Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

三つの記号:アガサ・クリスティー『ナイルに死す』

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 アガサ・クリスティーの『ナイルに死す』(1937)を再読した。巧みなストーリーテリングに支えられた人気作であり、トリックもクリスティーの生み出した中では有名なものだろう。ここでは、これまでの彼女の作品の分析同様、あくまでも伏線やミス・ディレクションといった「記述・記号」の水準において本作を検討してみたい。

 2022年に公開された再映画化作品『ナイル殺人事件』(ケネス・ブラナー監督・製作・主演)もなかなか良く出来た作品であり、観ながら気づかされた部分もあるのだが、本記事では原作のみを扱う。なお参照するのは加島祥造訳(ハヤカワ文庫、1984年)である。

 

[以下、作品の真相に触れる。]

1.伏線かつミス・ディレクション

 まず、ティム・アラトーンとその母ミセス・アラートンの食堂での会話を見よう。以下は、ポアロを同じテーブルに招待した、と母から聞いたときのティムの言葉と、それを受けたミセス・アラートンの反応である。

「お母さん、嫌だなあ!」〔…〕「あの人間〔ポアロ〕は実際、根っからの無作法者ですからね。」〔…〕ミセス・アラートンは給仕の後についてゆきながら、何となく解せない顔つきをしていた。ティムは普通、あまり物事にこだわらないし、自分の感情を露骨に現わすことなど絶対にしなかった。それで今日のように、無理なことばかり言うのは、およそティムらしくない振る舞いなのである。(143-4頁)

 ポアロを避けているティムの態度が、母親の反応と共にここでは目立った仕方で記述されている。ところで、『ナイルに死す』には、複数の事件が並走している。リネット殺しを皮切りとした連続殺人事件を主軸に、真珠盗難事件、レイス大佐の探している別の事件の殺人犯などである。ここでのティムの怪しい振る舞いは、リネット殺しの犯人でもおかしくないものである。だが、最後に明らかになるのは、ティムは宝石の連続窃盗事件のすりかえ担当であり、船の上でもリネットの真珠を狙っていた、ということである。彼はそれゆえ名探偵ポアロを警戒していていたのだ。

 この一連の描写はまずは「ミス・ディレクション」として機能していると言えるだろう。読者*1はティムは連続殺人事件の犯人かもしれないと誤導される。だがこの描写は単なる誤導ではない。それは別の事件、すなわち真珠盗難事件の伏線でもあるのである。

 このようにクリスティーは、ある描写を事件Aと関係づけると見せかけておいて、実はそれは別の事件Bと関わっていた、ということを示すのである*2。これは複数の事件を並走させる本作のプロットをうまく用いた記述だと言えるだろう。解明の前後における変化を簡潔にまとめると、次のようになる。

 ●「記述Aー事件1」(ミス・ディレクション)から「記述Aー事件2」(伏線)へ

2.ダブル・ミーニング

 これとよく似た、しかし微妙に異なる描写がある。それは、ポアロとの対話で出てくる、サイモン・ドイルの次の言葉である。

「男は所有されるって感じるのが嫌なんだ。肉体的にも精神的にもね。男を所有するという態度!(…)これには僕は我慢できないんです。」(116頁)

 「男を所有するという態度」の持ち主、それはドイルのかつての婚約者ジャクリーン・ド・ベルフォールであろうと、読者はここを読みながら推測する。だが、最後のポアロの推理で、この態度の持ち主がドイルの妻リネットを実は指していたのだ、ということが判明する*3。これは、指示対象が別のものに代わることで意味も変化する、というタイプのダブル・ミーニングであると言える。こうしたダブル・ミーニングもまたミス・ディレクションであり(ある人物を指していると誤導する)、かつ伏線の機能も果たす記号だ*4。ここでも解明前後の変化を簡潔にまとめると、次のようになる。

 ●「記述B→人物1」から「記述B→人物2」へ

3.真理値が反転する記号

 最後に扱うのは、非常に大胆な記述である。サイモンをかつての婚約者ジャクリーンが撃つ、という本作でもっとも緊張感の高まる場面、トリガーを引く前の彼女の言葉を見よう。

