Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

収容所からの脱走—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (13)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第11章である。

 カヴァイエスは義兄との対面の後、サン=ポール・デイジョーの収容所から脱走する。

第11章 脱走と闘争

軍事収容所からの脱走

 義兄は一度パリに戻り、南部解放の密使と会ってカヴァイエス脱走のための相談をする。この後、彼はクリスマス翌日にパリを発ち、再度リモージュへ到着する。そしてリモージュでの同僚オラボナ(Orabona)氏の許を訪れると……そこに既にカヴァイエスはいたのである。

 脱走の経緯は以下の通りである。

 

 カヴァイエスは収容所で一人の共産主義者と仲良くなった。この共産主義者は長いこと収容されていて、警備員の信頼を得ていた。そして彼は収容所の鉄条網の外にアトリエを持つという特権を有しており、任された色々な補修作業のために自由に収容所内を移動することができた。この共産主義者がカヴァイエスに脱走の手助けを申し出たのである。

 1942年12月29日、彼は書きためた原稿の束を携えていたカヴァイエスを伴って、アトリエに行った。歩哨たちはのんびりと見回りをしていた。

 カヴァイエスはそのアトリエから脱走した。厚い雪が物音を消してくれ、何とか国道まで辿り着くことができた。彼はリモージュへと歩き出した。リモージュまでは標識によると20キロ。しかし、虜囚生活で衰弱した体で雪の中を一人で歩いて疲弊困憊したカヴァイエスは、目的地まで辿り着けないだろうと感じた。冬の寒い午前、車の通りは稀だったが、それでも何とか三台目のトラックが止まってくれ、カヴァイエスリモージュまで乗せてくれたのである。

 この逃亡劇には幾つかの事情が味方してくれた。第一に、悪天候が街と収容所の間の通信を断ち切ってくれた。そして第二に、収容所での点呼は夕方のみであり、カヴァイエスの不在はそれまで知られそうになかった。

 かくしてカヴァイエスと義兄は再会し、リモージュを脱する。二人はまずリヨンに着く。そこでカヴァイエスは組織網と再接触し、新しい身分証を得ることができた。著作の執筆もそこで再開する。その後パリに辿り着き、姉と会うことができたのである。

 ちなみにヴィシー政権によって、彼のソルボンヌでの職は罷免されていた。

闘争の継続と著作の脱稿

 さて、カヴァイエスはロンドンに改めて出発することになるのだが、それまでの二ヶ月間のパリ生活は精力的なものだった(ちなみに彼はジュリー夫妻からサン=ルイ島のアパルトマンを借りて暮らしていた)。以下、その精力的な活動の一部である。

 このとき、キャリエール(Carrière)の名で活動するカヴァイエスを手伝ってくれる者として、活動名ジェラールことジャン・ゴッセ(Jean Gosset, 1912-1944)がいた。彼は博士論文の準備を放棄してまでテロリスト*1の役割に打ち込んでいて、カヴァイエスが捕まっていたときは組織の指揮を執っていた(そして後に、パラシュート降下の際の怪我がもとで亡くなることになる)*2。ゴッセが活動部の補佐なら、ティエリーという活動名で知られる男が情報部の補佐であった。そしてティエリーの同僚レミーは有名なレジスタンス運動家、ジャン・ムーラン一家とつながっていた。

 さて、カヴァイエスはこの組織網を二つに分割する。すなわち情報部門と直接行動部門(破壊活動)とに分け、前者のリーダーにティエリーを、後者のリーダーにゴッセを据えたのである。 なお彼は既に1942年4月、この組織に〈コオール (Cohors)〉*3という美しい名前を与えていた。フェリエールはこの組織に属していた何人かの忘れ難い顔を回想している。

 このようにパリを中心に北部で組織網を充実させていったカヴァイエスはまた、ベルギーでも重要な組織網を作り上げていった。第一に、シャルル・アンダーセン(Charles Andersen)博士がベルギーとオランダのためのプロパガンダ活動と研究のグループの立ち上げを助けてくれた。第二に、ブリュッセルでラメール(Lameere)教授がベルギーにおける組織網全体の指導を請け負ってくれた。勿論、このベルギーでの組織網は、絶えず国境を行き来する者たちによってフランスのグループと結びつけられていた(特にフルキエ牧師(Foulquier)の夫人がベルギーとパリの関係確立に貢献した)。

 コオールはまた、定期的に南部との結びつきも保持していた。

 破壊活動はとりわけてブルターニュ地方と北部で繰り返され、パラシュートによる武器と爆発物の運送も多くなってきた。カヴァイエスの果たすべき仕事は猛烈な量となり、午前中の個人的な仕事を浸食していった。それでも彼は論理学論考を遂に脱稿し、ロンドンからの呼び出しがかかったときは、その序論を書いていた。以下はそのときのフェリエールの記述である。

出発せよと告げるメッセージがラジオを通じ流れ、私は彼のトランクを閉めるのをオルレアン岸の彼の部屋で手伝っていた。彼は私に本の原稿を手渡した。「もし僕が戻って来なかったら、この、僕の哲学的遺書を出版してほしい。残念なことに、僕が書いた序論は満足のいくものではなかった。そしてさらに残念なことに、序論抜きではこの研究は理解し難く、理解しようとするものたちの努力を要求することになると思う。だけど ― 彼は笑いながら、そして私がようやくのことで堪えている涙を認めて付け加えた ― 僕は戻って来るし、後で書くことができるだろう」。ああ!彼は確かに戻って来た。しかし序論を書き上げるのに十分な時間はなかったのである。(201頁)

 この箇所には以下の注が付いている。

私たちの逮捕と家宅捜索の結果、この弟の原本は失われてしまった。しかし幸いにも、彼はタイプ打ちした原稿をフルキエ夫人に託していたのである。かの女は広い哲学的教養によってジャンの仕事に興味を持っていた。フルキエ夫人によってきちんと保管された、しかし残念なことに不完全なこのタイプ原稿が、『論理学と学知の理論について』として出版されたのである。

 ロンドンへ向かう前、カヴァイエスは彫刻家ルネ・イシェ(René Iché, 1897-1954)が作った彫像を見た。それはフランスの現在の試練をド・ゴール将軍に捧げるかたちで象徴化したものだった*4。カヴァイエスは気に入り、それをロンドンへ、ド・ゴールのもとへ、持って行くことを決めた。

*1:フランス語 « terroriste » を敢えて直訳する。

*2:カヴァイエスとゴッセ、二人の知識人のレジスタンス活動については社会学者の手になる以下の研究がある。Fabienne Federini, Écrire ou combattre. Des intellectuels prennent les armes (1942-1944), Paris, La Découverte, 2006.

*3:「共に外にいる」という意味だろうか。

*4:有名な「引き裂かれ(Déchirée)」と題された彫像。こちらを参照。