Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

思想論としての探偵小説、あるいは探偵小説の思想:笠井潔『哲学者の密室』

 今回は笠井潔氏の矢吹駆シリーズ第四作、『哲学者の密室』(1992)を取り上げる。多様に論じうる原稿用紙三千枚のこの大作の中で、ここではとある一点 ー 探偵小説としてのロジックの中心をなす箇所 ー に着目し、いかにして探偵小説と思想論とがそこで巧みに二重化されているかを示そうと思う。

*用いるのは創元推理文庫版(2002)である。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

 

1.「ジークフリートの密室」から「竜の密室」へ

 この作品の探偵小説としての核心は、〈「ジークフリートの密室」から「竜の密室」へ〉という密室という犯罪現象の本質の移行にある。簡単に順に見ておこう。

 「ジークフリートの密室」とは、「特権的な死」の夢想を封じ込めたものだ。特権的な死とは、「本来的自己を覚醒させる凝視された死」(778頁)であり、詰まるところジークフリートのような英雄的な死だ。そして密室殺人の犯人はそのような「死の夢想」を封じ込めようと、意図的に密室を作ろうとする。実際、第二次世界大戦中、コフカ収容所で起きた三重密室殺人はそのような意図によって作られた。

 対する「竜の密室」は、ジークフリートに倒された竜が「全身を痙攣させ、大量の血を撒き散らしながら、断末魔の苦痛に喘ぎつつ過程としての死を」(777頁)死んだように、凡庸な死に関わる。その際密室は犯人の意図とは無関係に、だらだらと無限に続いてしまう死の不気味さ=〈イリヤ〉を堰き止めるようにして偶然に生成する。

 そしてダッソー邸の森屋敷で起きた三重密室殺人は、まさにそうした「竜の密室」に対応したものだった。通常、探偵は密室の作者、すなわち犯人がいかに密室を作ったかを考え、結果、犯人がいかにして密室の壁を突破して密室に出入りしたかを考えてしまう。だが、撲殺とも刺殺とも判断不能な「宙吊りの死」を死んだロンカル=フーデンベルグの最後を踏まえても、これは作者不在の、偶然出来上がった密室なのではないか。そこで、カケルは次のように「構図は逆転」されなければならないと説く。

誰が、どのように三重密室の中心点まで到達しえたかではなく、三重密室の外に脱出できたか(1017頁)

 これは、ジークフリートの密室」から「竜の密室」への転換を、探偵小説的な視点・構図の逆転として表現したものである。「入ることから出ることへ」といったシンプルな発想の逆転によって謎を解明する、というのは探偵小説特有の推理のダイナミスムであり、駆シリーズでも往往にして用いられている。今、あくまでも探偵小説としてこのロジックを見たとき、その見事さは「出ること」に視点を転換した瞬間、犯人がたった一人に絞れてしまうというその「簡明さ」にある。三重密室を破って現場の東塔の中に入れた人物など存在し得ないように思えた訳だが、三重密室の外に出ることができた人物はただ一人だけ存在し得たのである。それがフランツ・グレ、かつてのハインリヒ・ヴェルナーであり、それゆえ彼のみが犯人たり得るのである。

 下男としてダッソー邸に潜り込んでいたグレは、東塔に幽閉されたフーデンベルグを自らの手で殺す計画を立てた。屋敷隣の廃屋から彼を射殺すべく、ダッソー邸内の何本もの木の枝を切り、さらに地面の鉄杭に枝二本を挟み込んで、廃屋と東塔の換気窓を見通せる「緑のトンネル」を作った。そして事件当夜、彼は屋敷を抜け出して廃屋に到着し、換気窓に顔を出したフーデンベルグを狙撃しようとする。だが狙撃は失敗し、換気窓から室内に転落したフーデンベルグは命を落としてしまう。三重密室はこのようにしてグレの意図せざるかたちで出来上がってしまったのである。

 さて、ここまでの内容は無論のこと、ただの確認に過ぎない。この確認を踏まえて以下で検証したいのは、構図を逆転させるこのロジックそれ自体が、本書で展開される哲学闘争とアナロジカルに共鳴しているのではないか、という仮説である。すなわち、ロジックの前半部と後半部、それぞれがこの小説に登場する二人の哲学者の思想に重ね合わされているように思えるのである。箇条書きにして示しておこう。

  • 密室の中心点に到達すること=ハルバッハの「死の哲学」
  • 密室の外に脱出すること=ガドナスの「〈イリヤ〉の哲学」*1

2.密室の中に入ること、あるいは死の哲学

 まず「密室の中心点に到達すること」から考えよう。これはダッソー邸の森屋敷の場合、生い茂る森、地上階のダルティやグレにダランベール、そして二階のダッソーとジャコブといった「生けるもの」たちを突破して、東塔の閉ざされた扉の内側にある「屍体」に到達することを意味する。つまり、〈「生けるもの」による囲みを突破していかにその中心にある死者へ至るか〉ということであり、この問い自体(ハイデガーをモデルにした)マルティン・ハルバッハの「死の哲学」を思わせる。

