Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

隠すことと見えないこと:G・K・チェスタトン『ブラウン神父の無心』

f:id:daisuke_nakamura:20220406121851j:plain

 思うところあり、ギルバート・キース・チェスタトンの『ブラウン神父の無心』(1911)を(何度目か分からないが)読み返した。ここでは三つの作品を中心に、この探偵小説史上屈指の名短編集について少し論じてみたい。

 それら三作品とは、「折れた剣の招牌」「透明人間(見えない人)」、そして「イズレイル・ガウの信義」である。収録された他の四つの短編についても言及する。

*引用は南條竹則坂本あおい訳(ちくま文庫、2012年)による。原文を参照する際はプロジェクト・グーテンベルクのものを利用した。

 

【以下、諸作品の真相に触れる。】

 

 これだけの古典的な名作となると、様々な視点からの分析が可能であろうが、ここではこの短編集の基調をなすと思われる、以下の相同的な二つのトリック*1を軸に考察していく。

[I] 事件の真相を示すものを同種の他の多数のものの内に紛れ込ませることで隠す。

[II]犯人自身を他の人物の内に紛れ込ませることで「見えなくする」。

1.[I]を用いる作品群

 先の三作品のうち、この作品群に属するのは勿論「折れた剣の招牌」である。だがこの作品を検討するより前に、幾つか見ておくべき作品が存在する。[I]のトリックをさらに2つに場合分けしつつ見ておこう。

 

[I-a]他の多数のものが既にある場合

「飛ぶ星」:フランボーは、盗もうとする宝石を小道具の模造宝石のうちに隠す(このフランボーの手口は「折れた剣」でも言及されている)。また役を演じていない人物(本物の警官)を、他の役を演じている人物の中に入れることで、芝居の「警官役」に見せかける*2

サラディン公の罪」:ある人物の顔が多くの鏡に映り込み、多数の像のうちに紛れ込む(このことにより直前の「神父はそれ〔公爵の顔〕を以前にどこかで見たはずだ、というあやふやな記憶」(232頁)という記述は伏線化する。ブラウン神父は、鏡に映った多数の顔と本人の顔とが似ていたことによる記憶違いだとひとまず考えるのだが、実際は公爵の顔と執事の顔が似ていたのである。)

 

[I-b] 他の多数のものを新たに作り出す場合

「間違った形」:ある紙の「1つの角の不在」を、他の多数の紙の角を切断することで、「多くの角の不在」のうちに紛れ込ませる。ただしこのことにより、「不在の角の数」と「切り落とされた角の枚数」との間に齟齬が生じ、これが事件の手がかりとなってしまう。

 

 さて探偵小説史上有名な「折れた剣」のトリックは、この[I-b]を展開し、単純化したものだとまずは言うことができるだろう。セントクレア将軍は、殺した結果折れた自分の剣の切っ先が残ったマレー少佐の死体を隠すために、「死屍累々たる戦場」(329頁)を作ろうとした。この恐るべき着想が見事なのは、先行作「間違った形」におけるような齟齬 — ないものの数とあるものの数の齟齬 — が生じない点である。例えば、剣の先がないことを隠そうとして、兵にあるすべての剣の先を切り落としたりしたら、同種の齟齬が生じうるだろう。一つの死体を多数の死体を作り出すことで隠す、というこの単純化が、本作を「間違った形」から一歩進んだ傑作たらしめている。

 以上が、本作の核心であることに間違いはないが、同時に[I-a]のトリックも存在していることにも注意せねばならないだろう。それが、ブラウン神父言うところの「もうひとつ〔の〕絵」である。実は将軍はイギリス軍自らの手で処刑されたのだが、その死体を、既にある戦場の多数の死体 — ブラジル兵によって殺された死体 — と並存させることで、将軍もブラジルのオリヴィエ将軍によって殺されたと見せかけられていたのである。

 このように「折れた剣」は、「同種の多数のものを作り出す」パターン[I-b]を単純化して展開しつつ、そこに、「既にある多数のものに紛れ込む」パターン[I-a]を自然な形で組み込むことに成功している。驚くべき達成と言う他ない。

2.[II]を用いる作品群

 代表作は先に挙げた「見えない人」(こちらのタイトルを以下用いる)であるが、ここでもまず一つだけ他の作品を見ておこう。

 

「奇妙な足音」:フランボーは給仕の前では紳士を演じ、紳士の前では給仕を演じることで、銀器を盗む。ここでブラウン神父の次のような指摘を思い起こそう。「紳士方がたまたま入ってきた給仕なぞを見るはずがありますか?(Why should the gentlemen look at a chance waiter?)」(103頁)— まさにここでは、その場に15人いて、相互に取り換え可能であるような給仕という人物が、紳士の側からは「見えない」ことがトリックに使われているのである。

 

 そして名作「見えない人」である。よく知られている通り、この事件では、郵便配達人がマンションに入り、人を殺して大きな袋に入れて堂々と出てきたのであるが、そうした人物は誰もが「見逃し」、「気づかず」、また「思いつ」かないのである(159-160頁)。

