッキー・ハッターが、祖父ヨークの手になる小説の梗概に沿って殺人事件を引き起こす。また『災厄』においては、ジム・ヘイトの書いた、殺人を予告するかのような三通の手紙を見つけたノーラ・ハイトが、その手紙の内容に沿った事件を引き起こし、ついには大声で笑い、錯乱したような状態に陥る。ジャッキー、ノーラ、カザリス夫人はいずれも自ら犯罪を立案し、意識的に事件を引き起こしていったのではなく、何らかの筋書き(梗概、手紙、カルテ)に半ば翻弄されて事件を起こしたのである。

*6:さらに一つ重要な指摘をしておこう(前注に出た二作品にも言及するためやはり反転の上記す)。クイーンの「筋書き殺人」ものの犯人である、ジャッキー、ノーラ、カザリス夫人は子供や女性であり、いずれも成人男性でない。そして『バイバイ、エンジェル』のマチルド・デュ・ラブナンもまた。

*7:それゆえ探偵小説における「筋書き殺人」ものの思想的・哲学的含意は、「筋書きに導かれて事件を引き起こす犯人の意志や意図、主体性をどのように考えるべきか」となるだろう。クイーンの諸作品や『バイバイ、エンジェル』の達成を踏まえ、この点をさらに考察していきたい。