Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

【補足記事】〈関係記号〉の前景化:アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』/『雲をつかむ死』

 今回は以前書いた『そして誰もいなくなった』論を補足する短めの記事である。可能であれば、そちらをお読みいただいてから本記事に移っていただければと思うが、読んでいなくても内容の理解には困らない筈である。

 むしろ『杉の柩』を検討した際に提示した二つの仮説を用いるので、そちらの記事を読んでいただいた方が良いかもしれない。また後半では『雲をつかむ死(大空の死)』の核心にも——阿津川辰海氏の解説を参照しつつ——触れる。

 

【以下、『そして誰もいなくなった』の真相に触れる。】

 

1.二つの仮説と〈関係記号〉

 『杉の柩』(1940)前後から始まるクリスティーの「全盛期」においては以下のような技法が使われているのではないか、という仮説を以前提示した(定式は以前のものからやや変更してある)。

  • 【仮説1】:複数の「ミス・ディレクション」の記号の森の中に「手がかり」など他の記号が紛れ込み、相互が判別困難ないし不可能となる。

 そしてこの叙述様式はあるトリックの適用ではないか、というのが二番目の仮説であった。

  • 【仮説2】「ある記号を別種の記号の森の中に隠す」技法は、「木の葉を隠すなら森の中」というチェスタトンの有名作品のトリックの叙述面への適用である。

 さて本記事で再び扱う『そして誰もいなくなった』(1939)もまさにこの時期の作品である。ここでは【仮説1】がこの作品ででどのように用いられているかを見ておこう。この仮説はもう少し丁寧に言えば、確かに、ある記号は最終的にはミス・ディレクションと定まるにせよ、解明部以前は、「手がかり」の記号と区別がつかない(そして逆もまた真)ということである。要するに、ある記述を単に「ミス・ディレクション」や「手がかり」と固定するだけでは不十分であり、「記号間の織りなす関係」がある時期以降のクリスティーにおいて重要になるということだ。

*「伏線」とも「手がかり」とも取れるような微妙な記号が「ミス・ディレクション」として用いられる、という技法が用いられる作品もある。これは厳密には【仮説1】には当てはまらないが、「記号間の関係」が重要である、という点では共通している。

 とするならば、この「関係」それ自体を一つの新たな記号とみなすことができるように思われる。この記号をいま、〈関係記号〉と簡単に呼ぶことにしよう。そしてこの〈関係記号〉の最も分かりやすい例を、『そして誰もいなくなった』に見出すことができる。それこそ、若島正氏が論文「明るい館の秘密」で分析している、登場人物の心理描写が並置されるている二つの部分(256-7頁, 278-9頁)に他ならない。

2.〈関係記号〉の実例

 二つ目の部分を取り上げよう。並んでいる三人の心理描写を(省略もしつつ)引用する。

「おれは、やられないぞ! やられてたまるか……ピンチは、これが初めてじゃない(I've been in tight places before)……それにしても、ピストルはいったいどうなったんだろう……誰が盗んだのか。〔中略〕だがどこにあるか、ありかを知っているやつがいる」

「みんな、狂うぞ……全員、狂う……死ぬのがこわいからだ……誰だって、死ぬはこわい……わたしだって、こわい……たしかにこわい。〔中略〕あの娘だな……娘から目を離してはいけない。娘をじっと見張るのだ。うむ、あの娘だ……」

「四時二〇分前……まだ四時二〇分前か……時計が止まっているんじゃないか……わからない——わけがわからない……こんなことが起きるわけがない……それなのに、起きている……なぜ目が覚めないんだ。めざめよ——神の裁きの日だ——いや、そうじゃない!〔後略〕」(青木久惠訳)

 これが誰の発言であるのか、正確に特定できると若島氏は指摘している*1。最初の内的独白は「ピンチは、これが初めてじゃない」という口癖からロンバートの、最後の独白は、「神の裁きの日だ」という老人の言葉を列車内で聞いていたブロアのものであることがそれぞれ分かる。そして真ん中の発言は、消去法からウォーグレイブ判事の内的独白と特定される。

