Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

技巧の開花:アガサ・クリスティー『杉の柩』

 今回はアガサ・クリスティーの『杉の柩』(1940)を取り上げる。霜月蒼氏いわく「人気作品」*1である本作には、確かに全盛期クリスティーの、豊かな技巧の開花が見出されるように思える。ここではこの作品の伏線、ミス・ディレクションといった「叙述」の側面と「手がかり」との関係に絞って検討する。その上で、全盛期クリスティー作品を特徴づけると思われる「本質」に関して、二つの仮説を提示したい。

 参照するのはハヤカワ文庫版(恩地三保子訳、1976年)である。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

 

1.伏線

 まずは見事なダブル・ミーニングに触れるところから始めよう。それは、ホプキンス看護婦がポアロに見せる手紙の表書きにある「メアリイへ」(248頁)である。読者は最初、この「メアリイ」が事件の被害者メアリイ・ゲラードを指すよう誤導されるのだが、解明で明らかになるのは、実名メアリイ・ライレイであるホプキンスを指していた、という事実である。〈指示対象が変化するタイプのダブル・ミーニング〉ということになるが、それを固有名一つで行っている点が鮮やかである。

 このダブル・ミーニングはおそらくは本作の最も印象的な叙述であろう。だがこの記事ではさらに、この時期のクリスティーを特徴付けると思われる、ある典型的な叙述・記述のありようを本作から取り出してみたい。

 『杉の柩』には、探偵ポアロが明確に指摘するような「手がかり」は少ない。例えば『アクロイド殺し』では、ポアロは「引き出された椅子」の重要性に何度も注意を促しており、これが事件の「手がかり」であることが示される。対してこの作品においては、多くの伏線 — つまり読者には「手がかり」と読みにくいような記述 — から、ポアロが最後に事件の絵解きをする形になっている。

 ただしそれら伏線には、「目につきにくいもの」からもう少し「目につきやすいもの」まで、一定のグラデーションがあるように思える。この節では、まず「目につきにくいもの」、すなわち文字通り「伏線」と言ってよい記述を取り上げよう。

 例えば、海外にいるはずのロディー(ロデリック・ウェルマン)が実は一時帰国していたことが、以下の記述群から引き出されるのだが、このことを「読む」のは相当難しいだろう。

「7月の9日に国を出て、8月1日に帰った」(ロディー;193頁)

「あの方〔ロディー〕がロンドンで訪ねていらした時も、同じことを〔メアリイは〕言った」(ホプキンス;168頁)

 これにロードがポアロに告げる「メアリイ・ゲラードは、7月10日にここを出て、ロンドンに向かいました」(231頁)という情報を加えれば、7月10日以降にロディーはロンドンでかの女と会っている筈であり、それゆえ彼は一時帰国している筈である、と推理できる訳だが、これらの記述を見つけ、組み合わせることは簡単ではない。これらはやはり「伏線」と呼ぶのが妥当だろう*2

2.手がかりとミス・ディレクション

 続いて、もう少し読者の目につくような仕方で配置されている叙述を検討しよう。エリノアに「何かを刺したのね」と聞かれて答える、ホプキンス看護婦の次の発言である。

A.「ロッジのところのバラの垣根ですわ — トゲを刺しましたの。 すぐ抜いてしまいます」(134頁)

 この発言の内容は、第二部でエリノアの口からもう一度出てくる(229頁)。ポアロがホプキンス看護婦に向けている疑惑(187頁)と合わせれば、この「バラのトゲを刺したという発言」は一定程度気が付きやすいものである。少なくとも、前節で取り上げた記述よりは目にとまるものだと言えるだろう。

 とはいえ、この記述を「手がかり」と単純に規定することはできそうにない。なぜか。それは、この記述が他の怪しい複数の記述、すなわちミス・ディレクションと作中で併存させられているからである。

 例えば、エリノア、ロディー、そしてピーター・ロードはいずれも疑わしい発言や行動をしている。

B.「ロディー、人は本心から願っている時には、苦痛を逃れて楽にしてもらうべきだって気がする」(エリノア;63頁)

C.〔メアリイが遺言書を作っているのを見て〕突然、エリノアは笑い出した — ヒステリックな、常ならぬ笑いだった。(100頁)