 この作品が見事なのは、他の郵便配達人など、多数の目立たない人を一切出すことなく、トリックを成立させている点である。先立つ「奇妙な足音」では、あくまでも十数人の給仕の中に、フランボーは紛れ込んでいた。対して本作では、郵便配達人という、都会の群衆の中で相互に交換可能であるような人物を犯人と指摘した「効果」として、当の郵便配達人の背後にいる多数の見えない人を読者に想定させるのである。「郵便配達人」は「見えない人」のモデルや範型を与えると言ってもいい。本作は、登場人物の数を可能な限り省略することで、「一と多」の関係において「奇妙な足音」を逆転させたような構図を提出することに成功している*3

3.[I]と[II]の〈裏〉

 取り上げるべき残る一作は「イズレイル・ガウの信義」である。古くはボルヘスも好んだ本作は、この短編集の中でも特異な位置を占める傑作であり、また探偵小説史上の意義も小さくない作品である。

 裸のまま置かれた宝石、袋などに入れられず塊で置かれた嗅ぎ煙草、蝋燭を立てる道具の不在、といった謎を、ブラウン神父は「金の指輪がないダイヤモンド」、「金の箱に入っていない嗅ぎ煙草」、「金の燭台のない蝋燭」など、その場に「ない」ものに注目することで解明する。その場に「ない」ものとはすなわち金であって、ガウがアーチボルトから受け取るべき遺産として、至る所から金を剥ぎ取っていたのである。

 さて[I]と[II]を改めて見てみる。どちらも中核となるアイディアは「AをA', A", ...の中に紛れ込ませること」とまとめられよう。だが本作では、「A, B, C, ...の共通点はそれらから取り除かれたものの内にある」ことが核心となっている。つまり、紛れ込んでいるもの、多数の中に隠されているものではなく、文字通りそこに「見えていない」ものを見抜かないといけないのである。「イズレイル・ガウ」はこの短編集において、[I]と[II]の〈裏〉あるいは「補集合」とでもいうべきポジションにあると言える。

 この「見えていないものを見抜く」は、ホームズ譚のとあるアイディアの展開とみなせよう(有名作ではあるが、以下念のため反転して記す)。それは無論、「白銀号事件」における〈吠えない犬の論理〉のことである。ホームズは「犬が夜吠えなかったこと」を不思議なことと考え、それを事件の手がかりとする。そこで「ない」ものは、「吠える」という「行為」である。対して「イズレイル・ガウ」では、「ない」ものはもはや「行為」ではなくマテリアルなもの、何らかの「物質」になっている。(反転ここまで)

 このように「ないもの」が金という「物質」になったことは、探偵小説の形成過程を考える上で重要である。というのも、ホームズの上記作品や本作においては、「ない」ことの重要性が謎あるいは手がかりとして作中に記述されているのだが、この記述を取り払うことで、エラリー・クイーンの〈ネガティブ・クルー〉ものが成立するように思われるからである。クイーンの幾つかの作品においては、探偵が「あるべき物質的な何かがないこと」を推理するのだが、その際、「ないこと」それ自体は最後の解明まで記述されない(それゆえ読者も読み取らねばならない)*4。「イズレイル・ガウの信義」はホームズ譚やエラリー・クイーンの作品との関係を考える上でも、歴史上重要な作品のように思われる*5

 

 『ブラウン神父の無心』はこのように、探偵小説ファンにとって折に触れて立ち戻るべき作品であるが、それは単なる郷愁ゆえではない。様々な探偵小説を読めば読むほど、本書が探偵小説の生成に果たした重要な役割に回顧的に気付かざるを得ない。それは、光の当て方によって様々な輝きを返してくるような、探偵小説史上でも類を見ないほどの複雑なカットをもつ結晶、とでも言うべき作品なのである。

 

【4/30追記】内容を補足する記事をこちらに投稿したので、参考にしていただきたい。

*1:いずれもポーの有名短編における「隠さないことで隠す」トリックのバリエーションと言えようか。

*2:このトリックは、通常の変装が「変装していること/役を演じていること」を隠すのに対し、〈変装していないこと/役を演じていないこと〉を隠す点で興味深い。

*3:「見えない人」がポーの有名短編と関連していることは、古くは乱歩が指摘しているが、筆者も以下で触れたことがある。中村大介「探偵小説生成論序説:パースの記号学から出発して」、『数理と哲学:カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』、青土社、2021年、357-383頁。

*4:十全なものではないが、クイーンの〈ネガティブ・クルー〉についてはこちらの記事で検討した。

*5:クイーンは『クイーンの定員』において、『ブラウン神父の無心』に47番目の席を当て、この本を「奇跡の書」と呼んでいるが(エラリー・クイーン「クイーンの定員」,『EQ』, No.22, 1981, 96-97頁)、「イズレイル・ガウ」という短編をどう評価しているかは判然としない。ご存知の方は教えていただけると幸いである。