 ハルバッハが重視する死とは「生の可能性を目覚めさせる死」(408頁)、あるいは先に引いたように「本来的自己を覚醒させる凝視された死」だ。生を賦活する特権的な死を、所有することは決してできないにせよ、その可能性を自身の生の只中で対象化して接近すること。

 とするなら、「生けるものに囲まれた、成立不可能な密室の屍体を対象化して考察し、いかにそこに到達するか」という探偵小説上の問題は、「生の只中で、所有不可能な死の可能性を対象化して凝視し、いかにそこに接近するか」というハルバッハの死の哲学の空間的隠喩となっているように思える。前者の問題を解き得たならば、探偵は犯人という事件の作者に対する勝利の栄光を手にし、後者の接近が可能になったならば、その人物は本来的自己へと覚醒することになるだろう。

3.密室の外に出ること、あるいは〈イリヤ〉の哲学

 続いて「密室の外に脱出すること」を検討しよう。前節で述べたように、ダッソー邸における森の木々や人間たちが、「屍体」に対する「生けるもの」であったとするならば、この屋敷から外に出ることは、「生けるもの」の外へと出ることを意味することになる。だが、この〈生の外〉は単純に「死」を意味している訳ではない。ダッソー邸の外に出て、読者は確かにやがてレギーネ・フーデンベルグの屍体にぶつかる訳だが*2、その「生けるもの」と屍体の間に、広がっているものがある。

 そう、それは「巨大な廃屋」である。翌月には取り壊される予定というこの廃屋、それは本作もう一人の哲学者である(レヴィナスをモデルにした)エマニュエル・ガドナスの「〈イリヤ〉の思想」を空間的に転釈したもののように思える。

 カケルによれば、無限の過程としての死を閉じ込めた竜の密室のもつ、「おぞましさ、不気味さ」がまずもって〈ある(イリヤ)〉である(779頁)。ガドナス自身の説明は次のようなものだ。

〈ある〉を前提にして考えれば、死は凡庸で、無限におぞましいものとなる。〔…〕はじめも終わりもない、曖昧に続くだろう存在の夜に。曖昧な恐怖、曖昧な不安。(791頁)

 対して廃屋はどのように描写されていただろうか。ナディアの内的独白を読もう。

見捨てられ荒廃した建物は、わたしを不安な気分にさせた。薄気味わるいのだ。自然のなかの心をなごませる静けさとは違う、不気味な静寂があたりに満ちている。(872頁)

 生から死へと向かう無限の過程のもつ「おぞましさ」や「不気味さ」、さらには「曖昧な不安」といった〈イリヤ〉の特徴が、ここでは、ダッソー邸の「生けるもの」とレギーネの屍体の間に位置する、もはや使われなくなった「巨大な廃屋」の「薄気味わる」さ、「不気味な静寂」、「不安な気分」によって表象されているのではないか*3

 そして、ダッソー邸の「生けるもの」によって作られた三重密室の外に出ることができたということは、見方を換えれば、既に〈生〉という密室は破られているということでもある。それは今や死へと続く過程である「おぞましさ」、「不気味さ」である〈イリヤ〉に既に避けられず侵食されている — 三重密室の外に脱出するということは、とりもなおさず「生を侵食する死」というガドナスの思想を空間的に表現することに他ならないのである*4

 

 今や、先の探偵小説的なロジックと本作における哲学・思想との関係は明らかであろう。「密室の中心に到達することからその外に脱出することへ」という構図を逆転させる推理は、「死の哲学から〈イリヤ〉の哲学へ」という死と生をめぐる思想の移行を表現したものなのである。この点で、『哲学者の密室』は、思想を表現する探偵小説、あるいは思想論としての探偵小説を具現した作品ということができるだろう。

 第1節の議論を振り返れば、このロジックに「死の哲学から〈イリヤ〉の哲学へ」という思想的な変化が畳み込まれているということは、何も不思議なことではない。このロジックはそもそも、「ジークフリートの密室から竜の密室へ」という変化を表したものであった。そして「ジークフリートの密室」を支える思想がハルバッハの「死の哲学」であり、「竜の密室」の着想がガドナス自身によって提示されていることを考えれば、この表現ないし畳み込みは当然のこととも言える。ただその表現が、〈ダッソー邸の「生けるもの」ー 廃屋 ー 二人のフーデンベルグの屍体〉という探偵小説上の空間構成を使ってなされていることに、哲学と探偵小説という文学形式とを重ね書きすることの、抜き差しならぬ必然性があると思われるのである。

