Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

戦場の空間を都市の時間に変えるもの:アガサ・クリスティー『ABC殺人事件』

 今回取り上げるのは、アガサ・クリスティーの名高い秀作『ABC殺人事件』(1936)である。

 クリスティーポアロものには本作を含め、きわめて有名な作品が3作(名を挙げるまでもないだろう)あるが、クリスティーを読めば読むほど、かの女の全盛期はこれらの作品以降(霜月蒼氏が指摘しているように『ナイルに死す』以降)であると思えてくる。これは具体的には、伏線・ミスディレクション・手がかりといった記号が錯綜しあい、多様なヴァリエーションを構成し始めるのは、『ナイルに死す』が出た1937年あたりからではないか、ということだ。

 それでも本作が探偵小説史上、重要な作品であることは論を俟たない。ここでは、クリスティー文庫版の法月綸太郎氏による優れた解説を補完する指摘をおこない、本作が探偵小説の形成に果たした意義を改めて確認したい(あわせてG・K・チェスタトン『ブラウン神父の無心』所収の有名短編にも言及する)。

*以下、早川書房クリスティー文庫版(堀内静子訳、2003年)を参照する。今回は、議論にやや不十分な箇所が存在することを予めお断りしておく。

 

【以下、本作および『ブラウン神父の無心』の真相に触れる。】

 

1.戦場の空間から都市の時間へ

 法月綸太郎は、本作における「一連の無関係な被害者グループの中に、本当に殺したい相手を紛れ込ませる」というモチーフは、チェスタトンの「折れた剣」(1911)の中核的なトリック — 殺した死体を隠すために戦場で死体の山を築く — を連続殺人に応用したものだと指摘している(408-409頁)。つまり、〈無謀な戦によって戦場という空間に匿名の死体の山を築くことで、殺人死体を隠す〉ことから、〈連続殺人によって都市に死体の時系列的な山を作ることで、殺したい相手を隠す〉ことへと、着想を転換しているということである。ここには、確かにクリスティーの優れた創意が見られる。

 しかし、この「戦場の空間における死体の山から都市の時系列的な死体の山へ」という変化は一体、いかにして可能になっているのだろうか。言い換えれば、二つの着想のいわば「転轍機」となっている探偵小説的な仕掛けとはなんだろうか — 以下ではこの点を考えてみたい。

2.A, B, C

 その「転轍機」こそ、「ABC」というアルファベット順、あるいはそれを物理的に象徴する、死体の傍にその都度置かれる『ABC鉄道案内』である(これに勿論、ポアロのもとに来る手紙の署名ABCを加えてもよい)。最初に、Aのつく町に住んでいる、姓がAから始まる人物が殺され、次に、Bのつく町に住んでいる、姓がBから始まる人物が殺され……と、連続殺人事件は〈アルファベット順〉に進んでいく。この〈アルファベット順〉が、この無差別と見える連続殺人唯一の機序であり、それがなければ、一つ一つの殺人事件は「時系列順に作り出された死体の山」とはみなされないだろう。

 チェスタトンの短編と対比しておこう。「折れた剣」では一度の戦で「死屍累々たる戦場」を作り出すことができた。戦場という同一空間の中に多くの死体があるのだから、そこに「折れた剣先を含んだ死体」を隠すことができる。だが、平時のイギリスの都市となるとそうはいかない。いくら殺人を引き起こそうと、それらが「同一の連続した事件」とみなされない限り、そこには起こった場所もバラバラの、複数の独立した事件があるだけとなり、殺したい人物を隠すべき「死体の山」など存在しなくなってしまうからである。複数の殺人を一つの連続した事件へと秩序づけるもの、それこそが〈アルファベット順〉なのであり、この決まった順序こそが、「戦場の空間における死体の山から都市の時系列的な死体の山へ」と変換してくれる当のものなのである。

 さて、〈個々の殺人と対応づけられる、決まった順序をもった個々のアルファベット〉というモチーフは、探偵小説におけるある着想と、同じものではないにせよ、何らかの関連を持っているように思われる。それは、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929)で本格的に導入された「見立て」である。私は後期クイーン論の中で、「見立て殺人」を次のように定義した。

  • 見立て殺人=犯人や登場人物を(そしてしばしば読者も)含む世界で広く知られている文書や考えに見立てられて起こる(連続)殺人事件

 この定義は少々内包が緩すぎたであろうか? というのも、この定義にしたがえば、「英語のABCというアルファベット順」という「世界で広く知られた考え」にのっとっている以上、『ABC殺人事件』もまた「見立て殺人」もの、ということになってしまうように思えるからである。しかし他方、この作品を「見立て殺人」であると断言することに、多くのミステリー・ファンは躊躇せざるを得ないだろう。次節ではこの点を少し突き詰めてみたい。

3.シークエンス殺人

 なぜ、『ABC鉄道案内』をその度ごとに傍に置かれた、アルファベット順に殺されていく死体の列を「見立て殺人」とわれわれは呼びにくいのか。その理由には以下の2点があるように思われる。

*勿論、本作が無作為殺人の「リンク」を探す「ミッシング・リンク」ものだからだ、というのが一番簡明な理由であろう。これについてはひとまず措き、「終わりに」で取り上げる。

  1. 「見立て」に使われるものは、マザー・グースのような童謡や俳句であったり、何らかの「物語性」がそこに含まれる場合が多い。対して本作で事件と対応づけられる「アルファベット順」には何の物語性もない
  2. 「見立て殺人」においては、探偵などの登場人物が事件と見立ての関係を「読む」ことが必要である。対して、『ABC鉄道案内』やポアロ宛の手紙にある「ABC」の署名など、本作においては対応関係を「読む」作業はほとんど必要ないほど最小化されてしまっている

