Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

〈二〉と〈一〉をめぐる探究:笠井潔『オイディプス症候群』・『吸血鬼と精神分析』

 今回取り上げるのは、笠井潔氏の矢吹駆シリーズ第五作『オイディプス症候群』(2002)、及び第六作『吸血鬼と精神分析』(2011)である。以前論じた『哲学者の密室』(1992)のロジックと事件構造を出発点に据え、これら二作品がどのようにそれを展開、ないし変奏しているかを検討したい。それゆえこれら三作品を通じて、笠井潔という探偵小説作家に特有の、「思考の動き」が追跡されると言うこともできるだろう。そしてその動きは — 堅苦しい表現であるが — 〈二なるもの〉と〈一なるもの〉の関係をめぐるものとなる*1

*参照するのは両作とも光文社文庫版である。

 

【以下、両作及び『哲学者の密室』の真相に触れる。】

 

1.線を越えること:『オイディプス症候群』の視点から

「孤島もの」である『オイディプス症候群』には、密室と孤島の共通点を「内・外の線を引くこと、そしてその線を越えること」に見出し、その上で両主題の本質を論じるところがある。この箇所を手引きに、まずは「密室もの」である『哲学者の密室』を再検討しよう。

1-1. 線を外へ一度越えること

 以前も見たように、『哲学者の密室』現代編の中心的なロジックは、「誰が、どのように三重密室の中心点まで到達しえたかではなく、三重密室の外に脱出できたか」(創元推理文庫版、1017頁)という視点の逆転にある。密室である限り、その内と外がある訳だが、その間にある線を、犯人は密室の中へ越えたのではなく、外へ、つまりダッソー邸という一番外側の密室の外へ越えたのではないか、と着想を転換することで、この密室ははじめて破られるのである。

 さて、『オイディプス症候群』では先述した密室と孤島の共通点=「越えるために引かれた線」を前提にした上で、密室と孤島が次のように差異化される。

両者の最大の相違は一回性と反復性にある。密室事件の犯人は自在に壁を越えるにしても、一回だけ内から外に出るにすぎない。しかし孤島事件の犯人は壁を、引かれた線を往還する。(下巻470頁)

 この駆の発言は、通常の密室ものに対して言われているために(「外に出る」とはこここでは、「密室の中に屍体を残して外に出る」ということである)、『哲学者の密室』のケースとはやや異なる。だがこの作品においても、犯人フランツ・グレ(ハイリンヒ・ヴェルナー)にとって重要だったのはダッソー邸の外に出ることであった。彼は、ダッソー邸の隣にある廃屋で狙撃に失敗してから、再び邸内に戻ってくる訳だが、この戻ってくる行為は彼にとって副次的なものに過ぎない。

 したがってポイントはここでも「殺すために外へ出ること」にある。この限りで、『オイディプス症候群』の駆の指摘はグレの場合にも当てはまる。事件の構造を図示しておこう(オレンジの線が内と外を分ける密室の線、○が犯人、矢印が犯人の動きである)。

1-2. 線を往還すること

 そして駆の言う「線を往還する」こと、これこそ『オイディプス症候群』のメイン・トリックを形作るものである。終章で駆は指摘する、アリグザンダーはイリイチミノタウロス島の外で殺すために、その殺害の不在証明を捏造するべく島を孤立化させたのだと*2。アリグザンダーは島を閉ざした上で、一度は島の外に出て海へと、二度目は海から島の内へと、島と海を隔てる線を二度越えなければならなかった(しかし逆にイリイチに返り討ちにあい、二度目は屍体として海から島の内へと戻ってくることになった)。

 このケースも図示しておこう(オレンジの線は今度は島と海を分ける線、○が犯人、矢印が犯人の動きである)。

 

 以上二つの作品の違いをまとめると次のようになる。

  • 『哲学者の密室』:内-外の2つの空間を隔てる線を、1つの項が外へ越える。
  • オイディプス』:内-外の2つの空間を隔てる線を、1つの項が往還する。

 両作において「2」のありようは基本的に同じであり(「内-外」の二項対立)、「1」の運動のみが異なる。そしてこの「1」と「2」のありようは、『吸血鬼と精神分析』においてドラスティックに変化することになる。

2.線を抹消すること:『吸血鬼と精神分析

 この第六作は「ダイイング・メッセージ」のモチーフを含んでいるが、ここで取り上げるのは駆シリーズでしばしば登場する設定、「双子」である。本作ではタチアナとカテリナという双子の姉妹の設定がトリックとして用いられている。終盤で駆が検討する二つの出来事を見ておこう。