「あんたはあたしの男よ! 聞えた? あんたはあたしのものよ……」(203頁)*5

 これは、直前のジャクリーンの脅しと合わせて読むことで、彼女の単なる「思い込み」であろうと読者は判断する。サイモンはリネットを愛している、読者はこの場面にいたるまでそのように誤導されている。つまり、このジャクリーンの発言は「偽」なのだ、そう思う。しかし最後に明かされるのは、この発言が本当のこと、つまり「真」だということである。サイモンは実はずっとジャクリーンと愛し合っていたのである。

 これは、これまで見てきた記号とはまったく異なるタイプの記号である。これまで扱ってきたのは、解明の前後で、関連する事件が変化したり、指示対象が変化したりするといったタイプの記述であった。だがこの記述においては、指示対象や関連する事件に変化は一切ない。「あんた」が指す人物(サイモン)も、「あたし」が指す人物(ジャクリーン)もそのままだし、この発言がリネット殺しという事件に関わっているというのもそのままである。

 勿論、意味に変化は生じているとも考えられるが*6、より重要なのは〈偽から真へ〉といった仕方で真理値が反転している点である。

 それにしてもこの記号は何なのだろうか。まずそれを「伏線」ということは難しい(最後の解明の場面を読んで、「ああ、気づかなかったけどこれは実は事件に関わる記号だったのだ」といったようなものではない)。「ミス・ディレクション」とは言えそうである。だがそれは、誤りであったことが分かるミス・ディレクション ー 例えば、実は女性が犯人であるのに「力の強い男が犯人だ」と述べる医者の証言など ー ではなく、「本当のことを述べている」ミス・ディレクションなのである(これが誤導として機能するのは、他の記号との関係性においてである)。このような記号を、正確で無いことは承知で「真偽反転記号」と仮に呼んでおきたい*7

 

 このように、複数の事件を並走させ、また多くの登場人物が登場する『ナイルに死す』には、非常に興味深い記述・記号が登場する。たった一つの事件を扱いつつも、多様な記号を乱舞させる『五匹の子豚』のような傑作がのちに生まれるのは、こうした記号の取り扱いが洗練されていった結果と考えられる。

 

[4/2追記]原書を参照し注5を加えた。

*1:この記事では一貫して、「読者」とは「内包された読者」のこととする。

*2:誤導の部分は、「ある描写が事件A, B, C, …のどれかと関係付けると見せかけておいて」とした方が正確かもしれない。

*3:先の引用の少し後に出てくる、「ええ、そーーそう、まあそうだったんです」という狼狽したドイルの発言も、クリスティーらしい繊細な伏線である。

*4:「ダブル・ミーニング」をどのように定義するか、というのは今後の課題だが、〈指示対象が代わることで意味が変化する〉というのは典型的なダブル・ミーニングだと思われる。定義次第では第1節で扱った記述もダブル・ミーニングになるだろう。

*5:"You're my man! Do you hear me? You belong to me...", in Agatha Christie, Death on the Nile [1937], London, HarperCollins, 2000, p. 159.

*6:ここはどのような意味についての理論を採用するかによるだろう。例えば、この発言が位置付けられる記述のネットワークが解明の前と後では変化するために、意味が変化するとも考えうる。

*7:こうした「本当のことを述べている」ミス・ディレクション=「真偽反転記号」をさらに突き詰めたような記号が、エラリー・クイーンの『災厄の町』(1942)にある。[以下、『災厄の町』の真相に触れる。]詳しくは以前のブログ記事を読んで欲しいのだが、それは、ノーラ・ハイトによって繰り返し発せられる「ジムは無実だ」という内容の一群の言葉である。これらの言葉は、『ナイルに死す』のジャクリーンの発言同様、最後になってようやく「真」であることが判明する。だが、これらは厳密にはミス・ディレクションとは言い難い。ノーラが自分が罪を逃れるために ー つまり誤導のために ー これらの言葉を用いているのか、それとも本当にジムを救いたいと思っているのか、実のところ決定不能だからだ。この決定不能な記号は、伏線やミス・ディレクションといった記号を区別する、探偵小説のみが辿り着きうるものであり、このジャンル固有の高い文学性をもった記号として評価しなければならないだろう。