Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

コペルニクス的転回とその先:アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』

 今回取り上げるのは、アガサ・クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で出した『春にして君を離れ』(1944)である。本作は『カーテン』や『五匹の子豚』などと並んで、かの女の絶頂期に書かれた恐るべき傑作である。

 この記事では、本作をあくまでも「探偵小説」として読むことを目指す。「探偵小説」として読むとは、〈伏線など叙述的な仕掛けを含む「記述」と、作中内の読み手による手がかりの解釈や推理などの「読解」との関係を通して、「事件」が再構成される〉作品として扱う、ということである。無論のこと、本作をこうした探偵小説として読む必要性はなく、それゆえここで提示される読解は限定されたものである。しかし同時に、何らの理論的前提もなしに作品を解釈するということも、またできない。本作が「探偵小説」としてもつ〈過激さ〉を、本稿が少しでも明らかにできればと思う。

*参照するテクストは中村妙子訳(クリスティー文庫、2004年)である。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

 

1.明示される手がかり

 『春にして君を離れ』において、作中の主要な読み手=ジェーン・スカダモアによる読解・推理が披露されるのは第9・10章においてである。まずは、そこまでに何が起きているのかを見ていこう。

 作品はジェーンが、旧友ブランチと再開して後、家族や知人を回想する形で話が進む。回想が始まってすぐ、かの女が夫の進みたい道をさして対話することなく強引にあきらめさせることに読者は気がつく。夫ロドニーは牛の種類に通じるほど農業への関心を見せ(「見事な短角牛だな」42頁)、実際、弁護士の事務所勤めがいやで農場が経営したいのだと希望を告げる(45-6頁)。だがこれに対してジェーンはこの判断が「実際的」でなく、またこれから生まれる子供のことを考えてもお金が必要であることなどから、「お話にもならない」(49頁)と切り捨てる。読者はかの女が独善的な態度で周囲に接すること、そしてかの女自身は自身の態度を理性的なものとみなし、一向にそれを振り返らない人なのではないか、と予想する。この与えられた方向性に沿って、予想を補強するような様々な「手がかり」が読者には次々と提供されていくことになる。主要な箇所を箇条書きで示そう。

  • 長男トニーが、お母さんは「お父さんのこと」も「誰のことも」全然分かっていないと指摘すること(116頁)。
  • 次女バーバラの友人を否定し、自分好みの子を友人として押し付けようとすること(195-7頁)。
  • ジェーンの知人リスリーと夫ロドニーが離れて座っていたことを「何て他人行儀な」と思う一方で、ロドニーがリスリーの勇気を称えることに半ばしか賛同せず、最終的にはかの女を「かわいそうな人」と憐むこと(98, 99, 237頁)。
  • ロドニーが長女エイヴラルに「自分の望む仕事につけない男は〔…〕男でない」と述べた後で、「ぼくの言うことが正しいと経験として知っている」と述べるが(後者の発言は原文ではイタリックで、邦訳では傍点で強調されている)、ジェーンはそれに無反応であること(190, 1頁)。

 決定的なのは、女学院時代にギルビー先生が面談でジェーンに「自己満足に陥ってはなりません〔…〕あなたには少々自己満足の気味があるからです」(137-8頁)と指摘していたことである。この情報を軸に上記の手がかりを読んでいくことで、読者は、かの女が自分のひとりよがりで、自己満足に陥りがちな自分の性格に気づくことができるのか、また、今の家庭の平和が見せかけのものであることに気付くのか、を小説の興味の焦点に結んでいくことになる。「なぜ彼女は気が付かないのか」、「どのようにして気が付くのかといったことが本作の謎ということになるだろう。

 クリスティーが巧みなのは、通常であれば読み落としてしまうような、(上に挙げた)何気ない発言や行動を、最初に与えた方向性で読むよう読者を導いていくところにある。その際、新たに出てきた手がかりが過去の手がかりの内容を補強し、読みの方向性がさらに定まっていく、といった〈手がかりの重層的効果〉とでも言うべきものが発揮されているように思われる*1。勿論、読者はそのすべての手がかりに気が付く訳ではなく、伏線化している箇所もあるかもしれない(手がかりの分かりやすさに一定のグラデーションは存在する)*2。だが、「ジェーンの独善的な性格とそれにかの女自身が気が付いていないこと(逆に家族は気付いていること)」がいわば「事件の真相」であると読むことに困難はない。

 つまるところ、この小説は「読者が作中の読み手より先に事件の真相を見抜く」構成をとっているのである。

2.コペルニクス的転回

逆転の形式

 この特徴をよく考えてみよう。通常の探偵小説、とりわけ「本格」と呼ばれるジャンルでは、探偵がまず手がかりを読み、推理することで事件の真相に到達する。読者は — 確かに「読者への挑戦」などで事件の真相や探偵の推理を読むよう挑戦されることもあるが — 基本的には、解明の箇所で探偵より遅れて真相に到達する。

