Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「伏線」と「手がかり」の変遷をめぐって:佐々木徹編訳『英国古典推理小説集』を読んで

 この記事では、佐々木徹編訳『英国古典推理小説集』(2023)を読み、それに触発されて思いついたことを書いてみたい。それは、探偵小説における「伏線」と「手がかり」の、いわば史的変遷に関するものである。したがって、記事の内容は同書所収の作品に限定されない。探偵小説黎明期の作品が、他にも取り上げられることになる。

 予め述べておくが、ここで提示されるのはあくまでも「仮説」である。それゆえ、論証はいまだ不十分であり、多分に「言い加減な」ものでさえあるかもしれない。しかし論文と異なり、自分の暫定的な考えを取り急ぎまとめて示し、識者の意見を乞う、というのはブログの一つの使い方であるだろう。ご意見のある方は、コメント欄に書き込んでいただけると嬉しく思う。

 *丸括弧内の頁数は断りのない限り、同書のものである。

 

【第1節ではポオ「モルグ街の殺人」、フィーリクス『ノッティング・ヒルの謎』の真相に、第2節ではバーク「オターモゥル氏の手」、及びチェスタトン「折れた剣」と「見えない人」の真相にそれぞれ触れる。】

 

1.伏線と手がかり:その初期形態

1-1. ポオ「モルグ街の殺人」(1841)

 伏線と手がかり、ということで、まずはポオの「モルグ街の殺人」から話を始めよう。この作品には、すでに「伏線」に相当する記号が登場している。例えば以下である。

四千フラン入っている袋はそのままだったが、寝具の下の金庫は空だった。

 これは犯人がオランウータンだったため起こった事態であるが、この記述はデュパンの指摘する「どの証言者も『鋭い声』を自分の話せない外国語の声としている」という手がかりに比べれば、目につきにくいものである。すなわち「伏線」と言ってよいだろう。

 さしあたり本稿では、伏線と手がかりを次のように特徴づけておきたい。

  1. 伏線:事件の何らかの相を指し示すとは思われていなかった記述が、解明部において遡って事件のことを指し示す記号になるもの。
  2. 手がかり:解明前に、事件の何らかの相を指し示すことは分かっているが、具体的に何を指し示すかは分かっていないもの(多くの場合探偵や登場人物によってその重要性が指摘されるか、もしくは何らか明確な書き方がなされる)。

 勿論多くの場合、「伏線」の記述は探偵によって最終的に読まれるのだから、その記述は「手がかり」を含んでいる。しかしひとまずこれら二つは分けるのが、作品分析においては有効である。

 ここで最初の仮説を提示しておきたい。

  • 仮説1:伏線と手がかりの二つの記号は、探偵小説の初期においては、その果たす役割に明確な区別がされていない。言い換えれば、両者の違いは、「程度の差異・グラデーション」の中に収められており、明確に質的に分化していない。

 換言すれば、「伏線と手がかりの違いは後年ほど意識化されていない」ということだ。先のポオの作品においても、伏線と手がかりの「目に付き度合い」に違いはあるとはいえ、伏線とみなした「金庫は空だが、四千フラン入った袋はそのまま」という不整合は(注意深い読者なら気にかかる)「手がかり」とも言えそうである。

1-2. フィーリクス『ノッティング・ヒルの謎』(1862-3)

 この仮説の一つの傍証となるのが、本書の目玉とでもいうべきチャールズ・フィーリクス『ノッティング・ヒルの謎』である。見取り図の挿入、日付特定の論理的な推理……と意欲的な作品であり、ラストも含め、この時代のものとしては驚くべき達成を示した作品と言ってよい。しかし残念ながら、その「論理的な推理」にはこのジャンル特有のカタルシスがない。なぜか。

 それは、伏線も手がかりも、諸々の文書や証言の中に散りばめられた結果、その「可視性」にほとんど差異が見られないためである。そこには、明示的な手がかりから驚くべき仮説を編み上げるアブダクションの面白さも、思わぬところを手がかりとして拾ってくる伏線の妙味も感じ取ることができない。

