Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

後期のテーマはいかにして導入されたか?:エラリー・クイーン『エラリー・クイーンの冒険』

 今回はエラリー・クイーンの記念すべき第一短編集、『エラリー・クイーンの冒険』(1934)を論じる。本作は海外探偵小説史上、屈指の名短編集であり*1、まずは同時期の〈国名シリーズ〉との関連で扱うのが通例であろう。だがここでは異なったアプローチを採る。本記事では、「いかれたお茶会の冒険」を中心に取り上げ、〈ドルリー・レーン四部作〉および後期作品とのネットワークの中で、この短編を位置付けることを目標としたい。

 この目標設定に応じて、本作だけでなく、途中から他作品の推理や真相にも触れることになる。具体的には以下の作品に言及する。

  • ドルリー・レーン四部作:『Yの悲劇』、『レーン最後の事件』
  • 後期作品:『十日間の不思議』、『悪の起源』、『最後の一撃』

 『冒険』の参照テクストは中村有希訳(創元推理文庫、2018年)である。必要に応じて、原書(Penzler Publishers, 2003)を参照する。

 

【以下、収録短編の推理と真相に触れる。】

 

1.特筆すべき収録短編について

 「いかれたお茶会」に入る前に、私の研究枠組みから見て注目すべきと思われる二つの短編について、簡単に述べておこう。

1.1 「アフリカ旅商人の冒険」(1933執筆?)

 短編集の劈頭を飾る傑作。本作のポイントは、ネガティブ・クルーを起点として、それと対照的な命題を導く推理のダイナミズムにある。探偵エラリーは、被害者の持ち物のなかで「黒の蝶ネクタイ」が不在であることにまずは注目する*2。この記述されない「不在」こそネガティブ・クルーである。そして彼はここから、この蝶ネクタイを盗んだ人物こそ犯人であり、「灰色」の蝶ネクタイをしているその他スタッフ全員と異なり、「黒」を付けている人物=支配人のウィリアムズこそ犯人である、と推理するのである。

 ここでのネガティブ・クルーは〈多の外にある不在な一つのもの〉(多数の着衣が記述される中、記述されないもの)という形をとる。対して、最後の推理のステップで導かれるのはむしろ、〈多の中で例外である一つのもの〉(多数の人物の中で例外である一人の人物)なのである。ここには〈多の外の不在から多の中の一へ〉という興味深い反転が見られる。

 また本作は、教え子たちが披露する誤った推理を三つ挟み込んでおり、それに応じて「誤った推理のための伏線」や「誤った推理のための手がかり」といった興味深い記号も多数散りばめられている。充実の一編。

1.2 「一ペニー黒切手の冒険」(1933.4)

 雑誌に掲載された最初の短編である。この作品のポイントの一つは、犯人ウルム兄弟のうち、主犯の兄アルベルトの変装にある。彼はプランクと名乗って、ベニンソン宅に従者として入り込んでいた。そして、弟のフリードリッヒが「切手の特別展示会」と銘打った偽装イベントに、今度はベニンソンを騙って入り込むのである。

 つまりここには、アルベルト=プランクの二重性(ベニンソンを騙ったことも含めれば三重性)があることになる。本作の妙味は、ここにもう一つの二重性が重ね合わされることにある。それが、盗まれたと思われていた一ペニー黒切手の隠し場所である。それは、もう一枚の同じ一ペニー黒切手に貼り合わされていた。この隠し場所は「目につきやすいところに隠す」という、ポオの「盗まれた手紙」の作法にエラリーによって擬えられているが、この隠し方がうまく機能しているのは、アルベルト=プランクという人物の二重性に読者の目がいくためでもある(この二重性はそれゆえミス・ディレクションとは言えないまでも、興味深い記号である)。人物の二重性に切手二枚の二重性が重ね合わされる、つまり〈二重性の二重性〉とでも言うべき真相を導く推理にこそ、本作の妙味はあると言うべきであろう。