 だが本作では、これが逆転している。第9・10章において、ジェーンは自身の回想を読み直すことでようやく真相に到達する(ジェーンはそれゆえ回想の「語り手」であると同時に、その回想を読んでいく「探偵」でもあり、その読みによって自身の性格の問題に突き当たるという点では「犯人」でもある)。ここでは、読者と作中の読み手である探偵が真相にたどり着く順序が逆なのである。『春にして君は離れ』は〈本格の逆転形式〉を備えているのである。

 気をつけるべきは、この「逆転」が探偵小説のジャンルとしての倒叙」ではないという点である。倒叙では「事件」が犯人の視点から直接記述される。読者はそれゆえ「犯人の視点」に立つよう導かれる。だが前節で指摘したように、本作では読者には手がかりを読んでいく努力がわずかではあれ、必要とされる。読者はむしろ「凡庸な警察官」として、容易に気が付くような手がかりを読み、事件全体を配置していくことが求められるのである。

 勿論、読者がジェーンが辿り着いた読みとまったく同じ読みに予め到達できているという訳ではない。例えば、かの女がロドニーとレスリーの秘めたる恋をようやく認めるところで、これまではこの恋の真相を見ないようにすべく「マーナという遮蔽幕」を立てていたのだ、と気がつくところがある(264頁)。美しいマーナに夫が惹かれていたのであれば、自尊心はそれほど傷つけられずに済む。だが、貧相だがときに魅力的な笑顔を見せるレスリーにロドニーが情熱を向けていた、と認めることは自分には堪え難いことだった。これとまったく同じ読みに読者が至ることは難しいかもしれない。それゆえ、本作でも、通常の探偵小説としての興趣が完全に削がれている、とは言えないだろう。それでもこの点は、〈読者の読んだ事件の真相に作中の読み手が後で追いつく〉という本書の基本構造を毀損するものではないように思われる。

逆転した記号

 そしてこの逆転形式は、探偵小説における記号の役割の逆転という興味深い特徴をも引き連れる。通常の探偵小説のケースを再び考えてみよう。探偵が「手がかり」として読み推理に組み込む部分は、しばしば*3読者にとって「伏線」である。つまり、謎解きまでそれを「手がかり」と気が付かず、謎解きを介して遡行的に事件を何らか指し示すような「伏線」という記号が存在したと読者は気がつく。だが、本作において、この手がかりと伏線の関係は転倒しているようなのである。

 第1節で見た通り、読者は事件を示す「手がかり」に容易に気がつく。ジェーンも例えば、

  • 駅で別れた直後、ロドニーがすぐにしゃんとした姿で立ち去る姿(87頁)
  • ロドニーによる「〔田舎の弁護士であることの〕唯一の埋め合わせ」という発言(163頁)

などには違和感を抱いている。これらはかの女が過去を読み解いていく上での「手がかり」となっていると言ってよいであろう。

 だが、読者には明示的であるにもかかわらず、ジェーンにとっては最後の段階まで、それが「伏線」のように気づかれないままでいる記述が存在するように思える。幾つか列挙してみよう。

A. 「お母さんには、お父さんのことなんか、何一つ、わかっていないんだよ」(トニー;116頁)

B.「ぼくははっきりいっておく、エイヴラル、自分の望む仕事につけない男は、〔…〕男であって男でないと」(ロドニー;190頁)

C.「でもあの子〔バーバラ〕ったら、妙な友だちばかり作って」(ジェーン;197頁)

 Bはジェーンがロドニーからやりたい仕事を奪ってしまったことを、Cは娘の友達さえ選別するようなジェーンの性格を、そしてAはそうしたかの女が独りよがりの世界に住んでいることを、それぞれ示している。読者にとっては明らかなこれらのしるしに対し、かの女はしかし回想時に違和感や驚きを感じている訳ではない。要するにこれらは、〈読者にとっては手がかり、作中の読み手にとっては伏線〉という、通常の探偵小説の記号 ー 探偵にとっては手がかり、読者にとっては伏線 ー とは逆のあり方をする記号なのである。こうした記号を、幾分のぎごちなさがあることは承知で、いま「逆-伏線」あるいは「逆-手がかり」と呼ぶことにしよう。

 本作はクリスティー特有の、ダブル・ミーニングやミス・ディレクションといった多様な記号が入り乱れ、互いに複雑な関係を織りなすタイプの作品ではない。だがこれは本作の欠点ではいささかもない。むしろ「伏線ー手がかり関係」に局限することで、「逆-伏線」ないし「逆-手がかり」という、おそらくは探偵小説史上あまり類を見ない記号を作り出した点に、探偵小説の記号という観点から見た本作の大きな達成があると見るべきであろう。

 

 ここまで本作における「本格の逆転形式」と「逆転した記号」について見てきた。本節最後に、これらをある言葉でまとめておきたい。エピローグにおいて、ロドニーはリスリーによる「わたし、コペルニクスのことを考えていましたの」という発言を想起している*4。そしてコペルニクスとは彼によれば、「従来のものとは、まったく異なった世界像を描いた人物」(317頁)であった。これは、「従来のものとは、まったく異なった」、逆転した構造と記号を備えた探偵小説である本作の隠喩とも取れる。