 具体的に見てみよう。例えば、「アンダトン夫人の双子の話を踏まえて、メスメリスムの話題を聞いて男爵が驚くこと」(338-9頁)などは、比較的目に付きやすいところであり——何と言っても「驚いている」のだから——、読者は「男爵はロザリーがアンダトン夫人の姉妹であることに気がついたのではないか」といった疑念をもつことになる。ここは「手がかり」といってよかろう。他方で、「〔男爵は〕自分が地下に行った時、台所に入った夫人がそこから出てくるところだった、と言いました」(477頁)という記述は伏線と言える。のちに、召使いの信頼するに足る証言と矛盾することが分かるからである。しかし、この伏線も先の手がかりも、どちらも証言記録の中に書かれており、鮮やかな対照を作り出していない。総じて、この平板さ、均質性が推理の面白味を削いでいる*1。先述した、「日付特定の論理的な推理」においても、伏線を多数材料として用いているが、それらは可視性の度合いが一様なまま各証言に散らばっているため、「ここに書かれていたか!」といった驚きに欠けてしまう。結果、その推理の論理性は特筆すべきものの、上がっている効果は薄いと判断せざるを得ないように思われる*2

2.伏線機能の十全化へ

2-1. バーク「オターモゥル氏の手」(1929)

 「伏線」については、その展開を見るのに好個の短編が本書には収められている。それがトマス・バーク「オターモゥル氏の手」である。この黄金期の名短編には、実のところ、それと分かる「手がかり」は登場しない。しかしここにはすぐれた伏線が繰り返し登場する。それは、事件のたびごとに紛れ込む「巡査部長」の語である(276, 279, 282, 288頁)。犯人は、事件に最初に駆けつけたと思われていたオターモゥル巡査部長、その人だった。ここでは、繰り返し「巡査部長」と目に見える形で記述されているにもかかわらず、その語は多数の他の記述のうちに紛れ込み、結果、解明部以前には事件を指し示す記述とはみなされない、というすぐれた伏線の効果があげられているように思われる*3

 この、手がかりを可能な限り消去し、伏線だけに限定するという本書の試みが成功しているのは、この伏線の機能が事件内容と、つまりはトリックと構造的に照応しているからである。巡査部長、すなわち警察官というのは、立派な目立つ身なりをしているが、「ロンドンの群衆」(271頁)の中では(他の同職の人物と取り替え可能なため)目につかない〈見えない人〉である。群衆の中での警察官の立ち位置と、多数の記述の中での伏線の役割とが対応していること、この点に本作の卓越性がある。

 ここでは一例だけ挙げたが、黄金期には、前節で特徴付けたような意味での伏線は成立していると言ってよかろう。では前節で挙げた作品群から、どのようなプロセスを経て、伏線は明確に作中で機能するようになったのか? 前段で〈見えない人〉と敢えて述べおいたことからも分かる通り、評者は、これら二つの時期の転換点をなした作品としてチェスタトン の「見えない人(透明人間)」、そして「折れた剣」の二作が——少なくとも*4——関与しているのではないかと考えている。分析の最後に、次項ではこれら二作を取り上げよう。

2-2. チェスタトン 「見えない人」、「折れた剣」(1911)

 ギルバート・キース・チェスタトン の名品「見えない人」と「折れた剣」は、当ブログでも繰り返し扱ってきた(例えばこちらの記事を参照)。まずは「見えない人」から簡単に再検討しよう。

 以前の論考*5でも書いたのだが、この作品の犯人=郵便配達夫は、伏線機能を人物化したような存在である。伏線が「目の前にあるのに気づかれない」記述であるのと同様、郵便配達夫もまた、目の前を通った筈なのに気づかれない人物である。言うなれば、記述の水準にある記号の役割が、作品内の人物へと〈対象化〉されているのである。

 次に「折れた剣」である。「木の葉を隠すなら森の中」をめぐるブラウン神父とフランボウの有名な会話で始まるこの作品では、「多数の戦場の死体の中に一つの殺人死体を隠す」ことがメイントリックとなっている。つまるところ、「多の中に一を隠す」ことが主眼である。

 さて、改めて「オターモゥル氏の手」の伏線を見てみよう。それは、「『巡査部長』と目に見える形で記述されているにもかかわらず、その語が多数の他の記述のうちに紛れ込んでいる結果気づかれないようなものであった。つまり、「目の前にあるのに気づかない」、その「見えない」理由が、「多の中に紛れ込んでいるため」というかたちで処理されているわけだ。ここには、「見えない人」と「折れた剣」、双方のトリックの核心——「目の前にあるのに見えない」と「多の中に一を隠す」——が記述という水準に折れたたまれたかのような状況が現れている。

