Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

逆転の構図:アガサ・クリスティー『オリエント急行の殺人』

 今回は名作『オリエント急行の殺人』(1934)に登場していただく。この作品といえば、クリスティーの他の有名作と同様、その「意外な犯人」が決まって言及される。しかしここではそのテーマを実のところ支え、導出さえしているように見える、ある〈逆転の構図〉について論じようと思う。本作の核心は、犯人の設定というよりも、むしろこの逆転にこそある——これが本記事の主張である。

 参照するのは山本やよい訳(ハヤカワ文庫、2011年)である。必要に応じてHarperCollinsの原書(ペーパーバック版、2015年)を用いる。

※手元にある幾つかの邦語文献を見てみたが、本記事と同種の指摘は見当たらなかった。似た考察をしているものがあれば、コメント欄にてご教示いただけると幸いである。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

 

1.収縮と発散

 まず、この作品を大きく二つの部分に分けてみよう。第一部と第二部を通して進行する「収縮」の相と、第三部における「発散」の相である。それぞれの相の特徴は以下の通りである。

1-1.収縮の相

 オリエント急行に乗って間もなく、ポアロと出会ったブーク氏はこの列車に「あらゆる階級、あらゆる国籍、あらゆる年齢の人が集まっている」と述べる(45頁)。この異例の満員状態はポアロの推理のヒントとなり、解明部でも言及される(390頁)。この「多様さ・多彩さ」は事件が起こってからもしばらく継続する。その象徴は勿論、ラチェットの死体に残された刺し傷だ。全部で十二ある刺し傷の中には、「強烈な力」が加わったものもあれば、「かすり傷」程度のものもあり、さらには死後に付けられたと思われるものもある。左手で刺した傷と右手で刺した傷さえ混在しているありさまだ(78, 100-102頁)。第一部はこうした「多様さ」に支配されており、容疑者は不定のまま留まる。

 対して第二部は、この「多様さ」が縮減していく過程として捉えられる。それは具体的には、不定だった容疑者が二人に収縮していく過程である。

 うち一人は、まずハードマンによって「小柄な男で、肌が浅黒く、女のような声をしている(A small man, dark, with a womanish kind of voice)218頁)と形容される人物である。この形容に当てはまる車掌の姿をした人物を、シュミットが列車内で目撃したという証言によって、この人物の存在は裏書きされる(250頁)*1

 もう一人はポアロも目撃した「真っ赤な着物風のガウンを着」た人物である(67頁)。ガウンには竜の模様が入っており、このおそらくは女性と思われる人物を、ミシェル、デブナム、マックイーン、アーバスノットの四人も目にするか、その香りを嗅いだかしている。

 かくしてポアロは次のように述べるに至る。

ゆうべ、この列車には、正体不明の人物が二人いました。一人は〈ワゴン・リ〉の車掌。〔…〕それから、真っ赤なガウンを着た女。背が高くて、ほっそりした女です(a woman in a red kimono-a tall, slim woman)。〔…〕その女もまた、煙のように消えてしまいました。偽の車掌と同じ人物だったのでしょうか。それとも、まったくの別人でしょうか。(261頁)          

 この部は、この偽車掌の制服がシュミットのスーツケースの中で発見された後に、竜の刺繍の入った赤いガウンがポアロのカバンに入っている場面で幕となる。第二部はこのように、容疑者二人の存在を印象付けることを主眼としているのである。

1-2.発散の相

 第三部は特徴づけるのは、一転して「発散」である。それは、乗客たち一人一人が、誘拐事件の起きたアームストロング家の関係者に対応付けられる仕方で展開する(その際、先の二人の容疑者の存在は一回括弧に入れられる)。アンドレニ伯爵夫人が、誘拐された女児の叔母ヘレナであることが判明するのを皮切りに、ドラゴミロフ侯爵夫人がその女児の母の友人であり、ミス・デブナムが家庭教師であり……と順次判明していくのである。

 この発散のプロセスの極点に現れるのが、アームストロング家の関係者である乗客12人(ただし伯爵夫人を除き、車掌を含む)が犯人、という驚くべき真相に他ならない。関係者全員が、誘拐事件の犯人であるにもかかわらず無罪となったラチェット=カセッティに、正義の鉄槌を下していた。十二の刺し傷がかくも多様であったのは、十二人それぞれが一振りずつ、ラチェットの体にナイフを突き立てたからであった。第一部の多様さ・多彩さが、第三部の真相の解明部で再び取り戻される形で作品は幕を閉じる。

 そして第二部で示された「二人の容疑者」は、犯人たちによる共作に過ぎないものであった。偽の車掌などそもそも存在せず、シュミット、ハードマンらによる偽装の産物だった。また赤いガウンを着た女性については、ポアロにその姿を見せるために誰かがその役を演じたのは確かであるが、それが誰であったかは作中では明示されないままである。

2.逆転

 さて改めて「収縮」の相を見てみよう。すると、そこに現れた二人の容疑者は、好対照的な特徴を有していることに気がつかれる筈である。すなわち、「小柄で浅黒い男性」「背の高い真っ赤な着物風のガウンを着た女性」の対照性である。

 こうした好対照性は本作の他の箇所でも見てとられる。現場に残されていた「パイプクリーナー」と「Hのイニシャルの入ったハンカチ」もそうだが*2、より典型的な箇所としてアンドレニ伯爵夫人の証言が挙げられる。彼女はアームストロング家の家庭教師を、中年で「大柄で赤毛の女の人」だったと述べた(350頁)。だがポアロはこの特徴がミス・デブナムと「正反対」であることに気が付き(371頁)、だからこそこれが伯爵夫人がとっさにおこなった偽証であって、家庭教師は他ならぬミス・デブナムだと推察するのである*3

