Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

絡み合うミス・ディレクションの建築物:アガサ・クリスティー『ねじれた家』

 今回取り上げるのは、映画化もされたアガサ・クリスティーの『ねじれた家』(1949)である。本作はその「意外な真相」によりとりわけ知られているが、記述・叙述の面でも、この作家の美質が示されている。いやむしろ、ミス・ディレクションという叙述面に注目した場合、彼女の作品中でも指折りの複雑な絡み合いが本作には存在する。この記事では、本作にどのようなミス・ディレクションが存在し、また相互に関係し合っているか、という点にフォーカスして論じる。

 参照するのは田村隆一訳(ハヤカワ・ミステリ文庫、1984年)である。

*原書を参照して、訳文等を一部改変する可能性がある。

 

【以下、本作の真相と興趣に触れる。】

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探偵小説における焦点化の一問題:アガサ・クリスティー『満潮に乗って』

 アガサ・クリスティーの『満潮に乗って』(1948)を久々に読み返した。この作品は優れたトリックと叙述上の技巧を含んだ傑作であるが、同時に、ナラトロジーで言うところの「焦点化」に関して、探偵小説というジャンルにおける興味深い問題をも提起している。ここでは取り分けてその焦点化の問題を詳しく追求する。

 第1節でまず叙述上の技巧を扱う。ミス・ディレクションを軸とした本作独自の記号を見た上で、「焦点化」の問題を立ち入って検討する。第2節でトリックおよび犯罪全体の構図を考察する。本作をクリスティーのある作品系列のうちに位置付けることが、この節の目標となる。

*参照するのは恩地三保子訳(ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)である。原書(Fontana, 1961)も必要に応じて参照した。

 

【以下、本作の真相と趣向に触れる。】

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手がかりと伏線のグラデーション:アガサ・クリスティー『愛国殺人』

 今回はアガサ・クリスティー円熟期の佳作、『愛国殺人』(1940)を取り上げる。この作品は傑作・秀作とまでは言えないにしても、この時期に典型的な叙述の技巧、及びトリックを見ることができる興味深い作品である。以下、叙述とトリックという、その二つの面から本作を検討する。

 参照するのはハヤカワ文庫版(加島祥造訳、2004年)である。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

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二つの範例性:〈数理/フィクションと哲学〉への予備的考察(1)【追記あり】

 先日の講演会で、数学をカヴァイエスの言う「パラディグム」で、フィクションをカントやデリダを参照しつつ「範例性」で、それぞれ特徴付けた(ちなみに「範例性」の元となったラテン語は、「パラディグム」のギリシア語原語に対応するものである)*1。しかしこの講演内容を考える過程で、同時に、数学における「範例性」に思い至ることにもなった。今回から2回に分けて、数学とフィクション、それぞれの「範例性」を軸に、両者を対照的・相補的、そして統一的に議論するための、予備的な考察を提示する

 まず「範例性」を簡単に定義した上で、数学における「範例性」と「パラディグム」の関係を明らかにする。その上でフィクションの議論に進み、数学とフィクション、それぞれの「範例性」の特徴を見てみたい。

  • 1.範例性の定義
  • 2.数学における範例性
    • 2-1. パラディグムとは何か
    • 2-2. 範例性とパラディグム
  • 3.フィクションにおける範例性
    • 3-1. 文学における範例性
    • 3-2. 二つの対照的な範例性?