  1. ナディアが〈ヴァンパイヤー・ハウス〉でタチアナそっくりの人物ストリゴイと出会ったこと。
  2. タチアナ殺害事件

 1の事件では当初、ストリゴイとは睡眠時遊行症に陥っていた時のタチアナの別人格であったのではないか、と目される(ストリゴイ=タチアナ)。しかし最後に明らかになるのは、タチアナには実は双子の妹がおり、その妹カテリナをタチアナが自分に偽装しようと試みていた、という事実であった。すなわち「ストリゴイ=カテリナ」が真相であり、〈カテリナをタチアナと見せかける〉ことが事件の核心にあった。

 2の事件でも基本的には同様である。殺されたのはタチアナと最初思われていたが、実は彼女がカテリナを(シモンを使って)殺し、屍体を自分に見せかけていた、ということが判明する。要するにここでも、〈カテリナをタチアナと見せかける〉ことが狙われている。だがこの偽装には続きがある。あくまでも自分が殺されたのだと見せかけねばならないタチアナは最後、駆とナディアの前に「カテリナ」と名乗って登場するのである。ここで偽装の方向は逆転する。すなわち〈タチアナをカテリナに見せかける〉

 この事件はしたがって循環した構造をなしている。やはり図示しておこう(○はタチアナとカテリナ、水色の矢印は「見せかける」ことを表す)。

 ここでは『哲学者の密室』や『オイディプス症候群』と異なり、項は「2つ」となっている。興味深いのは「見せかける」という行為だろう。これは先立つ二作と異なり、2つの項を1つの項に偽装するという点で2つの項の隔たりをなくすこと、すなわち「境界線を消去する」ことを意味するからだ。そしてこの線の消去へと帰結する「循環」は、『オイディプス症候群』の「往還」を変奏したものとも見える。そこで、この事件構造は次のようにまとめられる。

  • 『吸血鬼と精神分析』:循環により2つの項を隔てる線が消去され、1つの項という見せかけが発生する*3

 ラカンをモデルにしたシャブロル、クリステヴァをモデルにしたヴェルヌイユが登場し、思想的背景にラカン精神分析を置く本作では、「シニフィアンシニフィエ」が推理の道具に用いられている。そして駆は繰り返し、「脱血屍体と、そこに添えられるムーミントロール、鷲、白馬といった動物の徴(シーニュ)の連鎖」において、「どちらがシニフィアンシニフィエか決まらない」といったことを口にする(例えば上巻374頁、下巻435頁)。最終的にこの記号の指示作用は、もちろん確定する。だが長い間の記号の宙吊り状態、すなわち「屍体が動物の徴を意味するのか」、それとも「動物の徴が屍体を意味するのか」という指示作用の循環は、先のタチアナとカテリナの「見せかけの循環」をいわば原基的な構造としているのではないか。その意味で、本作の中心はやはり、古典的とも言うべき双子の入れ替わりトリックにあると言うべきだろう。

終わりに

 最後に、これら三作の間の〈二〉と〈一〉をめぐる動的な関係を整理しておこう。『哲学者の密室』における、〈内-外の2つの空間を隔てる線を1つの項が一度越える〉ことが、オイディプス症候群』においては、〈2つの空間を隔てる線を往還すること〉と多重化され、『吸血鬼と精神分析』においては、今度は〈循環による2項間の線の抹消と、1つという項の見せかけ〉が発生するのである。ここには〈二〉と〈一〉をめぐる思考の展開ないし変奏が見出される。

 それにしても、密室と孤島というモチーフに共通点があるのは想像に難くないにせよ、それらとまったく異なるように思える「双子の入れ替わりトリック」をも、〈二〉と〈一〉をめぐる思考の系列に置くことができる、というのはやはり示唆的である。探偵小説は「見かけ」と「真相」という2つの層の間の隔たりによって駆動する文学であるという点で、古くからある〈一〉をめぐる思考や問題に、特殊な形で挑み続けている文学ジャンルなのかもしれない。

 さて、この記事は『吸血鬼と精神分析』までで検討を終えている。では、2022年の新作『煉獄の時』ではどうなのだろうか。そこでも〈二〉と〈一〉をめぐる探究は継続されているのだろうか。この点についてはいずれ、稿を改めて検討することにしよう。

 

[1/2]字句一部修正。

*1:実のところ評者はこれら三作品だけでなく、駆シリーズ全体をも〈二〉と〈一〉をめぐる知的冒険譚として捉えることができるのではないか、と考えている。

*2:この着想が、新本格の有名作品のトリックと対称的な構造をもっていることは見やすい。本稿ではこの点を掘り下げることはしない。

*3:シャブロルのモデルであるジャック・ラカンが「パラノイア性犯罪の動機」(1933)で取り上げたパパン姉妹の事件と症例も参考になるかもしれない。家族を殺してしまったこの姉妹(双子ではない)は、事件後も説明をせず、お互いに秘密を共有することにのみ関心を向けているようだった。二人はお互いを鏡像的な分身として扱うことで、自己のうちに一つの統合性を見出そうとしていたのである。