Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

ゼロ度の探偵小説へ:アガサ・クリスティー『ゼロ時間へ』

 今回取り上げるのは、アガサ・クリスティーの『ゼロ時間へ』(1944)である。この作家の最高傑作の一つである。この作品を、日本の探偵小説界で長らく議論されてきた「後期クイーン的問題」を念頭において読み直してみると、実にラディカルな探偵小説であることが明らかとなる。『ゼロ時間へ』は、クリスティーが「後期クイーン的問題」に取り組んだ作品として評価できるのである*1。この記事では、その取り組みの過激さに少しでも漸近することを試みたい。

 丸括弧内の算用数字は三川基好訳(ハヤカワ文庫、2004年)の頁付けである。

 

【以下、本作の核心に触れる。】

 

 本作における「後期クイーン的問題」——本記事では「探偵と神の問題」を脇に置き、手がかりの偽装の決定不可能性の問題と真相の決定不可能性の問題に限定しよう——へのアプローチには、この作家の固有性が刻み込まれている。以下、1.作品最後で提示される「真相」をまずは提示した上で、本作における「手がかりの決定不可能性問題」に言及する。そして2.「後期クイーン的問題」を評者なりに再定式化し、3.『ゼロ時間へ』における「決定不可能性の問題」を立ち入って検討することにしたい。

1.真相/手がかり/偽証

1-1. 真相へ至る三つの段階 

 この作品は、最後に提示される真相が明かされるまでに、「手がかりの偽装」をめぐって二つの段階を経由する。すなわち

①:ゴルフクラブを使ってレディ・トレシリアンを殺したのはネヴィルである。

②:ネヴィルを犯人として見せかけるよう、ゴルフクラブの手がかりを偽装したのは、彼の最初の妻オードリーである。彼女は鉄球とラケットで殺害をおこなった。

 だが②の偽装はネヴィル自身が企んだものだった。最後に提示される真相はしたがって以下である。

③:②のようにオードリーを犯人に見せかけると共に、ゴルフクラブを実際に使ってネヴィルはレディ・トレシリアンを殺した。

*実のところ、凶器がゴルフクラブであったのか、鉄球+ラケットであったのかは判然としない(366)。ここではゴルフクラブとして話を進めるが、「鉄球+ラケット」の場合でも、その「偽装の決定不可能性」に関して同様な議論が可能と思われる。

 ここにあるのは、①→②→③という(ときに「後期クイーン的問題」で言及されるような)高階化のプロセスではない。むしろ、①「凶器がゴルフクラブであること」と、②「犯人がオードリーであること」という対立し合う二要素を保存しつつ総合して、③「ゴルフクラブを凶器として用いつつ、『オードリーが手がかりを偽装しようとした犯人である』と偽装する」真相が明かされる。ここにあるのは、対立項を保存しつつ上昇する「弁証法的過程ではないか。高階化というよりも、①+②→③という真相の弁証法が重要なように(ひとまずは)思える。

1-2. ゴルフクラブの手がかりと偽証の問題

 ここに、「(ゴルフクラブという)手がかりの偽装(の偽装)」が問題となっていることは明らかだろう。興味深いのは、②の偽装においても、③の「偽装の偽装」においても、登場人物の「偽証」が鍵となっていることだ。

 ③から見てみよう。バトル警視は推理で③までは導けても、この③を裏書きする証拠はないことに気が付く(警察の捜査では②で止まってしまう)。そこで彼が利用するものこそ、マクワーターの偽証である*2。マクワーターの「事件当夜、ロープを伝って侵入しようとしている男を見た」という偽証を用い、バトルは②ではなく、③こそが事件の真相なのだと論証しようとする。〈手がかりが偽装されたものかそうでないか〉の問題を最後の段階にもたらすためには、〈偽なるもの〉が必要なの

 ②の段階においても偽証が重要な役割を演じる。今度はオードリーの偽証だ。自分が犯人であると認めてしまう彼女の「偽の告白」によって、この②の段階は裏打ちされる。

 要するに、オードリーの偽証で止まってしまった手がかりの読み②(手がかりは偽装である)を、別の偽証によって読み③(手がかりは犯人が実際に殺害に用いたものである)へもたらすこと—この点に、「手がかりの偽装」をめぐる本作の核心はあることになる(ゴルフクラブの手がかりは偽装でありかつ実際のものである、という興味深い二重性がここに現れることになろう)。偽証=嘘を介してのみ、偽装が暴かれる。手がかりが偽装かどうかの問題を解決することができるのは、偽証=嘘のみである。

2.インタールード:「後期クイーン的問題」について

 議論を進める前に、「後期クイーン的問題」に関する私見を簡単に述べておこう(この節は飛ばして次の節に進んでも構わない)。1990年代半ばより議論されてきたこの問題に対し、新しい視角をここでは提示することはできないにせよ、少々の概念的整理をすることはできるように思われる。

