Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

かくも多き不在:アガサ・クリスティー『邪悪の家』

 アガサ・クリスティーの『邪悪の家』(1932・別題『エンド・ハウスの怪事件』)を読み、ノートを作った。この作品は「傑作」や「秀作」とまでは言えなくても、探偵小説の歴史を振り返ると、興味深いポイントを含んだ佳作であることが分かる。ここではその興味深いポイントを二つ、指摘してみたい。

*参照したのはハヤカワ文庫(田村隆一訳、1984年)である。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

 

 

1.「あやつり」のモチーフについて

 この作品を読もうと思ったのは、先日発表した『新青年』研究会の例会で、「『邪悪の家』でも犯人が探偵を操っていたと思うのですが、どうでしょうか」といった質問が出たためだ。確かにこの作品には、「犯人ニックによる探偵ポアロへの操り」と言ってもよいモチーフが存在する。そのありようをまずは2点検討してみたい。

(1)ポアロはニックの言葉に導かれるようにして、「友人を呼ぶよう」彼女に提案し、その提案に乗った形で彼女はマギーを呼ぶ。しかしそのマギーをこそ、彼女は殺そうと画策していたのである。最期の真相解明の場面で、このときのことをポアロは次のように振り返っている。

あげくのはてに、わたしは彼女にあやつられて、お友達を呼んだ方がいいとまでわたしの口から言ってしまったのです。(311頁)

(2)事件の起こる直前、ニックはフレデリカ・ライスらと、行方不明となっている飛行士マイケル・シートンを巡って会話を交わす。フレデリカが彼の死を確信しているのに対し、彼に熱をあげられていたニックは「まだ絶望するには早くってよ」(109頁)などと彼の生存を信じているかのような発言をする(そしてその後、電話をかけると言って席を外す)。ポアロは、ここから、ニックとシートンが恋愛関係にあることに(そして彼女の悲嘆が、電話によって彼の死を知ってしまったことに基づくことに)気がついた、と少し後で述べる。

シートンの死を報じる〕新聞の第一面に解答が出ていたのです。昨夜の晩餐のときの会話を思い出したのです — それで、わたしにはすべてがわかりましたよ(162頁)

 ニックはこのように、会話と巧みな行動によって自分から疑惑をそらし、フレデリカを犯人にみせかけようとするのである。

 ここにはしたがって、探偵を操ることで(1)事件をうまく進めようとする策謀と(2)別人を犯人に仕立てようとする策謀、の二つが働いていることになる。

 さて、ここまで本作の「あやつり」のありようを見てきたが、その理由は勿論、「操り」を中心的なテーマとして持ち込む作家、エラリー・クイーンが存在するためである。そもそも「探偵を操る」とはどういうことだろうか? それは「探偵の読む能力」を活用する、ということである。探偵小説において、「探偵」という人物の特殊性は、「謎を見出し、手がかりを読み、推理する」点にある。単に探偵の行動を操っている、というだけでは不十分であって、探偵という人物の「読解」を犯人が自分の計画に活用しているか否か、が操りのポイントとなる。

 あくまでもこのポイントからみたとき、本作においてクリスティーは、クイーンと異なり、探偵の「推理」を大々的に活用している訳でないことに気が付く。(1)でも(2)でも、ポアロが推理を披露する場面はない。確かに(2)では、ポアロは「すべてがわか」っていた、つまり読んでいた訳であるが、その読んでいた過程=推理を披露していない限り、本作の「犯人による探偵の読解の操り」のモチーフは — 事件のあり方からではなく、あくまでも探偵小説という文学形式の観点から見れば — 強いものではない、と言えるだろう。〈探偵の推理を犯罪計画に組み込む〉弱い形がある、という評価にとどまると思われる。

 とはいえすぐさま付言しておかなければならないが、これは何もクリスティーがクイーンに対して劣っている、ということを意味しない。両者は探偵小説作家として、まったく異なる資質をもち、このジャンルに対してまったく異なった態度で臨んでいるのである。(以下クイーンの有名作に触れるため反転)それにしても『邪悪の家』が1932年に出されたというのは驚くべきことである。というのもよく知られている通り、「探偵の推理を犯人が用いる」パターンをクイーンが最初に用いた作品こそ、同年に出た『ギリシャ棺の謎』であるからである。大西洋を挟んで両作家に似たような試みが見られるということは、この時期、探偵小説が一つの飽和点に達し、新たな方向に向かおうとしていたことの一つの証左になるかもしれない。(反転ここまで)

