アガサ・クリスティーの『満潮に乗って』(1948)を久々に読み返した。この作品は優れたトリックと叙述上の技巧を含んだ傑作であるが、同時に、ナラトロジーで言うところの「焦点化」に関して、探偵小説というジャンルにおける興味深い問題をも提起している。ここでは取り分けてその焦点化の問題を詳しく追求する。
第1節でまず叙述上の技巧を扱う。ミス・ディレクションを軸とした本作独自の記号を見た上で、「焦点化」の問題を立ち入って検討する。第2節でトリックおよび犯罪全体の構図を考察する。本作をクリスティーのある作品系列のうちに位置付けることが、この節の目標となる。
*参照するのは恩地三保子訳(ハヤカワ・ミステリ文庫、1978年)である。原書(Fontana, 1961)も必要に応じて参照した。
【以下、本作の真相と趣向に触れる。】
1.叙述について
1-1. ミス・ディレクションに関する新たな展開
この作品は最後に、デイヴィッド・ハンターと(ロザリーンを演じていた)アイリーン・コリガンが兄妹を装い、前者首謀のもとゴードンの遺産を横取りしていたこと、そして最終的に、デイヴィッドがコリガンを殺したことが明らかになる。「二人が共謀していた」ことを念頭に二人の会話部分を読み返すと、本作には興味深い「伏線」が随所にあることに気が付く。
例えば、コリガンが「ちがうわ、だって—」(89頁)と口籠るところ、また同じく彼女が「でも、あのお金は—本当にあたしのものだとは」(98頁)と述べるところも、〈ゴードンのお金は実は自分たちが受け継ぐものではない〉という真相への伏線となっている。こうした伏線は解明部のポアロの推理でも振り返られず、読者は読み返して気が付くことが求められている。
しかし本作のすぐれて独創的な記号はミス・ディレクションに関して現れる。マーチモント夫人が娘のリンに、ハンターとロザリーン、二人の関係について述べるところを読もう。
A. 「だいたい、本当の兄妹かどうか判りゃあしない」(42頁)
B. 〔Aのように述べた理由をリンに問われて〕「ロザリーンが、兄さんがいるとゴードンに言うとするわね、〔…〕それが兄さんかどうか、ゴードンに判るわけはないでしょうが」(104頁)
この二つは合わせて〈ゴードンはロザリーンの本当の兄ではないかもしれない〉という疑惑を構成する。この疑惑は、ゴードンが怪しい人物であるとする諸々の叙述(例えば66頁のリンの内的独白)によって強化される。
しかしこれは〈ゴードンはロザリーンの実の兄であるが、今のロザリーンは別人に入れ替わっている〉という真相から目を背けるミス・ディレクションなのである。他にも、リンがローリイの発言に裏を感じる描写(61頁)、第一の事件の犯人がロザリーンに似た女性であるという証言など、多くのミス・ディレクションがこの時期のクリスティーらしく仕掛けられている。
さて先の引用箇所に再び注目しよう。この箇所に関して、解明部でポアロはリンに向けて次のように指摘する。
あなたは、デイヴィッド・ハンターがロザリーンの兄ではないかもしれぬと言われた時、すでに真相のなかばを知られていたのです。それを逆に考えてごらんなさい。すべて辻褄があってきます。(342頁)
「逆に考え」る、つまり今のロザリーンこそゴードンの実の妹ではない、そう考えれば全ては解けるというわけだ。先の引用Bは確かにミス・ディレクションである。だが、その構図を逆にすれば事件の構造を示す手がかりに反転する。それは「ダブル・ミーニング」ではないが、ミス・ディレクションでありつつ反転した手がかりでもある、という重層的な記号となっている(そして引用Aは真相を告げる手がかりそのものである)。
筆者はこれまで、1940年代のクリスティー作品の叙述上の一特徴として、「ミス・ディレクションと手がかりの判別不可能性」を挙げてきた*1。多彩なミス・ディレクションの森の中に一つの手がかりを隠し、どれが手がかりでどれが誤導か判別できない状況を作り出すこと、そこにこの時期の中心的な技法があると。だが『満潮に乗って』ではさらに進んで、「ミス・ディレクションの森」の中にある一つのミス・ディレクションそれ自体の中に、(反転した)手がかりが埋め込まれているのである。これは探偵小説の叙述に関する記号の中でもきわめて精妙なものの一つ、と高く評価することができるだろう。
1-2. 焦点化の問題
しかし他方で、この作品には叙述上の大きな問題が潜んでいるようにも思える。第一篇以降、ロザリーンと呼ばれている人物の正体は、実はコリガンである。とすると、地の文でこの人物を「ロザリーン」と書くためには、厳しい条件がつけられることになる。一人称の語り手による叙述であれば問題ではないが、この作品の語り手は「私」ではない。『満潮に乗って』では、物語外の語り手が多数の人物に視点を取りつつ、筋を運んでいく(そして視点を取られた人物は時に自分の心情を吐露する)。このように内面を表す焦点の取り方を、ジェラール・ジュネットは「内的焦点化」と、とりわけその焦点をとる人物が一人に限定されず多数に及ぶ場合、「内的不定焦点化」と呼んだ*2。本作はこの叙法をとった探偵小説の一事例と言うことができる。
「内的不定焦点化」が取られた探偵小説において、地の文と見える箇所で「ロザリーン」と書くことができるのは、それがまさに焦点化された人物による発言や内的独白である場合だけである(そうであれば、実際には彼女がコリガンであっても、その視点を取られた人物からの判断となるので、「ロザリーン」と書いてあっても問題はない)。ではこうした場合に、「ロザリーン」という語の登場は限定されているだろうか?
