Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

役柄と俳優が重なるとき:相米慎二監督『セーラー服と機関銃』

 授業の関係で、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』(1981)のラストシーンを改めて観た。観直して少し思うところがあるので、以下簡単に書いてみたい。

 *シーンの内容に言及するので、未見の方は注意されたい。

 この有名な場面で、薬師丸ひろ子演じる星泉は新宿の歩行者天国を歩いている。通りはそれなりの人混みで、これが「実際の」新宿の通りを歩いていることが分かる。

 都会の真ん中でカメラをいきなり回し、そこに登場人物を歩かせた映画としては、例えばゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)が有名だ。そこでは、ジャン=ポール・ベルモント演じるミシェルとジーン・セバーグ演じるパトリシアの二人を、手押し車に載せたカメラが捉えるのだが、面白いことに、カメラの前を幾度も通行人が急に横切る。それは、あたかも映画の物語世界に、急に日常の人物が入り込んだかのようだ。

 だが『セーラー服と機関銃』の与える効果は、カメラが望遠であるということも含めて、異なっている。歩いていた星泉は立ち止まり、壁にもたれて煙草を吸う振りをする。再び彼女は歩き出すのだが、突如子供二人が横から飛び出てくる。そして女の子の落としたものを拾う彼女に、男の子が機関銃を撃つ真似をする(彼女の煙草を吸う振りは、おそらくはこの真似の前振りだ)。星もそれに応えて機関銃を撃つ真似をし、そのまま二人は歩いていくのだが、彼女が通気口の上に到達すると、そのスカートが『七年目の浮気』さながらに持ち上がる。小さな男の子と機関銃を撃ち合う真似をする、スカートの持ち上がった女子高生——その奇妙な風景を多くの人物が取り巻くところで映画は幕となる。

 鍵となるのは、二人の子供が飛び出してくるところだ。「実際の」新宿の光景だろう、と観ていた観客も、この二人は仕込み、つまり演出だろうと思う。それでもなお、男の子が機関銃を撃つ真似をし出したときに、久々にこのラストを観ていた私はぞくっとしたことを白状しなければならない。それはあたかも、新宿の街にたまたまいた子供が、急に映画の内容と呼応した動きをし始めたように思えたのだ。演出された物語世界と日常世界が重ね合わされてしまったかのような感覚。そしてそのまま、機関銃を撃つ真似を楽しそうにする彼女を新宿の人だかりが取り巻くラストに私が視るのは、もはや『セーラー服と機関銃』という物語世界の星泉だけではなく、俳優である薬師丸ひろ子その人でもある。星泉薬師丸ひろ子であり、その逆でもあること、あるいは「星泉薬師丸ひろ子になる」こと——ラストシーンはこの稀有な瞬間にたどり着く。そして長いワンショットは、この瞬間にたどり着くまでのありさまを持続的に示してくれるのだ。

 日常の人物が虚構世界に入り込んできたような効果を与えるゴダールの作品とは異なり、ここでは物語世界の人物が現実の人物に変貌するかのように思える。いや、より正確に言えば、物語世界の役柄と重ね書きされた俳優の姿に、私たちは〈現実〉を視るように思うのだ。虚構と現実が重ね合わされた稀有な瞬間としての、映画が幻視させてくれる〈現実〉を。

 そしてこの作品が薬師丸ひろ子という俳優がスターダムに上がっていく、そのさなかに作られたということ、それがこの場面をかけがえのないものにしている。同じ相米の『翔んだカップル』で見出された彼女はこの場面で、役柄と俳優自身が重ね合わされた、おそらくは映画史上あまり例のない一つの身体に生成する。だから私は、この映画を1981年の上映時に観た若い人たちに羨望の念を覚えずにはいられない。それは一体、どのような感情の高なりであったろうかと思う。だが時がたってもなお『セーラー服と機関銃』は、映画が到達した稀な瞬間を封じ込めたものとして、この芸術ジャンルのもつ可能性を私たちに軽やかに示し続けている。