Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

あるトリックの遍歴:アガサ・クリスティー『白昼の悪魔』を中心に

 これまでアガサ・クリスティーの諸作品を、「叙述」面に主にフォーカスして分析してきた。叙述や記述がこの作家の大きな特徴である以上、こうしたアプローチは間違ってはいまい。だが、そろそろクリスティー作品における「トリック」について検討してみたい。この記事では秀作『白昼の悪魔』(1940)の注目すべき叙述上の特徴を第1節で見た後で、第2節でこの作品のトリックを他の二作品と合わせて論じることにする。

 『白昼の悪魔』についてはハヤカワ・ミステリ文庫版(鳴海四郎訳、1986年)を用いる。

 

【以下、『白昼の悪魔』の真相に触れる。】

 

1.『白昼の悪魔』における叙述について

誤った推理

 ポアロは最終盤、真犯人を安心させ油断させるために、リンダを犯人とするような「誤った推理」を敢えて披露する。本作では、エラリー・クイーンの有名作のように、この誤った推理がミス・ディレクションとして機能している訳ではない。ここでは、推理それ自体よりも、推理に用いられたある「記述」に注目しよう。

 それは「〔リンダの手は〕赤みがかった大きな手だ」(129頁)という記述である。これを敢えて手がかりと誤読することで、ポアロは「リンダがアリーナを絞め殺すのに十分な手の大きさを持っている」という偽の推理をおこなうのである。

 この記述は、それと気が付かないように書かれている。それゆえ、ポアロの推理が正しいものであれば「伏線」ということになるだろう。だがあくまでも「誤った推理」の中で機能している以上、「伏線」と呼ぶことはできない。こうした記号をしたがって「擬ー伏線」と名付けてみたい。探偵小説において、こうした記号はなにも珍しいものではない。例えばワトスン役が誤った推理を披露するとき、その推理の中でワトスン役が手がかりとして読んでしまう「伏線的な記述」がそれに当たる*1。とはいえしばしば見られる記号であるとはいえ、探偵小説の重要な記号であるとまでは言えないように思われる。

手紙

 クリスティー作品において、「手紙」とは伏線やミス・ディレクション、ダブル・ミーニングなどが仕掛けられる場であり、解明においてしばしば重要な役割を演じる。クリスティー作品の読者は「手紙」に最大限の注意を払わねばならないのだ。本作においても、アリーナが受け取っていた手紙(178-9頁)の処理は素晴らしい。「小切手、どうもありがとう」という伏線、そして「ダイヤをつけ〔…〕、巨大なエメラルドにしようか」というミス・ディレクションが大胆に仕掛けられ、手紙は全体としてはタブル・ミーニング的に機能している(初読ではアリーナが加害者のように見えるが、解明部において彼女はたかられている被害者であることが明らかになる、つまりアリーナという対象に変化はないが、その対象の指し示し方が変わる、というタイプのダブル・ミーニングである)。

手がかりとミス・ディレクションの対照的配置

*このセクションでは『杉の柩』の趣向にも触れる。

 

 これはポアロものの前々作『杉の柩』(1940)の達成を踏まえると重要である。以前の記事でも述べたように、この作品においては「手がかりと多様なミス・ディレクションが並置され、相互に判別不可能になるような叙述」が仕掛けられている。その仕掛けが、『白昼の悪魔』では、〈一つの手がかりと一つのミス・ディレクションの好対照的な配置〉として、いわば縮減して用いられているところがあるのだ。それが、「マーシャルがパイプをどこかへやったこと」(108頁)と「ブラッドがパイプを持っていないこと」(214頁)の、見えやすい対照的な配置である。どちらも怪しいが、どちらが手がかりでどちらがミス・ディレクションか(あるいはどちらも手がかりなのか、どちらもミス・ディレクションなのか)読者は判別し難い。最終的には前者が手がかり、後者がミス・ディレクションに落ち着くが、重要なのはこうした記号の割り振りではなく、好対照な配置によって記号の読解を困難にするようなクリスティーの語り=騙りである。本作での使い方はあくまで副次的なものだが、この〈一対一の対照性〉は後期作品群において、より大きな役割を演じるようになる*2