 後期クイーン的問題は先に触れたように、A. 手がかりの偽装の決定不可能性の問題と、B. 真相の決定不可能性の問題という二つの層から基本的にはなる。まずは前者について、次のように定式化してみよう。

  • A. 探偵小説作品において、手がかりが偽装されたものかそうでないかは、原理的に確定することができない。

 今しがた「偽装された」「手がかり」と述べたところは、しばしば「偽の手がかり」というフレーズで呼ばれてきた(クイーンもクリスティーもこの語を使っている)。しかし手がかりというのは、行動であれ、物体であれ、探偵などの読み手がそこから「読んだ記号」である。つまり「手がかり」それ自体が「真」や「偽」であるというよりも、その「読み方」が真か偽か(正しいか否か)が問題となっている。「手がかりが偽装である」という読みの真偽が問題となっている、ということだ。「真」や「偽」の語はこの水準で扱ったほうが適切なように思われる。

 Aはしたがって次のことを伴っている。

  • A'. 探偵小説作品において、「手がかりが偽装されている」という読みが真であるか偽であるかは、原理的に確定することができない。

 AとA'は切り離せるものではない。後者は、探偵の「推理・読解」の水準での定式化であり、前者はその推理が指し示す「事件内容」の水準での定式化、ということになる。

 同様のことがBにも言える。順序を入れ替えて「推理・読解」の水準から見よう。

  • B'. 手がかりが偽装であるという読みの真偽が不確定である以上、そうした読みから導かれる推理もまた、原理的にその真偽を確定することができない。

 このことは「事件内容」の水準では次のようになる。

  • B. 推理が不確定である以上、その推理が指し示す真相=事件内容もまた、原理的に確定することができない。

3.「後期クイーン的問題」としての『ゼロ時間へ』

 それゆえ、「後期クイーン的問題」との関係で『ゼロ時間へ』で問うべきは、「ゴルフクラブという手がかり」が偽装されたものかどうか、そしてまた偽装であるという読みが真か偽か、という点にある。そして本作の「後期クイーン的問題」としての最大のポイント、それは〈②と③の決定不可能性〉にあるように思える。もし②(手がかりは偽装である)と③(手がかりは犯人が実際に殺害で用いたものでもある)が決定不可能であるとしたら、①+②→③という弁証法的なプロセスは存在しないことになる。この決定不可能性は成り立つだろうか? それを見るために「オードリー犯人説」を改めて検討しなければならない。

3-1. オードリー犯人説について

 オードリーが犯人である場合、困難の一つを形成するのは、作中ではネヴィル犯人説を示していた手がかり=「納戸にあった湿ったロープ」(324)の存在である。これを突破するには二つの説がありうる。

(a)オードリーが、ネヴィルを犯人と偽装するために垂らしておいた。

(b)ネヴィルが実際に使った。つまり、彼が来た時にはオードリーによる犯行が既に行われた後だった。

 どちらが説得的な説だろうか? ベルによる偽装は彼によるものだと考えるのが合理的である(365)以上、彼もまた事件を起こそうとしていた、と考えるのが自然である。つまり(b)が自然な解釈ということになる。この解釈の難点の一つは、「オードリーもネヴィルも同時にレディ・トレシリアンを殺そうとした、というのはあまりに偶然が過ぎるのではないか」という点にあるだろう。だが、ネヴィルがトレシリアンとした喧嘩が、彼にとっては(自分に一度嫌疑をかけ、その後疑惑を晴らして容疑から抜け出るための)必須の契機であり、オードリーにとっては彼に嫌疑をかける契機でもあった、と考えれば、この難点は多少緩和されるかもしれない。

 (b)をとるメリットもある。それは、マクワーターが見つけた「魚の匂いがついたスーツ」も、やはりネヴィル自身が置いたものということで問題なくなるというところにある(メイドに薬をもったのもネヴィルであろう)。そして把手、鉄球、手袋という「偽装された手がかり」と思われたものは、実際に彼女が殺害に用いた、事件を指し示す手がかりへと反転することになる。

 ではオードリーがトレシリアンを殺そうとした動機は、またネヴィルがオードリーを庇おうとした動機は何だろうか。この二重の動機が最大の難所を形成するように思える。ネヴィルとオードリーの離婚のきっかけは、オードリーが別の男性に走ったことだった。ネヴィルが裏切ったわけではない。とするならば、遺産を早く相続したいということ、この点から彼女はトレシリアンを殺し、その罪をネヴィルを被せ、絞首刑にしようとした、ということになるだろう。ネヴィルがまだ自分に未練があることを彼女は悟っており、彼なら自分の代わりに罪を認めてくれると踏んだ、ということだろうか。そしてネヴィルもまさにその通りに彼女を庇って罪を引き受けたということだろうか——それは少々都合のよい殺害計画のように思えることは確かである。

