思うところあり、今日から、実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者ジャン・カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約を何回かに分けて投稿していこうと思う。この要約は、閉鎖したブログでかつて断続的に投稿していたものであるが、それに誤字・脱字等の最小限の変更を加えたものを基本的に投稿していくことにする。なお投稿内容に対して後で情報を付け加えることがある(中村による補足は註にておこなう)。またこちらの不見識による間違い等があれば、コメント欄にてご指摘いただけると幸いである。
この評伝はまずもって、カヴァイエスが当時の哲学者や数学者と育んだ交流が手紙を中心に語られている点で、哲学や数学を研究する者にとって興味深いものである。今後の投稿で、カヴァイエスのフッサール宅訪問やハイデガーの講義への出席、若きレヴィナスやジャンケレヴィッチの姿、そしてエルブラン、ネーター、ゲンツェンといった数学者や論理学者との邂逅が記述される筈である。評伝の後半では、カヴァイエスの対ナチス抵抗運動(レジスタンス)が記述の中心となる。
初回の今日は、カヴァイエスがパリのエコル・ノルマル(高等師範学校)に入るまでを記した最初の二章を簡潔にまとめる。物足りない向きもあろうが、今後に期待していただければと思う。
*
第1章 幼年期
ジャン・カヴァイエスは1903年にフランスのサン・メクサンに生まれた。上にこの伝記の筆者である姉がいる(後年生まれた弟はすぐに病死)。また家系はプロテスタントであり、ユグノー派のマラン(Malan)家に父方は連なり、母方の信仰にはエミリアン・フロサール(Émilien Frossard, 1802-1881)が影響を与えているようだ(フェリエールによれば、信仰面では父側からの影響が大きかったようだ)*1。父は軍事学校で地理学の教師をしており、父の仕事の関係でカヴァイエスはトゥールーズに1909年に移る。
トゥールーズでの興味引かれるエピソードとしては、カヴァイエスが音楽の勉強を始めたという箇所だろう。耳は良かったが声は余り良くなかったらしい。その不器用さにもかかわらず熱心にピアノに取り組んだが、母親がその熱心さに心配して彼をピアノから引き離してしまった。しかし筆者フェリエールによれば「ジャンの音楽的教養は後年私は驚かされた」とのことで、「私は今後、音楽が彼の人生全体に与えた影響について繰り返し語っていくことになるだろう」(p. 32)と述べている*2。
第2章 青年期
1918年にカヴァイエス一家はボルドーに移る。カヴァイエスも新しい高校に移った。そして彼はそこで数学と哲学のバカロレアを同時に準備することを決意する。1919-20年度の間、彼は数学こそクレマン(Clément)先生の授業に出席していたが、哲学に関しては一人で学んだようだ。「良(bien)」で二科目の試験を突破した彼は、パリの名門リセ・ルイ・ル・グランに入学する。「カヴァイエスはこの名門校を、ベルソール(Bellessort)氏*3のエスプリを、ベルネ(Bernès)氏*4の哲学の授業を気に入っていた」。そして1921年、カヴァイエスが哲学の免状を取ると、ヴァカンスの間彼の父はカヴァイエスをドイツに連れて行く。これが、その後も続くカヴァイエスとドイツとのコンタクトの、最初のものとなる。
このドイツ旅行の最後で、カヴァイエスはハイデルベルグに立ち寄っている。このとき、彼はずっとカントの追憶に捉えられていたため、大学図書館の展示室に飾られている歴代の大学著名人の肖像の中に、カントを必死に探していた。しかし見つからないのでガイドの人に「カントはいなかったです」と言うと、その人は笑って、「カントはハイデルベルグの教授であったことはないから」と応えたという(p. 46)。
ドイツ旅行から帰って来た1921年10月、エコル・ノルマルに入学するためのルイ・ル・グラン校での第二学年度が始まった。しかしこの年度の授業にカヴァイエスは失望し、彼は高校をやめたいと父親に懇願する。一度は父親に説得され高校に戻るも、やはり授業に耐えきれず、結局改めて父親を説得し、自分一人で勉強することになった。
そしてエコル・ノルマル入学試験。カヴァイエスは受けた後落ちたと思ったようだが、結果は合格。しかも主席での合格を果たしていた。