Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

夜の踊り—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (10)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今日は第9章である。

 第二次世界大戦が始まる。

第9章 戦争

従軍

 1939年5月10日 ― 戦争の四ヶ月ほど前 ― カヴァイエスの母が亡くなった。年明けには父の容態も悪化し、後を追うように亡くなったため、カヴェイエスと姉フェリエールは短い間に両親を亡くしたことになる。

 第二次世界大戦が始まると、カヴァイエスはブールジュの動員センターに行き、従軍する(フェリエールの夫マルセルも出征する)。9月、彼はドイツに隣接する街フォルバックに近いヴァルント(Warndt)の森にいた。身分は歩兵隊の隊長。すぐに前線での戦いも経験する。

 12月上旬には一度休暇を得るが、クリスマス前には前線に戻った。今度はモントーバンである。ここで差し挟まれるフェリエールの記述はカヴァイエスの気質を良く表しているように思われるので、引用しよう。

彼は、長たるもの模範を示し、あらゆる危険を分かち合わねばならないと思っていた。また、前進する彼の歩哨たちのモラルは、明け方一時頃に緩んでしまい、「ノーマンズランド」を放棄したいという企てが彼らの中でしばしば強くなる、ということも知っていた。そこで勇敢にも、そして ― そして彼が笑いながら書くところでは ― 大きな努力をはらって、彼は暖かい寝床を離れて、穴蔵から飛び出し、夜の巡視(ronde nocturne)をしたのである。歩哨たちは彼のこうした動静を伺い、情愛の籠った、信頼できる言葉を待っていた。この言葉が彼らの神経を鎮め、彼らに夜明けを待たせることになったのである。(p. 154-5)

 翌1940年1月、カヴァイエスはその暗号通信とドイツ語の知識が買われて暗号課に配属され、一旦パリに戻る。ノルウェーへの転属願いを出す*1も退けられ、暗号課所属としてやはりモントーバンに宿営することになる。その後、フェリエールはカヴァイエスとしばらく会うことができなかったが、実は1940年6月11日にフランスに侵攻してきたドイツ軍に彼は捕まっていたのである。

捕捉と脱走

 カヴァイエスの長い手記がここに挿入される。当時の収容所生活を知りたい方には興味深い箇所だと思うが、ここでは簡潔にまとめることにする*2

 

 6月9日、ラ・モルリエール(La Morelière)の森にある城塞を出発し、サン=レミ=アン=ロー(Saint-Remy-en-l’Eau)へ向かう。ドイツ兵に遭遇するが、このときは身を隠すことができた。しかし11日の深夜1時頃捕まってしまい、サン=ジュスト(Saint-Just)へと連れて行かれ、最終的に15日にフランスの北にあるカンブレーまで連行されると、ここの収容所に留め置かれることになる。連行は過酷なもので、食事はお粗末で、死者も何人か出ては埋葬された。パリ陥落の報もこの最中に聞いている*3。収容所には7月の2、3日ごろまで秩序などほとんどなく、当初は1万7千人ほどが収容されていたという。カヴァイエスは7月25日、イギリス人や黒人と共にトラックで収容所を脱走した。ベルギーのトゥルネー、ルネ(Renaix)を経て、さらにゲント、(アントワープ近くの)ロクレン(Lokeren)と進む。そこで修道院に滞在した後、リールを経てようやく義兄のいるパリに戻って来た。8月6日のことである。

 彼は一週間ほどパリで身を休めた後、旅を再開する。彼は自由地域*4に到達し、そこで正式に復員しなければならなかった。幸いにもカヴァイエス姉弟を長いこと知っているラトル・ド・タシニー将軍 — 彼は「脱走(évasion)」と「脱獄(désertion)」を混同しないような人柄であった — の了承を経て、カヴァイエスは正式復員となり、フランス南部に向かって姉と会うことができた。この将軍は後でも重要な役割を演じることになる。

 トゥールーズでは彼は亡くなったものと思われていたので、カヴァイエスの帰還はちょっとしたセンセーションとなった。また彼は旅の途中で、クレルモン=フェランにストラスブール大学の文学部が退去していることを知り、学生や同僚から熱い歓待を受けている。

 

 9月半ば、姉弟は連れ立ってパリへと出発した。ドイツ軍で埋まったパリを見ることは、フェリエールにとって試練であった。そして、「思想の完全な共同性」で一層深く結びついていたカヴァイエス姉弟と、カヴァエイスほど急進的ではないがやはりヴィシー政権に同調しない彼の義兄の三人は、ある運命に身を投じていくことになる。

【記事のタイトルについて】本記事のタイトルとした「夜の踊り」は、上で登場したフランス語 « ronde nocturne » を念頭に置いたものである。これは文中でそうしたように、「夜の巡視」や「夜警」と訳すのが正しい。ただ « ronde » の原義である「輪舞」や「ロンド」のもつ踊りの軽快さと、後で見るように、自らの中にいる「魔」の存在を感じ取っているカヴァイエスの部分を表すかのような語「夜」の組み合わせは、この哲学者の何らかの本質を表しているかのように思われ、試みにこのようなタイトルをつけてみた。

*1:彼に当時ノルウェー人の恋人がいたのも関係しているかもしれない。

*2:のち、カヴァイエスレジスタンス活動の最中にも虜囚を経験する。この部分は詳しく記述する予定である。

*3:ナチスがパリに入ったのは6月14日のことである。

*4:ヴィシー政権の支配するフランス南部の非占領地域を指す。