Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

数理の研究と政治情勢の緊張—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (8)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第7章である。主・副、二つの博士論文の起草の開始と二度にわたるゲッティンゲン滞在が語られると共に、政治情勢が緊張し始める。

第7章 仕事の完成

 カヴァイエスはセレスタン・ブーグレが提供した奨学金で、ドイツに再び向かう。「正味一年が博論の起草のときには有益でしょう」(p. 125)。

 1935年9月にはパリでのウィーン学団会議に出席し、ゲッティンゲンには冬に戻った。これが三度目のゲッティンゲン滞在であろう。三ヶ月の滞在の後、パリに戻り、『公理的方法と形式主義』と題された本の起草を開始する。彼はこれを博士主論文にすることを決め、集合論についての研究は博士副論文となる。

 1936年冬、カヴァイエスはエコル・ノルマルのアグレガシオン復習教師となる。政治は以前ほど彼の関心を惹かなくなっていたが、1934年2月6日の危機の際には群衆の近くにいた。そして1936年の危機、「スペイン革命」には彼も無関心でいられなかった。

 日曜日夕方に戻ろうとすると、電光掲示板で選挙結果〔フランス人民戦線が勝利した1936年5月3日の総選挙のこと〕を見ようとしている群衆に出会いました。これは2月12日にナシオン広場で自発的かつ陽気に振る舞っていたのと同じ種類の人々です。(…)それはプチブルが集まっていたオペラ広場とは対照的で、そこで呆然とし落ち込んだSと会いました。逆に帽子をかぶった陣営の側(du côté casquettes)*1では、ジャンケレヴィッチ歓喜し、ド・ラロックを磔にするよう息切れするまで叫んでいました。私たちは一緒に、フィリップ・アンリオをもう少しで打倒するところまでいった(…)ボナフス(Bonnafous)*2が負けたことを嘆きました。(5月8日の手紙;p. 128)。

 1936年初め、カヴァイエスクロード・シュヴァレイ(1909-1984)、ルネ・ド・ポッセル(René de Possel, 1905-1974)、ロトマンなどとセミネールを再開する。

 水曜日、私は論理学のセミネールで発表しました ― 私たちはエルブランの最後の論文について長いこと議論しました。彼とこのことについて話せるときには、私たち誰もそうしようとしなかったのですが。しかしシュヴァレイは聡明な精神の持ち主です。(…)

 彼はこのとき、論理学の小冊子を起草していて、次のセミネールで私たちに発表してくれることになっています。(…)不幸なことに、明確になればなるほど、話題が少しずつ少なくなり、私の博論は本当に取るに足らないものではないかと心配してしまいます。水曜日に、エコル・ノルマルの廊下でブランシュヴィックに会いました。「急ぎなさい、君のライフワークを仕上げようとはせずに」。(…)数学史で私が感じている難点に関して、彼の『数理哲学の諸段階』— 彼は狂った本だと呼んでいますが ― その分この本に対する私の賛辞はいや増している、と彼に言うと、彼はほとんど情愛に満ちた、そして少々素朴な振る舞いを示しました。かくも多くの物事を対象とした本を作る忍耐が自分にあろうとは私は思いません。(2月21日の手紙;p. 128-129)

 1936年6月カヴァイエスは徴兵期間のため招集される。彼はアンジェから盟友ロトマンに次のような手紙を出している。

 弾薬入れを扱い、時間の損失であるこの不真実な生活に入ってまだ十日ほどだ。でも幸いなことに扱いは人間的だよ。毎日四時間、対壕と監督官の無骨な説明とから解放される。僕は、集合論ヒルベルトの体系へと表現する問題を考え直していた。これはまだ完全に明確ではないのだけれど、次のことは少なくとも言えると思う。そこには、そのどんな契機も飛ばし得ないような弁証法が存在する、ということだ。僕は、スコーレムの定理とエルブランの定理に立ち戻らざるを得なかった。前にした報告があまりに短いな、と君が思ったかどうかは分からない。僕はそのときは場の理論(la théorie du champs)を自明なものとみなしていたんだ。でもそれは実のところ、素朴な記号論理学の受け売りだった。要するに、集合をそれ自体で立てられたものとみなし、そういった集合間の関係を記述する、という考えを僕は受け継いでいた。はっきりとは書かなかったけど、エルブランの大きな長所は、操作(traitement)から、一切の直観的な意味(量化記号の解釈)を抜いたところにあった。僕はこのことをやり直そうと思う。論理計算の完全性についてのゲーデルの同時期の仕事(大論文〔不完全性定理の論文のことと思われる〕の一年前の仕事)とより結びつけながらね。

 でも僕はエルブランの論文を持って来なかった。君の持っているものの一つを送ってくれるかな(確か二部持っているように記憶しているんだけど)。(6月13日;p. 130-131)

 こうした状況の中、オスロで数学会議が開かれることになった。カヴァイエスにはそのための補助金が出ることになった。彼は受けるのを躊躇していたが、結局受け、一つ発表をすることになる。

昨日自分の講演をしました。それはあまりに哲学的でまた分かりにくいものになってしまいました。でも、その雑多さでいささか滑稽な種類のこうした集まりを、聴衆は理解しようとはせずに来てくれました。あるアメリカ人女性は、可能な限り誉めてくれましたが、あるベルギーの論理学者は、僕に全く理解させる気がなかったことは明らかだと批判しながら出て行きました。(…)(1936年7月15日)

 この数学会議の記録は現在オンラインで読める。カヴァイエスの発表は、「形式主義と数学的構造の表現(Formalisme et expression d'une structure mathématique)」という題目でなされたようだ(発表原稿は収録されていない)。

 カヴァイエスオスロからドイツ経由でフランスに帰った。彼は何日かゲッティンゲンで仕事することを望んだのである。これが四度目の、そしておそらくはゲッティンゲン滞在となる。

 ゲッティンゲンで、彼は「両腕を広げて」迎え入れられた。カントールデデキント往復書簡に関してヘルムート・ハッセと会い、とりわけゲルハルト・ゲンツェン(Gerhard Gentzen, 1909-1945)と長く有益な会話をした。

ゲッティンゲンでゲンツェンと長い会話を幾度かしました。私が〔これまで〕彼について書いたくだりをやり直す必要があります。それはちょっと単純化し過ぎでした。彼は今、解析学に関して〔初等算術に関して行った無矛盾性証明と〕同種の証明をしようとしていて、二年はかかる、と考えているようです。彼が用いているような超限帰納法の明証性の特権性を私が認めるわけではないにしても、このことは重要ではありません。少なくとも、最大限到達しうる、というわけですから(1936年8月26日付けロトマン宛の手紙;p. 132)。

 ゲンツェンの仕事については、『公理的方法と形式主義』第4章の最後 — 本論の最後 — で検討されることになる。

*1:人民戦線の側を指す言葉か。

*2:Max Bonnafous, 1900-1975. フランス語のWikipediaのページはこちら