Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

〈盲点原理〉をめぐって:エドガー・アラン・ポオ「盗まれた手紙」

 エドガー・アラン・ポオの古典的傑作「盗まれた手紙(The Purloined Letter)」(1845)を原文で読み直した。前回の投稿チェスタトンの『ブラウン神父の無心』とこの作品の関係に触れたが、改めて今回、ポオの再読を踏まえて両者の関係を明示化したい(したがって、前回と内容的に重なるところの多いこの記事は半分、チェスタトン論でもある)。

 「盗まれた手紙」については、オンライン上で読むことができる、Mabbott編のThe Collected Works of Edgar Allan Poeの第三巻(1978)を用いた。引用に際してはこちらの頁付を示した後で、邦訳として参照した巽孝之訳(新潮文庫、2009)の頁付も示す(訳は適宜変更してある)。

 

【以下、本作及び『ブラウン神父の無心』の諸作品の真相に触れる。】

 

1.問いの設定

 まずは前回最後に示した、『ブラウン神父の無心』の中核をなす二つのトリックを、少し手を加えた上で提示しておこう。

  • 「隠す(hidden)」トリック事件で生じた(生じてしまう)「しるし」Aを「A', A'', …」の一員とする(しるしの認識論的な判別不可能性)。
  • 「見えない(invisible)」トリック:【事件を「隠す」と生じるであろう「しるし」Aを先回りして消す(しるしの存在論の水準での先行的消去)】*1
    Aを残さないよう犯人自身がBとなり、「B', B'', …」の一員として姿を現す。

 具体的な作品としては、前者が「飛ぶ星」や就中「折れた剣」であり、後者が「奇妙な足音」やとりわけて「見えない人(透明人間)」である。前者を「隠す」トリックと述べたのは、「折れた剣」に出てくる有名な「賢い人間は木の葉をどこに隠す?」という台詞に基づいている。また後者の前半部を亀甲括弧【】の中に入れたのは、この部分は小説の中で記述されないからであるが(実際、「見えない人」の犯人ウェルキンはスマイズを殺すにあたり、しるしAを残すような巧妙な隠蔽工作に予め思いを巡らしたりはしない)、「隠す」トリックとの差異を示すために、さらには次節の内容を踏まえて敢えて記してある。

 さて両トリックを、「折れた剣」と「見えない人」という2作品で例示してみよう。

  • 事件で生じた「しるし」=「折れた剣先の残った死体」を、戦場の死体の山の一員とする。
  • (事件の巧みな隠蔽工作のしるしを残してしまうのではなく)犯人自身が「郵便配達人」となり、多くの匿名の郵便配達人の一員として姿を現す。

※これまで「しるし」と曖昧に書いてきたが、これはより正確には、警察ないし名探偵が読む「謎」ないし「手がかり」のことである*2

 さて、次節で述べるポオの「盗まれた手紙」の中核をなす〈盲点原理〉は「見えない人」、すなわち「見えない」トリックと関係を持つと例えば乱歩によって指摘されてきた。では「折れた剣」で用いられたこれとよく似たトリック、すなわち「隠す」トリックは、「盗まれた手紙」に不在であろうか — これが立てられる問いである。短編「盗まれた手紙」は、「見えない」トリックと「隠す」トリックをどのような形で含んでいる(あるいは含んでいない)のだろうか?

2.「隠すために隠そうとしない」トリック:「盗まれた手紙」について

 ポオの「盗まれた手紙」、その中心をなすトリックは、「手紙を隠す(conceal)ために〔…〕まったく隠そうとしない(not attempting to conceal it at all)」(p. 990 / 109頁)という〈盲点原理〉だと言われている。

 この作品の前半部で、G警視総監はどれほど徹底的に、手紙を盗んだD大臣の家を捜索したかをデュパンと「私」に語っている。家具の大きさを精密に測る、その接合部を顕微鏡で調べて「痕跡(traces)」を探す、床や壁紙を捜査する、 造本に最近「いじられた(meddled)」箇所がないか計測して顕微鏡で調べる — 要するにデュパンがまとめるところの「手の込んだ隠し場所(recherchés nooks for concealement)」(p. 985 / 101頁)は調べ上げたのだと。

 これに対して、デュパンは後半の解明部で、こちらの知性を犯人の知性に合わせなければならないと指摘し、こうした常識的な捜査方法を熟知していた大臣は、「隠すためにまったく隠そうとしない」という大胆な戦略に訴えたのだと推理する。手紙は、小さくて赤い封印紙から大きくて黒いものへと変えられて、マントルピースの真鍮のノブから吊り下げられた「状差し」に、5・6枚の名刺と共にぞんざいに差し込まれていたのである(p. 990-991 / 110頁)。

 さて、以上から本作のトリックは次のようにまとめられよう。

  • 「隠すために隠そうとしない」トリック:手紙を「隠す」と生じるであろう痕跡などのしるしAの発生をおさえる(しるしの存在論の水準での先行的消去)。
    →Aを残さないよう手紙の外見を変え、数枚の名刺と共に姿を見せる