 このように見てくると、確かに前節における私の「見立て殺人」の定義は緩すぎたようにも一見思える  だが、この定義が先のクイーン論に一定の成果をあげたことも鑑みて、ひとまず保持しておくことにする。代わりにここで行うのは、本作を「見立て殺人」の特殊事例・極限事例として位置付けること、そしてさらには概念化することである。

 まず2. の方から見よう。本作では、ポアロのみが第一の事件の直後、「これがはじまりです」(42頁)と本作が連続殺人になるであろうことを見抜いている。アルファベット順に対応した連続殺人ではないか、という懸念が捜査陣に共有され始めるのは、第二の手紙がポアロのもとに届き、警察や医師たちと会談する場面においてである(99頁)。確かに、その懸念が比較的速やかに共有されるほど、〈アルファベット順〉と事件との対応を読むことに、ほとんど努力は必要ない。だが振り返って考えてみれば、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』からして、第一の事件の直後にファイロ・ヴァンスが「見立て」をすぐ見抜いてしまっていた。とするならば、この「2. 事件とアルファベットの対応を読む努力の最小化」は、本作を「見立て殺人」と関連づける大きな障壁とはなり得ないだろうと判断できる。

 問題は1. の方である。物語性も何もない、事件とアルファベットとのこうした対応関係を「見立て」と言うのは難しいのではないか、というのは正当な疑問と思われる。そこでこう考えよう。「見立て」から物語性や人間性などを全て抜き去り、アルファベット順という〈順序構造〉だけを残した、というのが、この作品における特異で極限的な(それゆえ厳密な意味ではそうとは言えなくなった)「見立て」の姿である、と。もはや「見立て」とは本来の意味では言えないこうした連続殺人の構造を、「見立て殺人」と呼び続けることは不適当であろう。そこで新たな概念を与えてみたい。ややぎこちないが、「シークエンス殺人」はどうであろうか。〈順序構造〉は何も英語のアルファベットだけに限らない。自然数も備えているし、トランプの順番などもそうである。これらを全て包括するにあたり、一般に「列」を意味する「シークエンス」の語は相応しいように思えるのである。

 かくして「見立て殺人」の系ないし特殊事例としての「シークエンス殺人」を次のように定義する*1

  • シークエンス殺人=犯人や登場人物を含む世界で広く知られている「順序構造」と対応づけられて起こる(連続)殺人。

 本節最後に、この概念を用いて改めて「折れた剣」と本作の関係を明示しておこう。ABC殺人事件』は、シークエンス殺人を用いて、「折れた剣」における戦場の空間における死体の山を、都市の時系列的な死体の山へと変換した作品である

 ちなみに「シークエンス殺人」の他の作例としては、エラリー・クイーンの後期作品や鮎川哲也の初期作品が挙げられる*2

終わりに

 ここまで保留していたポイントに立ち返ろう。前節で述べたように、本作は、無作為連続殺人の「ミッシング・リンク」を探る作品と一般にされており、本記事ではこのテーマについて触れてこなかった。実のところ、解説で法月氏が述べているように、この点は先行作『三幕の殺人』(1935)との関係を考えねばならないように思える。『三幕の殺人』を再読の上、この点は改めて考察したい。この考察の不在は、最初に述べたように、本記事の論が「不十分」である点の一つである。

 さらに言えば、クリスティーがこの時期「見立て殺人」ものの代表作であるヴァン・ダインの『僧正殺人事件』を読んでいたのかどうか — もちろん間違いなく読んでいるだろうと思っているのだが — が判明しなかった(フィルポッツの『誰がコマドリを殺したのか?』は二人の関係からして読んでいる可能性が高いが、フィルポッツのこの作品を「見立て殺人」ものと言うことはできない)*3。私の研究は必ずしも表立った影響関係を扱うものではないが、かの女がこの時期に『僧正』を知っていたかどうかはやはり重要だと思われる。ご存知の方があれば、教えていただきたい*4

 

※5/31夜、字句一部修正。

*1:千街晶之氏が、「見立て殺人」を論じる『水面の星座 水底の宝石』(2003)の第7章で、「〈見立て殺人〉ものではないけれども」と断りつつ『ABC殺人事件』に最後に触れているのも、本作と「見立て殺人」との間接的な関係を表していると言えるかもしれない。

*2:クイーンについては先の論文を参照して欲しいが、以下簡単に述べる。(ネタバレのため以下反転)『最後の一撃』(1958)は、順番に送られてきた品物が「フェニキア語のアルファベット」と関係付けられるため、「シークエンス殺人」と言える。論文で扱ったように、後期クイーンの作品を見ていくと、この作品は「見立て殺人の深化」の一つの帰結として捉えることができる。これも、「シークエンス殺人」と「見立て殺人」が抜き差しならぬ関係を有していることの、一つの傍証と言えるかもしれない。(反転ここまで)鮎川哲也の作品とは『りら荘事件』である。この作品については近々論じる予定である。

*3:しばしば言われるように、いずれも1924年に出たフィルポッツ(ヘクスト)のこの作品と、フィリップ・マクドナルドの『鑢』は、マザー・グースをモチーフにしており、それぞれ興味深い作品ではあるが、事件の構造とマザー・グースの歌が対応づけられている訳ではない。なお評論「傑作探偵小説」を読めば分かる通り、ヴァン・ダインがこれら2作を読んでいることは確実である。

*4:本記事は、4月に行われた『新青年』研究会の例会でエラリー・クイーンについて発表した際に受けた、「『ABC殺人事件』は見立て殺人と言えるのでしょうか」という質問に触発されて書かれたものである。質問者の方に感謝したい。