D.「あれから〔ローラ・ウエルマン夫人の〕病室に行ったんだ」(ロディー;75頁)*3

E.「〔メアリイが殺された際〕旦那〔ピーター・ロード〕の自動車はありましたが、他には誰の車も見えませんでしたぜ」(ホーリック;237頁)*4

 Bは、エリノアがウエルマン夫人を殺す動機があることを示唆し、Cは、あたかも彼女がやがてメアリイを殺そうとしているかのようにも読める*5。Dはロディーにウエルマン夫人殺害の機会があったことを示す。そしてEは、ピーター・ロードへの疑惑を強める。これらがホプキンス夫人の怪しい発言と併置されている結果、読者はAを「手がかり」とみなすことが困難なのである。

 なるほど、解明の部分から振り返れば、Aは「手がかり」であり、B-Eは「ミス・ディレクション」である。だが、こうして探偵小説の記号を単純に割り振ってしまうことは、クリスティー作品の魅力を捉え損なうことになる。とりわけてこの時期においては、〈記号間の関係〉にも目を向けねばならないのではないか。すなわち、多くの「ミス・ディレクション」の記号の森の中に「手がかり」となる記号を紛れ込ませることで、後者を判別困難にすることが狙われているように思えるのである。「手がかりと誤導の判別不可能性」を備えた記号群、これをクリスティー作品を特徴付ける指標としてここでは取り出しておきたい。

3.二つの仮説

 前節最後に赤字で提示した部分が、クリスティーの全盛期の作品に関する最初の仮説である。改めて書いておこう。

  • 【仮説1】クリスティーのある時期以降の作品においては、多くの「ミス・ディレクション」の記号の森の中に「手がかり」となる記号が紛れ込み、後者が判別不可能ないし困難となる叙述様式がしばしば採用されている。

 勿論、こうした叙述をクリスティーが初めて行った作家だ、とは言えないかもしれない。ただ後期作品群においても、この叙述様式を展開したように見える作品が存在することから*6、かなり自覚的にこの様式を採っていたように思えるのである。

 そしてこの叙述のあり方はまた、クリスティー作品のうちにしばしば「別の真相」を指摘することが可能であることの、理由の一端を示してくれるようにも思える。例えばピエール・バイヤールは『アクロイド殺し』と『そして誰もいなくなった』について別解を提示しているし、私も後者の作品に対して試みたことがある*7。こうしたことが可能なのは、〈手がかりとミス・ディレクションの判別困難性〉により、作中では「ミス・ディレクション」として採用されていた記号を逆に「手がかり」として読み、「手がかり」とされていたものを「誤導」とみなすという読みが、一定程度成立してしまうからではないか。

 さて先の仮説に改めて目を向けてみよう。私はそこで「記号の森」と書いた。これは勿論、先行するある作品を念頭に置いている。そう、「木の葉を隠すなら森の中」の言葉で知られるチェスタトンのあの短編である。先に述べたクリスティーの叙述上の特徴は、チェスタトンの作品の叙述面への転用なのではないか。これがもう一つの仮説である。

  • 【仮説2】「記号の森の中に別の記号を隠す」クリスティーの叙述様式は、チェスタトンの「森の中に木の葉を隠す」トリックを叙述面へと転用したものである。

 さらに言えば、このような転用を産んだ「きっかけ」となった作品がクリスティーの中に存在するように思える……。この点をさらなる仮説として提示することもできるが、ここではやめておこう。いずれにせよこれらの仮説を検証し、論文化すること — それを当面の目標の一つとしたい*8

*1:霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』、早川書房、2018年、78頁。

*2:恥を忍んで書くが、ポアロが謎解きの際に触れる、「その時だ、私は、あの村の誰かがなにげなく洩らした言葉を思い出したのは。その〔メアリイ・ゲラードの〕叔母というのが病院付看護婦だということを」(315頁)の元となる叙述を私は見つけられていない。この「伏線」がどこにあるか、お分かりの方はご教示いただければと思う。

*3:ロディーが病室に忍び込んだことは、エマ・ビショップの発言(179頁)で裏付けられる。

*4:この事実は追って改めて強調される。251-252頁を参照。

*5:月氏も、第二部に入ると「途端にエリノアが無実かどうか判らなくなる」と指摘している(霜月『アガサ・クリスティー完全攻略』、前掲書、80頁)。

*6:カリブ海の秘密』を論じたこちらの記事を参照。

*7:ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』、大浦康介訳、筑摩書房、2001年、及びPierre Bayard, La vérité sur "Ils étaient dix", Paris, Minuit, 2019. 私の『そして誰もいなくなった』論についてはこちらを参照。

*8:ここで提示した二つの仮説は比較的独自性が高いと判断しているので、言及する際はこのブログ記事を指示するなど、ご注意いただけると幸いである。