4.探偵小説の思想へ

 ここまで考えてくると、さらに一歩進めて次のような問いが浮上してくる。

 

 「生と死をめぐる二つの思想の移行を探偵小説のロジックで表現できる、という事実が告げる、〈探偵小説特有の思想性〉とはいかなるものか。

 

 これは、十全に答えるにはあまりに大きな問いである。それでも本書に即して(そして部分的に『哲学者の密室』の著者の探偵小説論を参考して)ひとまず次のような仮説を、大雑把ではあることは承知で提示しておきたい。第一に、19世紀以降に入り、鍵のかかった部屋と自立して考える個人が照応的に成立したこと(398頁)、第二に、そうした個人を大量に生み出した規律権力、及びそれと相補的な生政治の二本立てで進むフーコー指摘するところの生権力の拡大(そしてそれに伴う「生」の価値の迫り上がり)、これらが、〈出ることと入ること、生と死、内と外といった対立を様々な仕方で自覚的に論理的に転倒させる思考〉、すなわち探偵小説の思考をおそらくは不可避に招来したのだ、と。19世紀はまた統計学が発展し、科学的思考が政治とこれまでとは異なるほど密接な関係を持ち始めた時代だ。科学の核心にある推理と論理を使って、自明に見える諸対立を転覆しようと試みること — ここにまずは探偵小説の思想性があるように思えるのである。

 科学と政治の関係や生と死のあり方、そしてまた時々において優勢な論理のありようも、19世紀から現代に至るまで変わってきた。探偵小説が国を変えながらなお命脈を保ち続けているのは、こうした生と死のあり方や優勢な「とき」の論理に、その転倒的な思考でもって部分的にではあれ抗しようとしているからではないか*5私見によれば現在では、規律権力はもはや生政治と相補的な、しかしそれから独立した軸としてではなく、生政治の主導の下、その一部に組み入れられて機能しているように見える。こうした現在において、出ることと入ること、内と外、そして生と死をめぐる探偵小説の思考がどのように働いているのか — それを検討する作業をいずれ始めねばならないだろう。

*1:ハルバッハのモデルはマルティン・ハイデガー、ガドナスのモデルはエマニュエル・レヴィナスであるが、ここでは作中で検討されるハルバッハの哲学、ガドナスの哲学としてそれぞれ扱う。

*2:レギーネの死はどのようなものだったのだろうか。カケルは前篇で、ダッソー=ジャコブ犯人説を提示した際、ダッソーは父エミールの死を封じ込めた西塔に対応するように、東塔にロンカルの死を封じ込めようとした、と指摘していたが(428頁)、実は同じ高さ、そして水平にほぼ同じ直線上に、レギーネ・フーデンベルグというもう一つの屍体が廃屋に存在していたことになる。ヘルマン・フーデンベルグの屍体を時間的にも空間的にも中央にとれば、大過去にエミールの屍体が西に、近未来にレギーネの屍体が東に存在することになる。かの女を至近距離から銃で処刑したヴェルナーはその死の様を口にしていないが、やはり死をちらつかされた、長い恐怖を味わった後の死であったと考えるのが妥当だろうか。

*3:「不安」は勿論、ハイデガー=ハルバッハの重要タームであるが、ここではいわゆる「死の不安」が問題がなっている訳ではない(ちなみにレヴィナスにはハイデガーと異なった「不安」概念の使い方がある)。また〈イリヤ〉の表象可能性は考察すべき哲学的問題であるが、ひとまず措く。

*4:ここで、もう一つの「死」を、おそらくは英雄的とも日常的とも言えないであろう死のあり方を対置したくなる。それはレジスタンス活動の果てにナチスに銃殺された数理哲学者、ジャン・カヴァイエスの死である。彼は第二次世界大戦後、レジスタンスの英雄とみなされたが、本人にそのような意識はなかったに違いない。第一に、彼は「匿名」で死んだ。彼は最後に名前を明かすことなくアラスで銃殺され、墓には「無名5号」とだけ書かれていた。第二に、彼はレジスタンス活動を「楽しんで」いた。彼は危険を冒すような行為を好んでするタイプの人間であり、実姉の証言によれば、抵抗運動にもそのような行為の延長という側面があった。危険を冒すのを好むが、かといってことさらに名をあげようとせず、むしろペトルマンのヴェイユ伝によれば「自分の内部にあった知識人を滅ぼし去って」、子供の無邪気さで抵抗運動を行い、処刑された。その抵抗運動は死の可能性に先駆した覚悟をもった強迫症的なものでもなかったし、またその死は無限の不気味な過程というよりも、もっとあっさりと断ち切られたかのような印象を与える。彼の死をどう考えるか — この点については見通しこそあるものの、今しばらく考察が必要である。

*5:第一次大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗していたからではないか」(笠井潔「大量死と探偵小説」、『模倣における逸脱』、彩流社、1996年、79頁)。