*1:「パラディグム」のフランス語は « paradigme » —英語では「パラダイム」—、「範例性」のフランス語は « exemplarité » である。

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両義性と爆発:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督『マリア・ブラウンの結婚』

 今回は二週間ほど前にシネマスコーレで観た、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの傑作『マリア・ブラウンの結婚』(1978)について簡単に記しておきたい。ファスビンダーは個人的には留学時代に『一三回の新月のある年に』(同年)などを観た程度であったが(それはそれで衝撃的ではあった)、今回のファスビンダー特集上映にて、『不安は魂を食いつくす』(1974)と共に本作を観、この映画作家のすごみに改めて触れた。この記事にて、それを少しでも語り出せればと思う。

 まずは映画前半の筋を簡単に記しておこう。ハンナ・シグラ演じる本作の主人公マリア・ブラウンは、第二次世界大戦の最中にヘルマンと結婚する。結婚後すぐに彼は出征し、終戦後も行方知れずのまま、死んだとの知らせをマリアは聞く。だが彼女がアメリカ兵と新たな人生を踏み出そうとしたまさにそのとき、死んだと思われていたヘルマンが帰国し、夫の姿を見た彼女はアメリカ兵を殺してしまう。ヘルマンは彼女の罪を被って投獄される一方で、マリアは彼の釈放の日まで力強く生きていくことを決意する……。

 この映画の一つの特徴は、最後に至るまで様々な「両義性」に作品がつきまとわれていることだ。作中には少なくとも四つの両義性が存在するように思える。

 まずはマリア。彼女はやがて繊維会社社長の愛人となり、同時に秘書としても有能さを発揮することで経済的に成功していく。そこには自立した女性の力強さと共に、その自立が経済的に成長していく西ドイツを背景とした、金銭面に支えられたものであることも描かれる(彼女は徐々に冷徹な仕事の鬼となっていく)。ここにあるのは〈自立した女性〉と〈資本主義の非人間性〉という両義性だ。さらにそこにもう一つの両義性が重ね合わされる。彼女はしばしばヘルマンに面会に行くのだが、徐々に華美になっていく彼女の姿に、私たちは、「彼女は本当に夫を愛しているのか、それとも夫を愛そうとしている自分のことを実は愛しているのか」と判然としなくなってくるのである。単純に言えば、真の愛と偽りの愛の二重性

 こうしたマリアの二重の両義性に加えられるのが、彼女を取り巻く男たちの両義性である。ヘルマンに面会に来た、繊維会社の社長オズワルトはある契約を交わす。劇中では終盤まで明確に示されないが、観客はその内実を察することができるよう演出されている。余命短いオズワルトは、せめて自分が生きている間はマリアと暮らせるよう、ヘルマンを説得するのだ。ヘルマンは釈放の日も、会いにきたマリアと会わず、一足先に出て行方をくらます。そしてオズワルトの死後、彼女にようやく会いにくるのである。ここにあるのは、どちらが本当に彼女を愛しているのか、その不分明性からくる両義性だ。

 最終盤の作劇は特筆に値する。まずマリアは、ヘルマンと再会できた喜びからタバコをガスコンロでつけた後、そのコンロの火を息で吹き消す。タバコをつけた後に火を息で消す描写は前半にあり—そこではマッチについた火が消される—、最後の最後に彼女は資本主義に溺れた存在では無く、かつての、ヘルマンを愛した彼女に戻ったかのように演出される。だがその直後、オズワルトの遺言が開封され、マリアはヘルマンとオズワルトの「契約」の中身を知ることになる。最後の両義性が現れるのはここである。遺言によりヘルマンの覚悟と愛を知った彼女が、自殺を試みようとしたかのような場面—手首を水で濡らす場面—が挟まれたのち、最終的に彼女はタバコを吸おうとしてつけた火で、コンロから漏れていたガスを爆発させてしまう。最後に現れる両義性はそれゆえ、自殺か事故かということになろう。この爆発で映画は幕となる。

 この最後の爆発は無論のこと、オープニングの爆発シーンと照応している。オープニングの結婚式の場面においては、外から室内へと爆弾が投げ込まれることで爆発が起きるのだが、ラストにおいては、室内のガス爆発の衝撃が屋外へと伝播する。ここには最初と最後の、一見したところ鮮やかな—鮮やかにすぎる—映画的照応がある。

