Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

虜囚中の哲学書起草—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (12)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第10章の後半である。

 カヴァイエスレジスタンス活動中に捕まり、虜囚中の収容所で哲学書の執筆を開始する。

第10章 レジスタンスと虜囚(後半)

モンペリエでの二度目の虜囚

 北部解放の指導委員会のメンバーであるカヴァイエスは、1941-2年の冬の間に、地下活動の最初の要であるプロパガンダ活動は目的を達した、と判断した。彼の目からすると活動は少々政治的に過ぎ、諸々の野心にもうんざりしていたため、敵に対するより効果的な戦いへと彼は向かおうとしていた。組織網の発展はますます彼の活動の多くを占めるようになり、ロンドン部局(ド=ゴール率いる「自由フランス」のこと)との接触が遂に必要となり始めた。

 カヴァイエスが二度目に捕まったのは、このロンドンへ向かう最中であった。1942年9月、南仏ナルボンヌから出発しようとしているときに運悪く捕まり、モンペリエの軍事収容所へと送られてしまう。

 カヴァイエス二度目の虜囚生活はやはり悲惨な始まり方をした。伝統的な薄暗く湿った牢獄へと同国人によって幽閉され、看守の監視のもと、犯罪者同様、慌ただしく直立不動の姿勢をとらされることもあった。

 この状況を救ったのが、前章で登場したド・タシニー将軍である。彼はクレルモン=フェランを離れ、モンペリエ領域で指揮を執っていた。この将軍のおかげで、カヴァイエスは鉄格子付きとはいえ少し良い部屋に移ることができた。

 カヴァイエスはパリの姉夫婦に手紙を書こうとはしなかった。彼は姉フェリエールとその夫の身の安全を第一に考え、かの女らの住所が軍事司法に知られないことを望んでいた。だが友人の言付けによって、フェリエールはカヴァイエスの消息を知ることができた。そしてまた彼女は、パリ組織網に対する指示を含んだ手紙を地下郵便経由で受け取る。カヴァイエスは時間を監獄の中でも無駄にせず、南部解放との関係は再び活発なものになっていたのだ。とりわけ、彼のメッセージに動かされたリュシー・オブラック(Lucie Aubrac, 1912-2007)*1は次のような脱走の計画を立てた。まずカヴァイエス睡眠薬で官吏を眠らせる。次いで、差し入れたノコギリで鉄格子を切断し、外へと引っ張られてそのまま脱走するというものだ。だが決行の日、ヴィシー政権のスパイの一人が心臓病を患っていたため、カヴァイエス睡眠薬をすべてスープに入れることに気が咎めてしまった。結果、その人物は眠ることなく、脱走計画は実行されぬまま終わった。

 10月15日、フェリエール夫妻はモンペリエへと向かった。ド・タシニー将軍のお陰もあり、カヴァイエスとの面会は常時認められていたようで、カンギレムも彼を訪れた。

哲学書の起草

 カヴァイエスはこのように監獄の中でも仕事をしていた。そしてそれは組織のリーダーとしての仕事に留まらなかった。彼は論理学についての論考を執筆し始める。これが、死後『論理学と学知の理論について』と題して刊行されることになる著作である。本はモンペリエの高校教師や、第3章にも登場したエコル・ノルマルの同僚であり、今やモンペリエ大学文学部教授となったジャック・ペレが差し入れてくれていたし、とりわけて友人ロトマンが貴重な資料を運んでくれた。以下は11月4日付けのロトマン宛書簡の一部である。

〔…〕哲学者の一覧をどうもありがとう。ブランシュヴィックの本一冊は持っているのだけど、他のはどうだったかな。〔…〕僕に特に興味があるのは君の欠対称性についての仕事*2だ。このことについて話すことができると良いんだけど。

 ようやく君からの本の差し入れが届いて嬉しいよ。僕は論理学についての自分の講義を起草しようとしている。パリにあって、ここでは知ることのできない本や僕のメモから離れてね。なので、特にヒルベルト=アッカーマン*3(第二版)、ルイスとラングフォード*4、タルスキ、ゲーデル、そして〔ゴンセトの〕『チューリヒ会談(Entretiens de Zurich)』は非常に大きな助けとなると思う。君がもし、フッサールの『形式論理学と超越論的論理学』をトゥールーズで入手できたら、同じく助けになるだろう。フッサールのおかげで、そして彼に少しばかり反することで、僕は自分自身の立場を定義しようとしている……しかしこうしたことを君と語らうのが僕には本当に貴重だよ(君は僕らの旧敵である『言語の論理的構文論』を持っているだろうか)。

 それにしても、雑誌『数学教育Enseignement mathématique)』と『数学年報(Mathematische Annalen)』の中には何と面白いものがあることか。ブラウアーの自殺は大変なことだ*5。もっとも、アムステルダムの親仏家ポス*6が心配していた、ということを知っているだけなんだけど。(p. 188)

  以前の記事で、カヴァイエスフッサールと会った後も「一貫して現象学を重視し、批判的な視座からではあるが検討を続けた」と書いた。実際彼はこの収容所内で書いた著作の最後で、フッサールの『形式論理学と超越論的論理学」を詳細な検討に付し、「概念の哲学」という自身の哲学の立場を提示することになる。それはまさしく、「フッサールのおかげで、そして彼に少しばかり反することで」見出された立場であった*7

サン=ポール・デイジョーへの移送とデカルト講演

 こんな中ドイツ軍が南部領域へと到着し、1942年11月11日カヴァイエスに対する予審審問が開かれる。結果、彼はサン=ポール・デイジョー(Saint-Paul d’Eyjaux)の収容所 ー リモージュから30キロばかり離れている ー へ翌日移送されることになった。そこでも劣悪な環境の中、彼は執筆を続ける。

 この収容所内での注目すべきエピソードを一つ挙げておこう。カヴァイエスは11月末、「デカルトとその方法についての講演」を行っている。この講演を聞いた医師は次のように書いている。

ジャン・カヴァイエスは、エルベ川の河口からオランダへとデカルトが渡る際の一幕 ― 船頭たちに脅かされたデカルトは、勇気を奮ってさっと抜刀した ― を呼び起こした後で、「常に剣を抜くことができなければならない」と付け加えた。そのとき拍手喝采の嵐がおこった。(p. 190)

 この講演の少し前11月25日に義兄がリモージュに到着する。警官の前でカヴァイエスは義兄と対面することになるが、少ない言葉で互いに分かりあうことができた。

 そして彼が義兄に頼んだ持ち物は、既に脱走の意図を告げていたのである。

*1:著名なレジスタンス活動家。ひとまずはWikipediaのページを参照。

*2:ロトマンの論文「数学と物理学における対称性と欠対称性」のことだろう。

*3:記号論理学の基礎』のことと思われる。

*4:おそらくは1932年に出た『記号論理学』のこと。

*5:ブラウアーは実際には自殺していないが、次に出てくるポスが何らかのニュースを誤って伝えたということだろうか。あるいは「自殺」ではなく、「自殺行為」「自滅」の意味かもしれない。

*6:Hendrik Josephus Posのことか。

*7:むしろ彼が哲学的な「敵」とみなしたのは、手紙にあるようにカルナップを代表とする論理実証主義であったように思える。