2021-01-01から1年間の記事一覧
この小論の目的は、アガサ・クリスティーの代表作とされる『そして誰もいなくなった』(1939)におけるある別の事件の存在を指摘し、長らく忘れ去られてきたであろう「もう一人の名犯人」の名誉回復を試みることである。 この作品の最終盤をよく読むと、そこ…
アガサ・クリスティーの『五匹の子豚』(1942)を再読した。言うまでもなく「大傑作」である。ここでは、1. 「謎」に関する本作独自の扱いを見た上で、2. 登場する伏線、ミスディレクション、ダブルミーニングのあり方を立ち入って分析したい。実際、本作に…
エラリー・クイーンの諸作品で、あるべきものが「無い」ことが手がかりとなるという、いわゆる「ネガティブ・クルー」が重要な役割を演じていることは、既にフランシス・M・ネヴィンズによっても指摘されている*1。ここではこの「ネガティブ・クルー」に関連…
私は相沢沙呼氏の作品『medium』および『invert』で活躍する探偵・城塚翡翠のファンである。ここでは探偵小説というジャンルにおける彼女の特殊性について、この探偵の核心に触れつつ書いていくことにする。未読の方は注意されたいが、「なんだ、作品を読ん…
以下は今後のための走り書きである。 東京2020オリンピックに際して、様々なことが「可能である」とされた。例えば開催前の時点では ー 民間団体であるIOCに東京オリンピック開催の権限はなく、それは中止することが可能である(それゆえ人間の生命を考えれ…
昨日の記事に続いて、「探偵小説の記号図式」に対する補足をおこなう。今日は「第二次性」についてである。 第二次性とは、「何が起きたか?」という記述の対象としての〈事件〉のカテゴリーであり、手がかりを読むことや推理という〈読解〉を通して事件を解…
今回そして次回と、私が探偵小説の形成を考察するために作った「記号図式」に対する補足事項を書いておきたい。今回補足したいのは、登場人物についてである。 まずは私の記号図式を掲げておこう。 詳細は省くが、最低限押さえておくべきこととして、「第一…
エラリー・クイーン の『盤面の敵』(1963)を再読した。これは『災厄の町』以降のクイーン作品群において、特筆すべき地位をもつ作品と思われる。その「特筆すべき地位」をここでは、本作のネタを割りつつ示していきたい(訳及びページ数はハヤカワミステリ…
エラリー・クイーンの『靴に棲む老婆』(1943)を宇野利泰訳で読み返したので、備忘代わりに少し書き留めておきたい。 以下、本作の核心だけでなく、後期のクイーンの主要作品(『十日間の不思議』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後…
自著の合評会で受けたとある指摘を色々と考えてきたのだが、考察が徐々にまとまってきたので、ここで一旦まとめておきたい。テーマは、〈探偵小説の形成に、仮に「断絶」とでも呼ぶべきものがあるとしたら、それはどのようなものか〉である。「断絶」には無…
『災厄の町』以降のエラリー・クイーンの作品群、いわゆる「後期クイーン」を暫定的に二つの系列に分けてみようと思う。考察の手引きとなるのは、2月に越前敏弥氏による新訳が刊行された『十日間の不思議』(1948)だ。 今後の研究に向けたノートのようなも…
「記述者=犯人」ものと叙述トリックの関係について、以前考えたことを備忘代わり にまとめておく。 「記述者=犯人」の作品では、作品内の事件とは別に、その事件を記述すること自体が(読者にとって)事件になる、という二つの異なったレベルの「事件」が…
一般に「後期」と言われる時期 ー『災厄の町』から『最後の一撃』まで ー におけるエラリイ・クイーンの主要作品を読み返してきた。その再読を通して思ったことを、ここに簡単に書いておきたい。この記事は雑考、あるいは備忘録のようなものであり、今後の思…
エラリイ・クイーンの『ダブル・ダブル』(1950)を再読した。この作品の「見立て殺人」(ここでは数え歌殺人)について少し書いておきたい(最初は細かい話となる)。同作の引用は青田勝訳(ハヤカワ文庫)による。 (1)まず探偵小説の「記述」に関するあ…
エラリイ・クイーンの『九尾の猫』(1949)を越前敏弥氏の訳(ハヤカワ文庫、2015年)で読み直した。ここでは、おそらくはあまり指摘されているとは思えない、クイーン作品群における本作独自の位置を取り出してみたい。この傑作と言って良いだろう探偵小説…
エラリイ・クイーンの傑作『災厄の町』(1942)について感想を書きたいと思います。なお完全ネタバレありです。というよりもネタバレしかしていません。丸括弧内の算用数字は越前敏弥氏の訳(ハヤカワ文庫、2014年)の頁数を示します。それでは始めます。 【…