※ここでは「見えない」トリックの場合と異なり、前半部分も大臣が予め考慮しているため、亀甲括弧【】の中に入れていない。

3.問いへの応答

 では最後に、この「盗まれた手紙」のトリックと『ブラウン神父の無心』における二つのトリックの関係を考察しよう。

 上記のまとめをみると、やはり「盗まれた手紙」には「しるしの認識論的な判別不可能性」をもたらすトリックは含まれていない。あくまでも、「しるしの存在論の水準での先行的消去」が問題となっている。そこで、ポオの「盗まれた手紙」が原基的に含んでいるのは二つのうち、「見えない」トリックだけである、と言ってよいであろう。「盗まれた手紙」の手紙は、〈記述〉の水準にある「伏線」— 事件の重要な記号と思われていなかったものが、解明部において遡行的に事件の記号となる — を、〈事件〉の水準に移し替えたものといえる。「事件対象の伏線化」とでも呼ぶべき事態である。チェスタトンの「見えない人」は、この事態をさらに、事件対象ではなく「犯人それ自身の伏線化」として展開したものとみなしうるのである。

 対して「隠す」トリックは、「事件対象の伏線化」を認識論的な水準で派生的に展開させたものだとひとまず言えるだろう。

 さて、しかしながら本質的には「見えない」トリックのほうと関わる「盗まれた手紙」であるが、「隠す」トリックにつながるファクターも、実は本作に幾つか存在している。3点挙げておこう。

  1. 犯人自身ではなく、犯人が扱う「事件対象」を隠すところ。これは「飛ぶ星」において、フランボーが宝石を模造宝石の中に隠そうとするところを想起させる。
  2. 手紙を隠すとその「痕跡」や、「いじられた」箇所、すなわち「しるし」が残ることが警視総監の話で繰り返し登場すること(「見えない人」で直接言及されない亀甲括弧【】の部分とも関わる)。
  3. 「状差し」が登場する直前の段落に、「ライティング・デスクの上に雑多な何枚かの手紙や他の書類が散乱している」(p. 990 / 110頁)と述べられている点。最終的にデュパンが疑わしいものを見出さなかったこの「何枚かの手紙」の中に、「折れた剣」や「飛ぶ星」につながる細い筋が見出されるかもしれない。

 だからと言って、「やはり「盗まれた手紙」は潜在的に「隠す」トリックを含んでいたのだ」と述べるのは不適切であろう。これはむしろ回顧的な錯覚であって、チェスタトンの功績を低く見積もるものである。「隠す」トリックについては、ポオに伏在していたと述べるより、チェスタトンの創造性を第一に評価すべきと思われる*3

 

 事件の「しるし」ー 警察や探偵が見出す謎や手がかり ー に関する、〈隠す/隠そうとしない/見えない〉という問題系はようやくある程度明確になったと思われる。今後はこの成果を踏まえて、黄金期以降の作品について考察を進めていく予定である*4

*1:さらに言えば、名探偵とは、「隠蔽のしるしが存在しないこと」を新たな〈しるし〉として読むことのできる人物だ、と言えるかもしれない。本記事ではこの点に深入りしないが、注3で改めて取り上げる。

*2:私のつくった「探偵小説の記号図式」で言えば[3-1]に入る諸要素。

*3:『ブラウン神父の無心』より、もう一作私が高く評価する「イズレイル・ガウの信義」についても補足しておこう。以前の記事では、これを「見えない」トリックと「隠す」トリック、両トリックの「裏」ないし「補集合」としたが、もう少し正確に考えることができる。この作品ではブラウン神父が「そこにないものを推理する」訳だが、これは注1で述べた通り、「見えない」トリックにおいて、名探偵が「しるしがないことを〈しるし〉と読む」ことと関係をもつであろう。「見えない人」では、ここから「匿名の多数の人物B', B", ...の一員となるB」を推理するのに対し、「イズレイル・ガウ」では、「A, B, C, ...の共通点はそこにないものDである」を推理する。この点で、「イズレイル・ガウ」は、「見えない」トリックの「裏」ないし「補集合」である、と規定するのがより適切なように思える。

*4:今後の予定を少し書いておけば、この問題系と「見立て殺人」に関わる3作品を論じたのちに、一度「中間報告」としてこれまでの研究で明らかになった探偵小説のいわば「形成のネットワーク」を図示したい。その上で、この研究計画がいかなる意味で「哲学」であるのかを少し考察する予定である。この計画は、「探偵小説の哲学」でも「文学の哲学」でも厳密にはない。すなわち、探偵小説という文学における存在論や認識論などの問題を対象化して検討する哲学ではない。むしろ「探偵小説と哲学」、「文学と哲学」と私は呼びたいのだが、この〈と〉のあり方について、そろそろ本格的な考察を開始せねばならないだろう。