Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

技巧の胚珠:アガサ・クリスティー『秘密機関』

 今回取り上げるのは、『スタイルズ荘の怪事件』に続くアガサ・クリスティーの二作目、『秘密機関』(1922)である。まだ冗長なところもあるものの、この作家の優れた特質が早くも随所に表れており、トミーとタペンスの活躍も楽しめる好編である。

 この記事ではクリスティー文庫の嵯峨静江訳(2011年)に拠りつつ、主に叙述上の特徴を分析する。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

 

1.ミス・ディレクションの重層的効果

 本作を(冒険小説としてではなく)探偵小説として見た場合、主要な謎は「誰がヴァンデマイヤー夫人を殺したか?」にある。この謎に関するミス・ディレクションや手がかりを考察しよう。

 まず最も重要な記述は、夫人が殺される前、彼女が悲鳴を上げる箇所である。

悲鳴をあげて夫人は飛びあがった。タペンスの頭越しに指を差し、そのまま気絶して床に倒れた。(197頁)

 この箇所から、読者は「タペンスの頭越し」に現れた人物、すなわちジェームズ卿かジュリアス、どちらか(あるいは双方)が怪しいと思うことになる。そしてこの箇所と彼女の死体が見つかる箇所(212-3頁)の間に挟まれた以下のような記述が、この疑惑を助長していくことになる。

A.「わたしたちの姿を突然見て、ショックを起こした」(ジェームズ卿、198頁)

B.〔タペンスに対して〕「行かないで」(夫人、203頁)

C.「このフラットのどこかにブラウンがいるのよ」(タペンス、210頁)

 これらは弱い伏線——ジェームズ卿が犯人であることを示す——とも、弱いミス・ディレクション——ジュリアスを犯人と誤認させる——ともとれる、両義的な記述である。これらを通して、最初の叙述で抱いた疑いは徐々に強まっていく。

 ここまではジェームズ卿とジュリアスに対する疑惑は、どちらとも決めかねる状態にある。疑惑がジュリアスへと振れるようになるのは、以下の箇所を通してである。

  1. ジュリアスが金庫の中を見て「何も入っていない」と言うこと(215頁)。
  2. ジェームズ卿が「あなたの知っていることをすべてしゃべってはいけない—たとえ親しい相手であっても」(232頁)と述べた直後に、タペンスが1のジュリアスの行動を思い出し、怪しむこと。

 ジュリアスへの疑惑が読者にとって決定的になるのは、ジュリアスの引き出しからアネットの写真が出てきたこと(347頁)、そして取り分けて、トミーの手紙に対してジュリアスが「バカなやつだ」(358頁)という発言によってである。だが、これらはミス・ディレクションであり、ヴァンデマイヤー夫人を殺した真犯人はジェームズ卿であることが最後、トミーの推理によって判明する。

 注目すべきは、A-Cおよび1と2の叙述によって、最初に挙げた197頁の叙述が、ジュリアスを犯人として読めるよう、ミス・ディレクションとして遡行的に機能することになる点である。この〈記号の重層的な効果によってある記述をミス・ディレクションとして遡行的に機能させる〉という探偵小説上の技法を、既に最初期にクリスティーが備えていたことは、やはり驚くべき点と言ってよい。

2.ミス・ディレクションと手がかりの重ね合わせ

 驚くべき点はこれだけではない。最初に挙げた記述からは、「ジェームズ卿が犯人である可能性」も読むことができる。つまり、この記述の内容はまた「手がかり」でもあるのだ*1。つまり、ある記述はミス・ディレクションであり、かつその読解内容は手がかりでもある。このように一つの記述に二つの探偵小説的な記号の役割を背負わせている点も注目すべきであろう。

3.全盛期および後期作品群との関連

 最後に、こうした技法と1930年代後半以降のクリスティーの作品との関係を指摘しておこう。先立つ二つの節で示した特質は、いかなる意味で「胚珠」なのだろうか。

 まず挙げるべきは「記号の関係性」である。『杉の柩』を論じた記事で筆者は、全盛期クリスティーの核心をなすと思われる二つの仮説を提示した。それは大雑把に言えば、「ミス・ディレクション」という記号と、ある記述に読みうる「手がかり」とが、それぞれ単独の役割を果たすのではなく、相互に関係し合う点に彼女の探偵小説作家としての優れた個性がある、という仮説だった*2。『秘密機関』では、そこまでの大胆さは見られない。それでも、ある記述が、その後の複数の記述によって遡行的にミス・ディレクションとして機能する——つまり、記号間の関係を打ち立てることで読者を欺こうとする技法を、彼女は既に有していたのである。

 次に「二人の人物の対照性」である。とりわけて後期の作品群でクリスティーは、怪しいと思われる二人の人物や、二つの物や地名を登場させ、「どちらかが誤導でどちらかが犯人ないし手がかりであろう」と思わせる叙述を展開している。本作では、ジュリアスへの誤導が優先されるために、ジェームズ卿とジュリアスに鮮やかな対照性があるとは言い難い。それでも二人の人物を配置させる点に、後続作品への胚珠を読み取ることができよう*3

 

 『秘密機関』はこのように傑作とは言い難いにせよ、彼女が探偵小説作家として驚くべき叙述上の才能を最初期から有していたことを示しており、クリスティーを研究する上で見逃すことのできない作品なのである*4

*1:少々込み入った話になるが、「手がかり」について少し考えていることを記しておきたい。ほとんどの探偵小説において、「手がかり」とは作中の探偵役が「読む」ものである。クリスティーであれば『アクロイド殺し』でポアロによって言及される「引き出されていた椅子」や、クイーンであれば『中途の家』における「コルクのついたペーパーナイフ」などが挙げられるだろう。対して本作では、197ページの最初の記述を手がかりとしてトミーが直接「読む」くだりはない。つまり、この点を読む作業は読者に委ねられている。
 探偵小説は「読む」行為をおこなう探偵を作中に導入することに特徴があり、多くの場合、読者の読みは探偵の読みに導かれるようになっている。だが「読む」役割が読者だけに委ねられるケースも本作のように存在する。これは「叙述トリック」の発生を考える上で重要な点と思われる。

*2:ここでは敢えて分かりにくい書き方をした。詳細は『杉の柩』に関する記事を読まれたい。

*3:円熟期を迎えたクリスティーであれば、ジェームズ卿をさらに別の人物の間に、あるいは別の記述の間に隠そうとしたかもしれない。この点はいずれ『ポアロのクリスマス』を論じる際に示す予定である。

*4:現在、原書を取り寄せ中であり、原書を参照の上変更する箇所が出てくるかもしれないことをお断りしておく。

[2/10追記]原書(HarperCollins, 2015)が届き、ジェームズ卿がタペンスを装って書いた手紙のサインが「Twopence」となっていることを確認した(p.265)。対してタペンスがジュリアスに書いて宛てて書いた手紙のサインは「Tuppence」となっている(p.211)。邦訳では訳し切れていなかったところだ。この伏線が判別し難いものかどうかはともかく、最初期からして、クリスティー作品において手紙は様々な叙述が仕掛けられる場であったようだ。