2.「いかれたお茶会の冒険」と〈見立て〉の問題

2.1 「いかれたお茶会の冒険」(1934.10)について

 この短編の事件構造を確認しておこう。建築家のガードナーは、妻と不倫をしているオウェンと口論になり、殺してしまう。彼は死体を、オウェン宅を設計した際に作っておいた鏡の後ろの隠し戸棚に隠す。その後、彼はエラリーを含め関係者を薬で眠らせ、その隙に死体をどこかに隠し直す。ガードナーが犯人であることに気がついたエラリーは———この真相に辿り着くところの推理は優れたものだが割愛する——、この犯人を心理的に追い込むための策を練る。彼は、ヴェリー部長刑事に依頼し、色々な「贈り物」を家まで順番に届けさせるのだ。その真意は、贈り物の順番が「靴だの、船だの、封蝋だの、それからキャベツだの、王様だの」という『鏡の国のアリス(鏡を通り抜けて)』に出てくる詩を意味すると、ガードナーに気がつかせ、彼を心理的に追い込む点にあった。贈り物の意味を示してみせたエラリーが鏡を開くと、隠し扉にはオウェンに変装した役者がおり、本来いるはずのないところにオウェンがいると思い、恐れ慄いたガードナーは自白するに至るのである。

2.2 〈ドルリー・レーン四部作〉との関係

【以下、はじめに挙げたクイーンの他の諸作品にも言及する。】

 この短編でエラリーが犯人を追い込むべくとる策に関して、飯城勇三氏は「ドルリー・レーン的な行動をとる」*3ものだと指摘している。この指摘は勿論、しばしば「犯人を罰する」レーンの行動を踏まえている。

 レーンは『Yの悲劇』(1932)で、犯人である少年ジャッキーにおそらくは自ら手を下す。『Y』ではこの、「審判者としてのレーン」について明確に記述されている訳ではないが、レーン四部作の最終作『レーン最期の事件』(1933)でこの点はあからさまになる。ペイシェンスがこの作品の最後に指摘するのは、レーンが自ら犯人を殺害した、ということであった*4

 「いかれたお茶会」のエラリーもまた、犯人を心理的に追い込む策謀を自らめぐらし、積極的に行動していく。ただし、レーンとの違いもある。これは「犯人を殺すか殺さないか」といったことではない。レーン四部作においては、「探偵が犯人を罰する/殺す」であった。つまり探偵が犯人に直接行動で働きかける。しかしこの短編ではそうではない。エラリーの発言を聞こう。

単に、あの隠し戸棚を開けて、オウェンの死体があったぞ、と言ったり〔…〕するくらいじゃ足りなかった。先に、ガードナーの精神状態の下ごしらえをしておかなければならなかったんです。まずは、〔贈り物が次々と届けられるという〕謎でまごつかせてから、やがてあの贈り物が暗示している方向の先に何があるのか、本人に気づかせなければならなかった(I had to [...] get him to realize after a while where the gifts with their implication were leading)……。(488頁/p.316)

 注目すべきは「本人に気づかせなければならなかった」という点である。「気づかせる」、すなわち犯人ガードナーに、贈り物が届けられることの意味を〈読ませる〉ことが重要なのである。贈り物が「何に見立てられているか」を犯人に読ませ、それに気づかせることで、彼を追い込んでいくこと——そこにエラリーの策の核心がある。つまりここでポイントなのは、「探偵が犯人に見立てを読ませる」ことなのである。

 探偵が犯人に対し力を行使するという共通点があるとはいえ、レーン四部作と「いかれたお茶会」の間で、「殺す」という行為から「読ませる」という読解へという変化が起きていることになる。簡単にまとめておこう。

  • 「探偵が犯人を殺す」→「探偵が犯人に見立てを読ませる」
2.3 後期作品との関係

 『災厄の町』(1942)以降のいわゆる「第III期クイーン」においては、「見立て」と「操り」が内的に連関しあった作品が複数存在する。代表的なものとして『十日間の不思議』(1948)を取り上げよう。この作品では犯人は探偵エラリーを操るのだが、その際、「探偵の推理を事件に利用する」ことを考える。ある人物を犯人であるという誤った推理をエラリーにさせ、その人物を自殺に追い込む訳である。そしてその際に重要な役割を演じるものこそ、「見立て」である。事件に登場する様々な要素を、エラリーは「十戒」の見立てと読むのだが、それこそ犯人が意図したことであった。