*[トレーヴ殺しについて]オードリーはトレーヴも殺したのだろうか? トレーヴのいうかつて罪を犯した子供が、彼女であれば(その場合、彼女の「耳の傷痕」がその子供の体の特徴となる)、殺した動機はある。機会はどうだろうか。彼女はトレーヴとの会話のあと、一足先に休んでいる(152)。この時に、彼の滞在先のホテルに行き、エレベーターに「故障中」の札をつけることは可能だと思われる(他方、トレーヴを殺したのはネヴィルだ、という可能性もある)。

 まとめよう。(α)都合の良すぎる殺人計画をオードリーが練った、(β)ネヴィルがオードリーを庇って犯人になろうとするほどに彼女への愛が強かった、というのは少々考えがたい——これら2つの欠点がある以上、確かにネヴィル犯人説の方が相対的に優勢である、とは言える。とはいえ、オードリー犯人説は特定の証拠でもって排除されえない(何といっても、オードリー犯人説を否定するものは、マクワーターの偽証と、やはり虚偽かもしれないネヴィルの自白しかないのだから)。かくして、「②と③は決定不可能である」。本作はそれゆえ、見かけ上弁証法的なステップを経ているように見えても、それは「見かけだけ」のことだと言えるのである。

3-2. 最終節について:二人の「信頼できない証言者」

 マクワーターとオードリーの二人が偽証していることは、これら「偽証者同士の会話」がなされる(そして最後には二人の間で結婚の約束が取り交わされる)本作の最終節において、さらに劇的な効果を上げることになる。

 一方で、マクワーターが「信頼できない語り手」ならぬ「信頼できない証言者」である以上、彼の言う「ネヴィル・ストレンジがすっかり自供し〔…〕、すっかり健康を害していて、裁判が始まるまで命がもつかどうかわからない」(371)という言葉も、どこまで信頼してよいか分からない。彼はオードリーに惚れたために偽証をした。とするならば、最後の「もう逃げられないぞ」(375)という言葉も両義的に聞こえる——真剣な愛のことばというより、罠にかけた動物を話さない、という絡め取りがそこにはあっても不思議はないように思える。

 他方でオードリーも偽証をしている。しかし前のセクションで見た通り、それは偽証ではなく、やはり真の告白であって、彼女こそ真犯人なのではないか(マクワーターの話が「本当」なのだとしたら、オードリーのために罪を被ったネヴィルは心身の調子を崩しているように思える)。とするならば、彼女が最後の最後に「逃げたいなんて思わないわ」(375)と告げたことは、マクワーターの愛の言葉につけこみ、彼と共に遠方(チリ)に逃げることができるとほくそ笑んでいるのではないだろうか。だからこそ彼女はかくも結婚を焦っている(374)のではないか。

 かくして最終節は、多重的に決定不可能になる。偽証したオードリーは無実であって、マクワーターの真の愛に答えているのか。それとも無実のオードリーをものにしようと偽証したマクワーターに彼女はひっかかっているのか。または逆に、真犯人オードリーの方こそがマクワーターを利用して逃亡しようとしているのか。はたまた実はその両方であって、オードリーもマクワーターも嘘をついてお互いを騙しあっているのか——こうしたことがテクストの上では決定不可能になる。この最終節は、未来の明るさと不穏さとが同居する、クリスティーならではの多義性に満ちたテクストになっているのである。

終わりに

 最終節の決定不可能性は、確かに事件の真相にかかわるものではない。しかしマクワーターの偽証が、〈②と③の決定不可能性〉と最終節における決定不可能性、それら二つをつないでいる。探偵小説上の真相の決定不可能性が、愛と騙りの決定不可能性と接続されているのだ。

 かくして、『ゼロ時間へ』の原題 Towards Zero にも複数の意味があることが明らかになる。本作は、事件の始まり=「ゼロ時間」へ向かう探偵小説というだけではない。真相を推理で提示する探偵小説の結構を取りつつも、両義性と多義性を忍び込ませることで探偵小説が解体されるリミットへ、つまり「ゼロ度の探偵小説へ」向かう作品でもあるのである。

*1:勿論、「後期クイーン的問題」が提出されたのは1990年代半ばのことであるから、ここには一種のアナクロニスムがある。だが、こうした現在の視点から過去のテクストに意味を与え返すことは、当時の文脈を踏まえさえすれば生産的な読解をもたらしうる。

*2:「月明かりでみた」という彼の発言が偽証であることは、地の文で「雨が降っていた」(202)とあることから間違いない。