 だが、その映画的な照応を見届けて満足した外に出た観客はふと気がつく。両義性は何も解決されていないことに。例えばマリアは真に自立した女性だったのか、資本主義の犠牲となりヘルマンへの愛を失っていたのか、それともその双方は切り離し得ないものだったのか。初まりと終わりを照応させることで、映画としての物語上の完結を目指しつつ、そこに解消されない両義性をなお思考させようとする映画。いや、むしろこう言うべきだろうか。両義性を思考させるためにこそ、両義性を綺麗に物語的に解決することを避けるような、対照的な爆発という映画的な表象で物語を挟み込んだのだと。爆発に始まり爆発に終わるという物語の結構と、そこに解消されない両義性のもたらす剰余—この点にこそ、『マリア・ブラウンの結婚』という作品の、すぐれた映画的緊張があるように思える*1

*1:この「緊張」について付言しておこう。この映画について友人と少しやりとりをした際、「最後はまさにカタルシスである」といったようなことを指摘された。これは本記事の議論を踏まえれば、様々な両義性を含む不穏な映画的持続が、最後に爆発というかたちで起こったときに生じるカタルシス、ということになるだろうか。重要なのは、この両義性と爆発のカタルシスの関係である。一方で両義性を思考させ続けるためには、それを安易に解消するような結末を回避しなければならず、それゆえ「爆発」という終わりが選ばれねばならない。他方でまさに両義性があるからこそ、最後の爆発という表象にカタルシスが発生することになる。それゆえ重要なのは、この両義性と爆発の〈非–弁証法的〉とでもいうべき関係なのであり、これが「緊張」の正体に他ならない。

後期のテーマはいかにして導入されたか?:エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの冒険』

 今回はエラリー・クイーンの記念すべき第一短編集、『エラリー・クイーンの冒険』(1934)を論じる。本作は海外探偵小説史上、屈指の名短編集であり*1、まずは同時期の〈国名シリーズ〉との関連で扱うのが通例であろう。だがここでは異なったアプローチを採る。本記事では、「いかれたお茶会の冒険」を中心に取り上げ、〈ドルリー・レーン四部作〉および後期作品とのネットワークの中で、この短編を位置付けることを目標としたい。

 この目標設定に応じて、本作だけでなく、途中から他作品の推理や真相にも触れることになる。具体的には以下の作品に言及する。

  • ドルリー・レーン四部作:『Yの悲劇』、『レーン最後の事件』
  • 後期作品:『十日間の不思議』、『悪の起源』、『最後の一撃』

 『冒険』の参照テクストは中村有希訳(創元推理文庫、2018年)である。必要に応じて、原書(Penzler Publishers, 2003)を参照する。

 

【以下、収録短編の推理と真相に触れる。】

*1:私見によれば、これに匹敵する海外(本格)探偵小説の短編集は、ポオを除けばチェスタトン 『ブラウン神父の無心』、及びブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』であろうか。

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二つの系列を結ぶもの:エラリー・クイーン『フォックス家の殺人』

 今回は久々にエラリー・クイーンの作品を取り上げる。ライツヴィルものの第二作、『フォックス家の殺人』(1945)である。以前『災厄の町』から『盤面の敵』に至る後期クイーンに関する論文を書いたとき、この作品については扱いにやや困り、検討しなかった。改めてこの記事で、本作をクイーンの同時期の展開のなかではっきりと位置付ける作業を行う。

 予め述べておくと、この記事では他の多くのクイーン作品の「興趣」に触れることになる。具体的には、『災厄の町』、『靴に棲む老婆』、『十日間の不思議』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後の一撃』、『盤面の敵』である。また初期の代表作である『ギリシャ棺の謎』と『Yの悲劇』については、興趣にとどまらず、その真相にも触れることになる。クイーン・ファン向けの記事なので、その点ご注意いただければと思う。

 参照するのは越前敏弥訳(ハヤカワ・ミステリ文庫、2020年)である。必要に応じて原書(JABberwocky Literary Agency, 2017)を参照する。

 

【以下、本作の推理・真相に触れる。】

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