2.さまざまなる不在

 むしろ本作におけるクリスティーの試行錯誤は、「あることがらが不在であること」の豊富なバリエーションを提出しようとしていることに見出されるように思われる。そのバリエーションを大きく二つに分けて見ておこう。

2−1.ネガティブ・クルー

 一つ目は「あるべき筈のものがない」ことを手がかりとする、いわゆる「ネガティブ・クルー」である。本作にはマイケル・シートンの出した手紙*1に3種の「ネガティブ・クルー」が仕掛けられている*2

  • 多くあるべきはずのシートンからの手紙が少なかったこと
  • 宛名、および「ニック」という呼びかけの不在
  • 3月頭の手紙に、ニックが盲腸の手術を受けたことを心配する記述がない 

 クリスティーは「手紙」に多くの叙述を仕掛ける作家だが、本作におけるネガティブ・クルーのこうした豊富さは特筆すべきものと思われる*3

2−2.推理の「外側」

 ポアロは真相解明より前に、情報を整理し、またある推理を組み立てている。

  • 事件関係者に(A)から(J)までの通し番号を振り、短評を加える
  • チョコレートにコカインが入っていた事件で、三つの可能性を挙げる

 最終的に、前者についてはもう一人の人物(K)を付け加える必要が生じ、その(K)こそニックであること、そして後者については第四の可能性があることが指摘される。このことは、事件の側面から見れば、ポアロが誤導されていた(あるいは読み誤っていた)、ということになるだろうが、記述の側面からみれば、探偵の推理がミス・ディレクションとして機能している、ということになる。

 中盤までの推理がミス・ディレクションの機能を果たしてしまう、ということは、探偵小説において何も特別なことではない。ただ2−1と2−2を合わせて考えると、この作品でクリスティーが探求していたことが見えてくるように思える。それは、手紙の内容であれ、推理であれ、「そこに書かれていることの外側」を多様な仕方でクリスティーは本作で一貫して追求しようとしたのではないか、ということだ。クイーンにおいて記述や叙述はもちろん重要であるにせよ、彼が最も努力を傾注するのは「手がかり」と「推理」の側面である。対してクリスティーは、「手がかり」や「推理」の重要性は無論のこと把握しているにせよ、ある意味でそれらを「記述」という水準でひとまとめに捉えてしまうところに、その優れた資質がある作家だと思われる。

 

 名著『アガサ・クリスティー完全攻略』で、霜月蒼氏は「『物語/語り』の領分に属する場所で、クリスティーは何かアクロバティックなことをやっている」と本作を論じつつ指摘している。卓見である。物語論で言えば、「物語内容」ではなく「物語言説」の水準にこそ彼女の本領がある。より正確に言えば、「伏線」や「ミス・ディレクション」といった語りの水準を軸に、そこに「謎」や「手がかり」といった読みの水準が複雑に交差することで、様々な記号が生み出されていく点に、彼女の非凡な才があるのではないか ー これが私の仮説だ。私の探偵小説研究の暫時的な目標は、この仮説を引き続き検討していくところにある。

*1:本作が「傑作」や「秀作」ではなく、「佳作」に留まってしまう理由の一つは、このシートンからマギーに宛てた手紙をニックがどのように入手したのか、いささか判然としないからである。作中では「彼女〔ニック〕はシートンから来たマギー宛の手紙をとると」(312頁)と書かれるのみだが、彼女はマギーに手紙をわざわざ持ってくるように言ったのだろうか?それはマギーからすると、あやしい振る舞いではないだろうか。

*2:「ネガティブ・クルー」がどのように発生してきたか、について私は今関心を抱いているが、この手がかりを得意とした作家もまたエラリー・クイーンである。この点については例えばこちらの記事を参照。

*3:それにしても、こうした記述・記号の不在を探偵が読んで「手がかり(クルー)」とすることは問題ないにせよ、こうした「記述の不在それ自体」を「伏線」と呼んでよいものだろうか(伏せられているどころか、記述が「ない」ないし「欠けている」のだから)。それは「伏線」をどう考えるかに依るだろう。「伏線」をさしあたり、「事件の何らかの相を指し示すと思われていなかったことが、解明において遡行的に事件の記号であったことになる」と特徴づければ、「記述の不在それ自体」を広い意味で「事件の何らかの相を指し示すと思われていなかったこと」とみなして、「伏線」と呼んでも構わないかもしれない。