登場箇所の多くで問題はないように思えるが、最大の難関は、共謀しているコリガン=ロザリーンとデイヴィッドが会話をする箇所である。1-1セクションの最初に触れた部分を検討しよう。デイヴィッドに視点を取ったと読める次の箇所はどうだろうか。
朝食のテーブルごしに、デイヴィッド・ハンターはロザリーンをこばかにしたようにちらっと見やった。〔…〕
「せっかくのおれのたのしみをもっと味わわせてくれよ、ロザリーン」(77-78頁)*3
デイヴィッドは、コリガンにロザリーンを演じるよう頼んだ首謀者であるから、勿論入れ替わりを承知している。すると、最初の地の文で「ロザリーン」とある箇所は「コリガン」でないとおかしいように思える。
だが次に、コリガンに向けて「ロザリーン」と呼びかけていることから、このおかしさは幾分緩和されるかもしれない。デイヴィッドほどの火線をくぐり抜けている男であれば、入れ替わりがばれないように、二人で話しているときも「コリガン」ではなく「ロザリーン」と相手を呼ぶようにしているのだろう、とするのであれば、日常生活のあらゆる場面で彼はコリガンをロザリーンとして見るように意識しているのであろうから、「こばかにしている」のも「ロザリーン」なのだ、と考えているのかもしれない……。
やや無理の入った読みである(語り手は物語外にいるのだから、最初の文は「コリガン」とするほうが自然ではある)。しかしこの読みを仮に認めたとしても、ロザリーンを演じるコリガンを視点に取った箇所において、困難はより大きくなることが予想される。実際、以下の箇所は決定的な困難を構成する。
ロザリーンは、彼〔デイヴィッド〕が庭を横切り〔…〕歩み去るのを見まもっていた。〔…〕彼女は何度も、新しいミンクのコートの手ざわりをふれて楽しんでいた。こんなコートを自分がもつことになるなんてーまだ彼女には信じきれない夢のようなことなのだ。(82頁)*4
デイヴィッドは彼女から離れていくのだから、1文目はデイヴィッド視点からのものではなく、コリガン=ロザリーンに焦点をとったものである。続く文も同様だ。とするならば、最初の「ロザリーンは…」の文は、やはり「コリガン」あるいはせめて「彼女」と書かないとおかしいのではないだろうか。コリガン=ロザリーンはデイヴィッドと異なり、精神的にも弱い人物と設定されている。彼女が自分のことを常に「ロザリーン」と意識しているのだ、と考えるのは無理がある。とすると、この箇所を「ロザリーン」と書くのはアンフェアではないだろうか?