 重要なのは、ウォーグレイブ判事の発言が特定できたとしても、すぐさま「彼が犯人である」ことが導ける訳ではない、ということである。死への恐怖と、娘〔=ヴェラ〕への懐疑からは、「判事はヴェラを疑い、事件の被害者となることを恐れているのではないか」という読みが発生するからである。これは勿論、誤導(ミス・ディレクション)であり、最終的には、(1)死への恐怖は彼が不治の病を得ていたからであり、また(2)ヴェラへの警戒は大胆で機転のきく彼女を、自分の計画にとって最大の障害と思っていたがゆえの言葉であったことが判明する。伏線でもあり、読むべき手がかりでもあった訳だ。

 つまるところ、これは「ダブル・ミーニング」な訳であるが、それが伏線であると気づかせず、ミス・ディレクションとして機能するのは、他の記号と併置されることによってである。第一に、他の記号——他の人物の内的独白——との関係で(それらを「手がかり」として読むことで)、この記号がウォーグレイブの内的独白であると特定されねばならない、第二にその上で、他の記号と並列された効果もあり、この独白は「判事は犯人を恐れている」というミス・ディレクションとして機能する。以上二点から、この誤導は、ウォーグレイブ判事の内的独白がただ一つ置かれているだけでは誤導として機能しないことが分かる。

 そしてまた、ロンバートとブロアの独白もまた、こうした併置の効果によってはじめて、誤導か手がかりか判別不可能なものとなることに注意せねばならない。上記引用では、ヴェラなど他の人物の独白は省略したが、誰が発言したかをすべて特定できたとしても、読者はどの人物のどの記号がミス・ディレクションで、別のどれが伏線/手がかりなのか、読むことが困難である。判別困難性は、複数の発言が関係のネットワークを作ることによりはじめて生じる。言い換えれば、記号関係が〈判別困難なミス・ディレクション/手がかり/伏線〉という新たな記号を生み出す。これが〈関係記号〉である。

 

 だが改めて考えてみれば、ある記号が別の記号との関係で役割を果たす、ということは特別なことではないのではないか——そう思われるかもしれない。例えば「伏線」といった、ポオの作品にさえ見られる探偵小説の基本的な記号さえ、事件の解明に寄与しない他の諸々の記述といういわば「地」の上でのみはじめて効果を持つのであるから。だが、ここでは「伏線」、「ミス・ディレクション」、「手がかり」といった探偵小説に固有な記号が、相互に結びつくことで初めて効果を上げるような、特殊な関係を問題にしている。ひとまずこうした特殊な意味での関係としての記号を〈関係記号〉と呼ぼうと、ここでは提案したいのである。

3.〈関係記号〉の初期形態:『雲をつかむ死』

 『そして誰もいなくなった』の上述の引用箇所を、若島正氏も、また作家の阿津川辰海氏も『雲をつかむ死』(1935)の記述と比較している。ここでは特に同書、クリスティー文庫版(2020年)の阿津川氏の優れた解説を手引きに、簡単に検討しておくことにしよう。

 この本でも、犯人ゲイルの幾箇所かの内的独白——そこには大胆なミス・ディレクションや伏線が仕掛けられている*2——と共に、他の人物の内的独白が作中に埋め込まれている。ただし、『そして誰もいなくなった』のように、隣り合って並べられている訳ではなく、随所に散りばめられるかたちを取っている。また、他の登場人物の内的独白(例えばホーバリー夫人のそれ)は確かにミス・ディレクションとして機能しているが、『杉の柩』の登場人物の様々な台詞ほど、はっきりとした誤導となっている訳ではない。総じて、これらの与える効果は『杉の柩』や『そして誰もいなくなった』ほど、劇的なものではないように思える。

 ただし、阿津川氏が鋭く指摘しているように、「ホーバリー夫人が逮捕されたらどうなるんだろう」(230頁)というゲイルの内的独白は重要である。ここでゲイルが彼女に疑惑を向ける根拠は無いにもかかわらず、読者がこれを自然に読んでしまうのは、それまでホーバリー夫人へと疑惑を誤導する様々な記号の積み重ねがあってのことである。この記述は、それまでの記述との関係によってはじめて、「ミス・ディレクション」として、同時に事件の解明の手がかりとなる「伏線」として機能する。これもまた一種の関係記号、その初期形態と言ってよいであろう。

*1:若島正「明るい館の秘密:クリスティ『そして誰もいなくなった』を読む」、『乱視読者の帰還』、みすず書房、2001年、251-252頁。

*2:とりわけ、「その医者が凶悪な殺人犯ときては」(229頁)という記述は大胆である。