実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第8章をお届けする。
前回の第7章で全体のちょうど半分が終わり、ここから後半である。
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第8章 教育
博士論文の提出
ドイツからフランスに戻ると、カヴァイエスはアミアンの高校教師に任命される。博士論文を終えねばならないという必要性を感じ取りつつも、1936年のヴァカンス終わりまであまり執筆を進められなかったカヴァイエスだが、その頃のロトマン宛書簡では、数学と物理学の違いについて次のように述べていている。
フレイマン(Freymann)*1が〔ルイ・〕ルギエの会議の記録をくれた。僕は大きな喜びを感じながら君の報告論文を読んだよ。それは濃密で、文体も明確だった。他の論文から際立ち、論集全体を救っていた。根本的な点では僕たちはますます一致して来ているように思う。数学の公理系と物理学の公理系を、外から区別するようなものは確かに何もない。後考えないといけないのは、実在的なもの(le réel)との関わり〔関数 fonction〕だ。数学においては、経験は公理によって網羅的に記述される。思考が実在的なものから区別されるのだとしたら、諸公理の集まりのうちで思考が認める任意性によってのみだろう。物理学においては、経験の古典的な意味 ー 近似 ー に人は立ち戻ることになる。しかしこれはまだあまり十分ではない考えだ。
僕は今のところ完全性の問題 ― まだ明晰性に到達できていない ― と格闘している。僕が思うに、しかしこのことはあらゆるメタ性などの鍵だ。特にひどく無味乾燥ではあるけど、〔メタ性は〕タルスキの報告の一つにある考え(論理的帰結Logische Fomgerung)だ。もっとも終わりが欠けている。また、Extremalaxiomを備えた体系の上でのバッハマン(Bachmann)トポロジーもある。君は理解できているかな。僕は関心があるのだけど、この小石だらけの道を横断する努力に値するのかどうかは分からない ― もしバルデュスの考えのうちに同じだけのものはないのだとしたらね*2。
また確かに、ゲンツェンの粘り強さは僕のやる気を少々くじきもした。彼はもうゲッティンゲンのフライパンの中にいる。でも僕らは幾らか若いし、喧嘩状態にあった訳でもない。スペインの歴史がここでは近くて、僕に夢見させてくれる*3。(p. 137-8)
この「ルギエの会議の記録」とは、カヴァイエスも参加した、ウィーン学団を中心とした前年の科学哲学国際会議の記録であろう。その第三巻はタルスキの有名な「論理的帰結の概念について」に始まり、ルギエの論文も入っている。また第四巻にはロトマンによる論文「数学と実在性」が収められている。
これ以降執筆が急加速する。そして1937年2月、カヴァイエスは博士主論文『公理的方法と形式主義』を大学に提出する。そして同年7月、ブーグレに博士副論文『抽象集合論の形成についての考察』、及び『カントール—デデキント往復書簡』のゲラ刷りを渡している。二つの博士論文は7月10日に出版の許可を得、翌年に出版されることになる*4。
この1937年は研究者としてのカヴァイエスにとって、大きな飛躍の年となる。6月には高等教育リストにも登録し、博論提出後の8月にはデカルト会議で発表をしている(これが博士主論文の要約とも言える「数学の基礎についての考察」である)。またウィーン学団の委員会にも顔を出し、フレンケルとゲンツェンと自分の仕事について話している。
口頭審査とブルバキとの交流
10月からは再びアミアンの高校で教えるが、翌1938年1月22日、二つの博士論文の口頭諮問がとうとう行われた。具合の悪く、出席できなかった父親に向けて彼は審査の二日後手紙を書いている。ここではカヴァイエスのスピノザ主義を論じる際、研究者がしばしば引用するカヴァイエスの一節を中心に引用しよう。
私の主論文に対する冒頭報告は、〔副論文のそれに比べて〕より明確で、より分かりやすいもので、三十分ほどでした。私はその終わりに、数学的経験を定義するよう試み、その際スピノザの加護を求めました(同時に、エルブランの才能へのオマージュも添えました)。(…)ブランシュヴィックの、数学の心理学を考慮していないという批判については、私は素っ気なく次のように答えました。「しかし教授、そうした問題は私が検討しているものでは全くないですし、私の問題にとってはまったく益のないものです」。(p. 141)