2.トリックの変奏

 この節では『白昼の悪魔』のトリックを真ん中に据えて、先行作と後続作をその前後に配置することで、クリスティーの着想の進展を簡単に見てみたい。その二作品とは『ナイルに死す』(1937)及び『書斎の死体』(1942)である*3

 

【以下、『ナイルに死す』と『書斎の死体』の真相にも触れる。】

 

(1)『ナイルに死す』から始めよう。この作品では、婚約を解消したと見せかけたサイモンとジャクリーンのカップルが、サイモンの妻リネットを共謀して殺害する。「ジャクリーンがサイモンを空砲で撃つ」というアリバイ工作を中心に組み立てられた、事件の構図を示しておこう。 

(2)続いて本作『白昼の悪魔』では、夫婦を装ったレッドファンとクリスチンのコンビが、アリーナを殺害する。レッドファンはアリーナの愛人のように振る舞っていたが、それは彼女にお金をたかるためであった。ここでは、クリスチンがアリーナを一時的に装うという(イコン的な)類似性を用いた「入れ替わり」がアリバイ工作として用いられていた。類似性を青の波線で示しておく。

(3)そして『書斎の死体』においては、無関係に思えていたジョージーとマイクが実は結婚しており、この二人が共謀して殺人を犯す。遺産相続の障害となった(ジョージーの友人)ルビーを二人は殺そうとするのだが、その際、もう一人の同年代の女性=パメラも合わせて殺し、二人の死体を入れ替えることで、アリバイを確保しようとするのである。

 このように見てくると、三作品は「恋人、共犯、結婚といった何らかの関係にある〈男女の対〉」が犯人という点で共通していることが分かる。そして犯人と被害者の関係に関して、次のような進展があることも分かるだろう。

  • 被害者1人(『ナイルに死す』)
    →被害者1人と犯人1人の入れ替わり(『白昼の悪魔』)
    →被害者2人の入れ替わり(『書斎の死体』)

 ここには後の作品の方が優れている、といった含意はない。それでもこの進展に、クリスティーの探求の歩みを垣間見ることができる筈である。また拳銃の空砲を活用していた『ナイルに死す』のアリバイ工作が、後続作品においては(人間同士の類似性を用いた入れ替わりという仕方で)人間関係の内部で完結するようになった点も特筆に値しよう*4

終わりに:『白昼の悪魔』というタイトルについて

 『白昼の悪魔』の原題 "Evil Under the Sun"は、旧約聖書中の「コヘレトの言葉」の一節から採られている。しかしこのタイトルに別の含意を読み取ることも可能なように思われる。

 第1節最後に見た、「手がかりとミス・ディレクションの併置」を思い返そう。そこでは、重要な記述は読者の目に隠されてなどいなかった。「太陽の下に(Under the Sun)」照らし出されているかのように、記述は我々の目に容易に止まる。にもかかわらず、そのように照らし出された叙述のうちに、事件への重要な手がかりが、すなわち他のミス・ディレクションとは異なる事件という「災い(Evil)」への印が潜んでいた。それゆえ「白昼の悪魔」とはまた、クリスティーという作家に固有の叙述技法の隠喩でもあるのである*5

*1:例えば、近年の作品から笠井潔『煉獄の時』(2023)を挙げよう。ワトスン役であるナディア・モガールの誤った推理の中で用いられる(以下反転)「〔竿は〕いまでも副寝室の収納庫で埃を被っている」(54頁)という記述がそれに当たる。

*2:こうした対照性が初めて登場した作品についても、今後突き止めていければと考えている。なお本作には、ポアロが手がかりをすべて拾い上げて列挙する「手がかりリスト」とでも言うべき記述(258-9頁)があり、この点も興味深い。

*3:『ナイルに死す』と『白昼の悪魔』の事件構造の相同性については、霜月蒼氏も『アガサ・クリスティー完全攻略』の中で指摘している。

*4:あくまでも個人的にはであるが、こうした共犯を伴った「複数犯もの」をそれほど好むものではない。共犯がいると多くのことが可能となってしまい、解明部における探偵小説としての衝撃が薄れるケースが多いように思われる。

*5:若島正氏の『そして誰もいなくなった』についての論考が、「明るい館の秘密」と題されていたことも思い起こされよう。