1-3. 一つの解決
この箇所をアンフェアであり、クリスティーのミスである、と見切ってしまうことは容易い。だがクリスティーほどの書き手に対し、ぎりぎりまで整合的な読みを追求することこそ、やはり「フェア」な態度ではないか。
実際、その態度で本作を改めて最後まで読んでいくと、きわめて細いとはいえ、この箇所をフェアに読みうる可能性の線が、微かに浮かび上がってくるのである。最終盤のポアロの発言を読もう。
「そこへ輪をかけるように、娘〔コリガン〕は娘で崩壊寸前の状態になっていた。良心の呵責にせめたてられ、すでに神経障害を起しかけていた。」(344頁)
コリガン=ロザリーンが不安定であること、そしてその不安定が次第に昂進していく様は作中で描かれている。とするなら、この神経障害から「コリガンにもう一つの人格が発生した可能性」を想定してみれば、先の箇所はフェアに読めないだろうか。要するに、先の二つの文、
- ロザリーンは、彼が庭を横切り〔…〕歩み去るのを見まもっていた。
- まだ彼女には信じきれない夢のようなことなのだ。
はいずれも、コリガンに生じた別人格の視点から主人格を「ロザリーン/彼女」と呼んだものである—そう解釈すれば、フェアに読むことがひとまずは可能である。要するに、コリガン=ロザリーンに焦点が合わされていると思われている箇所は、実はすべて彼女の別人格に焦点が合わされている、と考えるのである。
勿論、彼女が解離性同一性障害(二重人格)であることを明確に示す箇所は存在しない。それゆえ、上記の読みはこれ以上正当化されえず、「自然な読み」とも言い難いことは承知である。それでも、ある記述を単純に作者のミスと決めつけるよりも、こうした読みの存在を示すこと、そこに探偵小説における「内的不定焦点化」の豊かな展開可能性が示唆されると思えるのである。
2.トリックについて
2-1. 入れ替わりトリックと犯罪の構図
この作品では「デイヴィッドとコリガンという男女のカップル」がまずゴードンの遺産を横取りしようとし、そこから二つの事件(イノック・アーデンの過失致死事件とポーター少佐の自殺)を経て、最終的にデイヴィッドがコリガンを殺す第三の事件で幕を下ろす。この作品では、三組の〈人物の入れ替わり〉が用いられている。すなわち
- コリガンがロザリーンを演じること。
- イノック・アーデン事件のときのアリバイを確保するために、デイヴィッドが女性に変装し、その女性がコリガン=ロザリーンと間違われること。
- 写真のチェストナット・トレントンとアーデンがよく似ていること。
これらを今、外見の何らかの相似性という点で「イコン的類似性」と呼ぶことにしよう。デイヴィッドとコリガンのカップルを中心にして、事件の構図を示してみる。
さて、「男女のカップル」を犯人とし、「イコン的類似性を用いたアリバイ工作」をトリックとしてもつ作品の系列がクリスティーには存在する。この系列を描き出すことにしよう。それら諸作品の真相に触れて構わない方のみ、次のセクションに進んでいただきたい。
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2-2. トリックと構図の系列
その系列とは、『ナイルに死す』、『愛国殺人』、『白昼の悪魔』、そして『書斎の死体』である。詳細は『白昼の悪魔』の記事と『愛国殺人』の記事を参照していただくとして、『満潮に乗って』に至る系列を描き出してみよう。
- 『ナイルに死す』:入れ替わりはない、アリバイ工作あり
- 『愛国殺人』:共犯者2人それぞれが被害者と入れ替わる、アリバイ工作なし
- 『白昼の悪魔』:被害者1人と犯人1人が入れ替わる、アリバイ工作あり
- 『書斎の死体』:被害者2人が入れ替わる、アリバイ工作あり
- 『満潮に乗って』(本作):共犯者1人が入れ替わりの主体であり、また別の入れ替わりの客体である、アリバイ工作あり
「男女カップル」を犯人とするこの系列では、アリバイ工作のある『ナイルに死す』と入れ替わり(=イコン的類似性)のある『愛国殺人』の両作が、入れ替わりによるアリバイ工作を用いた『白昼の悪魔』に流れ込み、その後『書斎の死体』を経て、『満潮に乗って』に至りついたことになる。本作の特徴は、コリガンが入れ替わりの主体(ロザリーンに対して)と同時に客体(変装したデイヴィッドに対して)になり、それゆえ従犯と同時に被害者にもなるという、役柄の二重の反転を果たすところにある。入れ替わり=イコン的類似性を男女カップルの間に持ち込むことで、犯罪の構図を単純にしながらも、二重の反転が鮮やかな効果を挙げる。素晴らしい達成と言う他ない。
最後に、本作を冒頭で「傑作」と評した理由を述べておこう。筆者は本作を長らく「秀作」とみなしていた。傑作から一枚落ちる理由はひとえに、記事中盤で考察したアンフェアとも取れる叙述のゆえである。だが、優れたミス・ディレクションの創意と、犯罪の構図の見事さ、そしてアンフェアと思えた記述が実は「内的焦点化」に関する豊かな探偵小説的考察の場を開いていたこと、これら三点から本作を「傑作」と評価し直すことにした。
『満潮に乗って』はアガサ・クリスティー全盛期の創造的な傑作である。
[2/29追記]原書を参照して、文章に少し手を入れた。内容に変更はない。
*1:例えば『杉の柩』についての記事を参照。
*2:ジェラール・ジュネット『物語のディスクール:方法論の試み』[1972]、花輪光・和泉涼訳、水声社、1985年、222-227頁。橋本陽介『ナラトロジー入門:プロップからジュネットまでの物語論』、水声社、2014年、第五章も参照した。
*3:原文は以下。
Across the breakfast table, David Hunter gave Rosaleen a quick surprised glance. ... "Don't grudge me my fun, Rosaleen." (Agatha Christie, Taken at the Flood, Fontana, 1961, p. 43-44.)
*4:訳文を以下の原文に沿って修正した。
Rosaleen watched him stroll away across the garden ... She always enjoyed touching and feeling her new mint coat. To think she should own a coat like that – she could never quite get over the wonder of it. (Ibid., p. 46.)