同年5月20日、彼はアミアンの職を去り、ストラスブールに向かう。ストラスブール大学文学部教員に命ぜられたのだ。これはモーリス・プラディーヌ(Maurice Pradines, 1874-1958)の後任である*5。
9月にはオランダへ向い、アメルスフォールトで開かれる哲学会儀に出席する。しかしこの会議は、ますます緊張高まる戦争の噂をあおり立てる動揺から始まった。ゴンセトとタルスキとの出会いはカヴァイエスにとって収穫であったが、動乱の雰囲気は会議の継続を難しいものにしてしまった。ストラスブールに帰ってからの手紙でも、街に予備兵が立ち並んでいると述べており、さらに11月11日の手紙では、反ユダヤ主義の光景が見られることを述べている。「近頃、反ユダヤ主義が見られます。カンマーツェル(Kammerzell)の喫茶店には〈犬とユダヤ人は立ち入り禁止〉と掲げてあります」。
前回の記事で、既にブルバキのメンバーとの交流が語られていたが、この頃、親交は本格化したようである。
生活のリズムはできています。僕たちの講義がまずまず順調であり続けることを祈っています。そして数学にもまた身を入れることができるでしょう。先日、優れた数学研究所で楽しいひとときを過ごしました。アンリ・カルタンとアンドレ・ヴェイユがそこにはいます。
特に仕事をまたしないといけません。ここ何日かやっています。今年、僕は十分に自立した考えを持っていると感じています。例えば、ソルボンヌの大学教授であるX氏にも次のように言うことができるでしょう。「僕はあなたの考えに完全に反対です」と。ブルバキのグループ(ヴェイユ、エーレスマン、アンリ・カルタンなど)は僕に彼らの解析学論のタイプ原稿を送り続けています。今読んでいるところです。(1938年11月20日;p. 147)。
1938年から翌年にかけての冬、カヴァイエスは何度もパリに来ていた。そしてレイモン・アロンと共にエルマン社から、新しい哲学のシリーズ〈哲学試行(Essais philosophiques)〉を立ち上げる。その第一巻はロトマンの論文「数学の弁証法的構造についての新探究」である。サルトルも後に『情動論素描(Esquisse d’une théorie des émotions)』(1943)をこのシリーズから刊行することになる。
数学者との討議
そして1939年2月4日、ロトマンと共にカヴァイエスはフランス哲学会にて数学者・哲学者たちを相手に議論する。ロトマンとカヴァイエスの哲学を理解する上で重要なこの公聴会の記録は、「数学の思考」と題されて出版されている(ここからダウンロードできる)。なお相手をした数学者と哲学者はエリ・カルタン、ポール・レヴィ、モーリス・フレッシェ、シャルル・エーレスマン、ポール・デュブレイユ、シュレッカー(Schrecker)*6、シャボティ(Chabauty)*7、そしてジャン・イポリットである。
この公聴会の翌日、カヴァイエスは姉に幾分懐古的な手紙を出す。この手紙についてフェリエールは次のように書いている。
ジャンが少し悲しげな気持ちを込めてエコル・ノルマルについて書いたのは初めてだった。彼は立ち止まり、過去を回顧していた。私にははっきりと分かるのだが、このちょっとした休止の最中、未来が自分に課すであろう犠牲のことを彼は既に考えていたのである。(p. 148)
戦争が近づく。「私たちに属しているこの私たちの世界、私たち家族のこの親密な世界が ― そして私たちの幸福も ― 逃げ去ろうとしていたのだった」。
*1:おそらく出版社エルマンの当時のトップ、Enrique Freymannのこと。
*2:原文は « je ne sais si cela vaut l'effort de traverser toute cette rocaille - s'il n'y a pas autant dans Baluds. » なので、あるいは「バルデュスの考えのうちに、同じだけのものがないのかどうかは分からない」だろうか。
*3:文意を十分に汲み取れた訳ではない。ご意見を乞う。
*4:またこの頃彼は、ブラウワーとハイティングのもとで博士主論文の再検討をすべくロッテルダムにも向かったとのことである。カヴァイエスの数理哲学を研究する者としてはこの点を詳しく知りたいのだが、詳細な記述がない。
*5:その年のヴァカンスではピレネーで家族一同が揃った。だが結果的に、これが家族最後の集まりとなってしまう。
*6:哲学者Paul Schrecker, 1889-1963のことだろう。
*7:数学者Claude Chabauty, 1910-1990のこと。