 哲学者カントは「認識が対象に従う」のではなく、対象のほうが空間と時間の直観や純粋悟性のカテゴリーなど、認識の可能性の条件に従うことを、地動説への転回になぞらえて「コペルニクス的転回」と呼んだ。そこで、「読者が探偵の推理に従う」のではなく、むしろ「作中の読み手が読者の読みに追いついてくる」ことへ、という本作の着想の向け変えを、やや大仰ではあるものの、「探偵小説のコペルニクス的転回」と呼ぶことにしたいと思う。

3.その先へ

 しかし本作の与える衝撃は、無論のこと第10章より後にある。そこで待ち受けるのは、自分の読みをロドニーの前で披露し、赦しを請おうと決意していたジェーンが、それらの読みを「何もかもわたしの想像に過ぎなかった」(304頁)ことにして、再びひとりぼっちで独りよがりの、他者の意見を聞かない見せかけの平和な家庭に帰っていく姿である。

 ここで起きている事態を、やはりあくまでも探偵小説として考えてみよう。するとそれは、回想における諸々の記述も、そこから得た手がかりや推理をも無化し、消去するということである。冒頭に述べた探偵小説の特徴づけを踏まえれば、「記述」と「読解」の相が消去され、「事件」だけが残る。ジェーンの「想像」などではなく事件は残ること、それはエピローグでロドニーが語り手になることで否応なく示されている。本作は「三人称の語り」を採用している。だがエピローグ手前までは、ジェーンによる「一人称の語り」でも、あるいは作品として成立し得たかもしれない。「三人称の語り」が採用された意味は、最後にジェーンからロドニーに語りが移る点にある。エピローグにおけるロドニーの語りは、やはり事件が存続していたし、これからも存続することを、つまり、「ジェーンは独善的な世界に住み、それに気づいている周囲と気付いていないかの女自身との間に懸隔が存在し続ける」ことを、否応なくつきつけるのである*5

 このような探偵小説は稀であると言わねばならない。『春にして君を離れ』は、探偵小説のコペルニクス的転回を経て非-探偵小説に至りついてしまうのである。この〈非〉は、本作が探偵小説でない、ということではない。「読者が最初に事件の真相にたどり着く」という探偵小説の逆転形式を用いたからこそ、手がかりや推理を作中の読み手自らが最後に放棄することの衝撃が訪れるのだから。こうした作品を「アンチ・ミステリー(反推理小説)」と呼ぶのは不正確であろう。途中まで作品を支えてきた探偵小説であることの条件を最後に消去することで成立する、独自の「非-探偵小説」なのである。

 

 ジェーンは自分の読んだ手がかりも推理もすべて想像や妄想の産物として消去し、逆に想像の世界に帰ることになった。だがこの「消去したことのしるし」、すなわち痕跡は残っている。エピローグでかの女は、「実際にはできもしないことをふっと思いつくって誰にでもよくある」(322頁)と発言し、「きみでもかい?」という夫ロドニーの返しを受けて、眉を寄せて表情を動かす。そして、「病的に神経過敏になるって、誰にだってときどきは起こる」と述べるのである。この痕跡は、かの女がいずれ再び自身の過去を読み直すことへの、ほんの僅かな希望を示唆しているのだろうか。それとも、回想を推理してもなお再び独善的な想像の世界に立ち戻らざるを得ない、という深い絶望を記しているのだろうか。

 

[10/16追記]原書(HarperCollins, 2017)を参照し、一部補足した。内容に変更は加えていない。

*1:細かいことを言えば、上に挙げたことは「手がかり」(私の記号図式でいえば3-1に入る)というよりも、明確な文の形をとっているのだから「情報」(同じく3-2)としたほうが正確かもしれない。

*2:例えば、レスリーがクレイミンスターへの埋葬を望んだこと(240頁)の理由は少し考えれば分かるだろうが、トニーが母の無理解を責める直截な発言に比べれば、気が付きにくい手がかりと言えるだろう。

*3:「常に」ではない。伏線は探偵の推理によって指摘されず、読者が謎解きを経てそれが伏線であると自然に気づくよう導かれるケースも多い。

*4:この発言のよりテクスト内在的な意味については最後の註を参照。

*5:レスリーとロドニーの関係について、探偵小説という限定を外れた解釈を提示しておこう。レスリーは「汝がとこしえの夏はうつろわず」というシェイクスピアソネット18を彼の前で呟く。このソネットは、美しいものは全て朽ちるが、君が不滅の詩の中で時と合体すれば、君の永遠の夏はうつろうことはない、ということを述べている。本作でこの不滅の詩にあたるものこそ、「コペルニクスのことを考えていましたの」というレスリーのことばである。それは一方で、法的に外側から拘束される愛ではなく、精神的に内側から、(地動説がそうであるように)自分を中心として結ばれる愛であることを告げている。そしてまた他方で、コペルニクス肖像画を見てこのことば自体を思い出すたびごとに、ロドニーは幻のレスリーに出会うことができるのであろう。