 こうした好対照性を伴った二人の人物はそれゆえ、個別の存在ではありえず(同一の人物とまで言い切れないにせよ)何らか「セット」として考えられざるを得ない。そこで、先の「小柄で浅黒い男性」と「背の高い赤いガウンを纏った女性」を〈一対〉とみなそう。第二部の最後で示唆されるのは、こうした一対の人間がラチェット殺しに何らか関わっているであろう、ということであった。

 だが解明部で明らかになるのは、事件はこの〈一対〉の人間に何ら関係がなく、むしろ十二人という多人数によって引き起こされた、という事実であった。ここには、ある有名な探偵小説作品を逆転したかのような構図がはらまれている。

 その作品とは——チェスタトンの「折れた剣」(1911)である。この名作短編の真相に触れることはいま避けるが、作品冒頭にあの有名な「木の葉を隠すなら森の中」をめぐるやり取りが登場することは述べてもいいだろう。すなわちこの短編では、「多の中に一を隠す」ことが問題となっている*4

 対して本作が行ったのは、〈一対〉の容疑者を誤導として用いることで、多人数を隠すことであった。すなわち、オリエント急行の殺人』は「折れた剣」の構図を逆転させ、〈一によって多を隠す〉のである。本作を論ずる際、「乗客全員が犯人」という大胆な発想がまずもって取り上げられる。だが、この発想を探偵小説的な驚きへと変換し、支えているのは、この〈一によって多を隠す〉という逆転の構図そのものである。探偵小説の形成過程を考慮するならば、「乗客全員が犯人」という発想はむしろ、この逆転の副産物に過ぎないとさえ思われるのである。

3.その達成度

 ではこの逆転の構図は、本作においてどれほどの達成度を示しているだろうか。〈一対〉の誤導が機能し、「乗客全員が犯人」の意外性を演出している点で、一定の成功をおさめているのは言うまでもない。

 ただし、この対をなす二人の人物が、小柄な男性のほうは偽証ゆえにそもそも存在せず、背の高い女性のほうは実際に誰であったかは指摘されない、という点には不満が残る。「折れた剣」を思い返せば、そこには「一つのもの」も「多くのもの」も存在していた。『オリエント急行の殺人』においても、二人の人物共やはり実在させ、動かすべきだったのではないだろうか。とりわけ、「小柄な男性の不在」には「肩透かし」を食らったような感覚が残るが、その肩透かしの感覚は単に「複数の人物による偽証」であったからというよりも、〈一〉が霧散してしまったことによるように思われる。背の高い女性の存在によりポアロをいかに犯人たちが惑わせ、小柄な男性にどのように罪をかぶせようとしたか——ここまでいけば〈一によって多を隠す〉トリックはより大きな達成を示したことだろう*5。総じて逆転の構図は、成功してはいるものの、逆転による効果を十全には得ていないと判断できる。

 しかしこれは勿論「無い物ねだり」である。ポアロはこの事件を「ごく平凡な事件」と述べていた(373頁)。知略に満ちた事件ではなく、皆が結託して偽証をおこなってしまうような、平凡な考えから引き起こされた事件。クリスティーの作品には、こうした「平凡な事件」がしばしば登場する。平凡きわまりない事件が、様々な叙述の仕掛けの網の目によって優れた探偵小説に変貌する——ここにクイーンともカーとも異なるこの作家の優れた特質がある以上、「小柄な男性にいかに罪を被せるか」といった知略の不在は決して咎められるべき類のことではないのである。

終わりに

 評者は過去の幾つかの記事で、クリスティー作品を叙述面に主にフォーカスして分析してきた。しかし本作においては、叙述上の仕掛けを検討していない。バーナードが指摘するように、確かに「伏線ヒントは申し分なし」であるが*6、伏線、ミス・ディレクション、ダブル・ミーニング、そして手がかりといったものが絡み合い、複雑な関係性(ミス・ディレクションと手がかりを並置する、伏線とも手がかりともつかない書き方をする、さらにそうした描写をミス・ディレクションとして機能させる……)を築いているとまでは言えないからだ。彼女がこうした技法に習熟するのはもう少し後のことだ。その意味で、逆転の構図に支えられた大胆な発想を含むこの名作はまた、「過渡期の秀作」でもあるのである。

*1:ポアロも指摘するように、さらにアーバスノット大佐もマックイーンも、車掌が部屋の前を通ったと証言している。

*2:ポアロが最後に提示する「二つの解決法」——消え失せた偽の車掌1人が犯人と、乗客12人が犯人——もこの対照性のうちに数えられるかもしれない。なおこの二つの解決法を「会話」の観点から検討したものとして以下が参考になる。三木那由他『会話を哲学する:コミュニケーションとマニピュレーション』、光文社、2022年、第三章。

*3:二つのものを好対照に配置するのは、クリスティーの得意とする手法である。とりわけて後期においては、一方をミス・ディレクションとし他方を手がかりとする、といった大胆な騙りがなされる。『カリブ海の秘密』を論じた記事を参照。

*4:「折れた剣」についてはこちらの記事を参照。

*5:見方を変えれば、この不徹底はクリスティーがこの逆転の構図をおそらくは意識的に用いたのではない、ということを示している。

*6:ロバート・バーナード『欺しの天才:アガサ・クリスティ創作の秘密』、小池滋・中野康司訳、秀文インターナショナル、1982年[原著1980]、252頁。