 「いかれたお茶会」同様、複数のものが順に送りつけられてくる作品として、『悪の起源』(1951)と『最後の一撃』(1958)がある。前者では、砒素の入ったマグロ、死んだカエル、ワニ皮の財布といった贈り物の系列が「進化の段階」に対応していると、後者では、雄羊、家、駱駝、…といった系列が「フェニキア語のアルファベット」に対応していると、それぞれ推理がおこなわれる。そしてどちらにおいても、犯人はエラリーにこのように見立てを読ませることを、計画の一部に含めていたのである。

 かくしてこれら後期作品群は、「犯人が探偵に見立てを読ませる」ことに特徴がある。「いかれたお茶会」からの変化をまとめておこう*5

  • 「探偵が犯人に見立てを読ませる」→「犯人が探偵に見立てを読ませる」

 この主体と客体の逆転には、単なる逆転に留まらない探偵小説上の意義がある。『十日間の不思議』に顕著であるが、犯人は探偵の「推理」を「事件」の一部に組み込むのである。周知の通り、これは「後期クイーン的問題」の論点の一つである。本来「事件を読むべき行為」である推理を、「事件の一部に組み込む」という、この文学ジャンルにおける根本的な構造変動がここには孕まれているのである。

終わりに

 改めて、クイーンの二十年以上にわたる思考の展開を示しておこう。

  • 「探偵が犯人を殺す」(レーン四部作)
    →「探偵が犯人に見立てを読ませる」(「いかれたお茶会の冒険」)
    →「犯人が探偵に見立てを読ませる」(後期作品群)

 最初の二つは「探偵による犯人への積極的な働きかけ(力の行使)」という共通点をもつ。そして最期の段階で、「読解」させる主体とさせられる客体が逆転する訳だが、ここには探偵小説の構造そのものを変動させるような契機が含まれていた。まとめてしまうと簡単ではあるが、ここには探偵小説というジャンルを追い詰めてきたエラリー・クイーンという作家の思考的膂力が間違いなく刻まれている。

  このように見てくると、探偵と犯人、それぞれが「いかに相手に読ませるか」を競う点に、この作家の本質的特徴の一つがあるのだと気がつかされる。その現れの一つが、本短編集の有名短編「ガラスの丸天井付き時計の冒険」における「ダイイング・メッセージの偽装」を典型とした、諸々の「偽装」の問題系ということになるだろう。

 「いかれたお茶会の冒険」を含む短編集『エラリー・クイーンの冒険』は、探偵エラリーの冒険であるだけでなく、また作家クイーンの冒険の、その屈曲点を示す作品でもあるのである。

*1:私見によれば、これに匹敵する海外(本格)探偵小説の短編集は、ポオを除けばチェスタトン 『ブラウン神父の無心』、及びブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』であろうか。

*2:「夜会服一式がきちんと並べられていた。タキシード、ズボン、ベスト、〔…〕シャツ、飾りボダンにカフスボタン、〔…〕カラー〔…〕」(32頁)。この夜会服一式の中に「蝶ネクタイ」は記述されていない。

*3:飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』、星海社、2021年、73頁。

*4:この註では『ギリシャ棺の謎』の構造にも言及するため、以下反転する。よく知られているように、『ギリシャ』ではじめて「操り」のテーマがクイーン作品に導入される。それは「探偵の読解が事件の重要な段階を構成する」というものである。対して同年に書かれた『Y』では、「探偵の行為が事件の最後の段階を構成する」のである。この意味で、両作が接近して書かれたことには必然性がある。

*5:犯人が探偵の読解を「操る」ためには、見立ては必ずしも必要ではない(『ギリシャ棺』がそうであるように)。後期クイーンにおいて見立てが操りと連関して用いられることには様々な理由が挙げられようが、〈発生〉の観点からは、「いかれたお茶会」における「探偵が犯人に見立てを読ませる」という契機の導入が重要であることが分かる。探偵が犯人に何かを読ませ、心理的に追い込もうとするのであれば、それははっきりと目に見えて、犯人に不安を与えるものでなければならない。それが『鏡の国のアリス』に見立てられた一連の贈り物、ということになる。このようなかたちでクイーン作品に「見立て」が導入されたからこそ、反転した形で犯人の策謀として後期では展開されたのである。