 以上を踏まえ、二つ目の仮説を提示したい。伏線がある時期にまさに伏線として、手がかりとして区別して登場するためには、その登場以前に、同種の構造が「見えない人」や「折れた剣」のようにトリックとして作品内に〈対象化〉されて現れる必要があったのではないか。人物や物として作中に対象化されることで、「見えないこと」と「隠すこと」の技法は明確に認識される。この技法の認識を改めて叙述・記述の平面へと折り返すことで、「伏線」の記号機能が登場し、「手がかり」との分節化が生じたのではないか。

  • 仮説2:「伏線」は、(「見えない人」や「折れた剣」のように)作中のトリックとして対象化された認識を、改めて記述の平面に移すことではじめて明確に捉えられ、その把握により「手がかり」との分節化が生じた。

終わりに

 上記二つの仮説は無論のこと、黎明期の作品——ポオやディケンズから少なくともチェスタトンまでの作品——を分析することで、検証の鑢にかけられねばならないだろう。また、「手がかり」や「伏線」がどのように捉えられていたか、という点については当時の探偵小説評論も参考になるように思われる。

 このブログ記事では最後に、これらの仮説がもつ意義を二点、指摘しておきたい。

 (1)こうした〈伏線と手がかりの分節化〉は黄金期のいわゆるパズラーの登場と軌を一にしているように思われる。伏線とは、解明部の前まで「目の前にあるのに伏せられている」記号である。とするなら、それは作中の探偵のみならず、読者の積極的な読みをも要請する記号となる*6。言うまでもなく、この読者の積極的な参画は黄金期の諸作の一つの特徴である*7。黄金期のパズラーや本格の関連では、「ノックスの十戒」(1928)や「ヴァン・ダインの二十則」(同年)がまずもって検討の俎上に乗せられるが、そうした明示的な規則が成立する背後に蠢いている、細やかな記号の動態をも同時に研究する必要があるように思われる。

 (2)探偵小説の歴史ないし形成過程を考える際に、トリック、語り、読み(手がかりや推理)といった相をバラバラにではなく、まとめて考察することが必要なように思われる。トリックの分類や歴史、語りの変化、といったそれぞれの相の進展・歴史については色々な論がこれまで立てられてきた。しかしもし、二つ目の仮説で見た通り、語り・記述の相がトリックの相と密接に関わるとするならば、それら諸相の間の変換過程を追跡することも、探偵小説の形成を考える上では不可避となる筈である。本記事は、そうした検討に向けた一つの助走に他ならない。

*1:それでも、先の伏線がきちんと記述されているところはやはり大したものであるが。

*2:もう一作、傍証として本書所収の短編キャサリン・ルイーザ・パーキス「引き抜かれた短剣」(1893)を挙げておこう。【以下、同作の真相に触れる。】「二通の手紙に描かれていた短剣の絵」、「ミス・モンロウの部屋がきれいに片付いていたこと」などは「手がかり」と言えるだろう。対して、ミス・モンロウと見做されていた女性があげる「静かに!」(221頁)という声はどうだろうか。この言葉については、解明部においてイギリス人の発音である「ハッシュ」ではなく、「ウフッシュ」と発音されたことから、イギリス人であるミス・モンロウのものではない、という推理がなされる。しかしこの発音については、事前に記述されていない。したがってこの「静かに!」は伏線未満の記述ということになる。こうした(回顧的な視点から見ての)不徹底は、伏線というものへの意識がまだ十分でないことを示しているように思える。

*3:本作は語りの重層性も問題になるが、この点は今問わない。

*4:まだ予想に過ぎないが、オースティン・フリーマンの『ソーンダイク博士』における倒叙形式の発案もまた大きな貢献をなしたように思える。

*5:中村大介「探偵小説生成論序説:パースの記号学から出発して」、『数理と哲学:カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』、青土社、2021年、357-383頁。

*6:それゆえここからは「(作中の人物ではなく)読者にしか読み取れない」叙述も生まれてくることになる。これは「叙述トリック」の一つの背景をなすが、読者にしか読み取れない叙述のすべてが叙述トリックとなる訳ではない。

*7:勿論、「ヴァン・ダインの二十則」中の第十五則に、こうした特徴の主張は典型的に見られる。