今回取り上げるのは、探偵小説史上の名作、島田荘司の『占星術殺人事件』(1981)である。島田がどれほど思想的な問題を抱えた存在に現在なっていようと、控えめに見積もって、彼が一九八〇年代以降もっとも重要な探偵小説作家の一人であることに疑いはあるまい*1。取り分けて『占星術』が探偵小説史上の大傑作である、ということに異論はほぼ出ないと思われる。ではなぜ大傑作と言えるのか? ここでは、(1)「ミス・ディレクションの系譜」の中に本作を置き入れることで、さらに(2)探偵小説における「謎」について再考することで、その理由に迫りたいと思う。
参照するのは講談社文庫の初版(1987)である。現在入手可能な同文庫の改訂完全版(2013)のページ数も必要に応じて併記する。また途中で幾つかの先行作に言及するが、核心部(第3節以降)はこれら先行作の知識なしに読めるようになっている。
【以下、本作の真相に触れる。】
- 1.前書き:伏線/手がかりの分化とミス・ディレクションについて
- 2.叙述としてのミス・ディレクション/トリックとしての誤導
- 3.消点としてのアゾート
- 4.謎の存在論
- 終わりに:フィクションそれ自体の問題へ
1.前書き:伏線/手がかりの分化とミス・ディレクションについて
※この歴史に関する節は飛ばしても、次節以降の理解に支障はない。
まずは時代を1920-30年代に遡ろう。以前書いた記事で私は、もしかしたら探偵小説における「伏線」と「手がかり」の差異は、二〇世紀初頭くらいまではまだ曖昧で、「程度の差異」くらいしかなかったのではないか、という仮説を立てた。すなわち、伏線と手がかりという二種類の記号は、例えばブラウン神父シリーズ以降、1920年代のフェアプレイ成立過程の中で、初めて違うものと意識化され、質的に区別された(そしてこの区別が遡行的に適用された)、という説である。
この仮説の検証には時を要するため、ここではこれ以上扱わない。ただ、先の記事でこの仮説と併せて提出した、「①叙述/語り、②トリック/事件内容、③推理/読解を仮に探偵小説の3つの層とするなら、各層個別の展開を研究するだけでなく、それら三つの絡み合いを見る必要がある」という説を取り上げ直すことにしたい。そして、叙述としてのミス・ディレクションと(主に犯人が)トリックとして仕掛ける誤導、という二つの相に特に注目する。これら二相が、伏線/手がかりの分化と同じように、ある時期に分化して登場したかどうかはまだ判然としない。だが、これら二つが探偵小説作品に見られることは、このジャンルのファンにとってはすぐ分かることであろう。
次節で、具体的な作品と共にこの点を見ていくことにする。
2.叙述としてのミス・ディレクション/トリックとしての誤導
2-1. 叙述としてのミス・ディレクション
ミス・ディレクションという叙述の中心となる特徴を、さしあたり「事件の何らかの要素を指し示す記号だと思われていたものが、解明部において記号でなかったことになるもの」と定義しておこう。こうした叙述の典型例を、ここではアガサ・クリスティーの作品から引くことにする。最盛期の傑作『杉の柩』(1940)には、この定義にかなったミス・ディレクションが複数登場する。
*詳細はこちらの記事を参照。以下ではこの作品の興趣に触れるため、反転して記す。
『杉の柩』には、様々な人物に疑いを向けるような記述が登場する。三つ挙げてみよう。
- 「人は本心から願っている時には、苦痛を逃れて楽にしてもらうべきだって気がする」(エリノア)
- 「あれから〔ローラ・ウエルマン夫人の〕病室に行ったんだ」(ロディー)
- 「〔メアリイが殺された際〕旦那〔ピーター・ロード〕の自動車はありましたが、他には誰の車も見えませんでしたぜ」(ホーリック)
エリノアやロードに疑いを向けるこうした記号は、解明部において事件と無関係なことが判明する。まさに先の意味でのミス・ディレクションと言えるだろう。
2-2. 偽の手がかり:トリックとしての誤導?
犯人が主に仕掛ける「トリックとしての誤導」については、まず分かりやすい例——しかし実のところ、十全には適切ではない例——を挙げよう。それはいわゆる「偽の手がかり」である。
※トリックの話をしているにもかかわらず、「手がかり」の語を出すことに疑問をもつ向きもあるかもしれないが、以下を読めばこの疑問は氷解する筈である。
「偽の手がかり」とは、真犯人が自身から疑いを逸らすために(そしてしばしば他の人に疑いを向けるために)置く、捜査陣を欺く手がかりのことである。
この記号が出てくるよく知られた作品として、エラリー・クイーンの『ギリシア棺の謎』(1932)が挙げられる。(以下、この作品の重要な点に触れるため段落最後まで反転する。)『ギリシア棺』においては、「ティーカップの水量の跡とパーコレーターの水量」が「偽の手がかり」に当たる。これは真犯人ペッパーが、探偵エラリーの推理癖を逆用し、死んだはずのハルキス老人を犯人として彼に指摘させるべく、仕込んだ手がかりなのである。
「偽の手がかり」は確かに捜査陣を、そして読者を誤った方向に導くものであり、ミス・ディレクションに相当する機能を分けもっている。しかしながら、それは叙述としてのミス・ディレクションと機能の上で完全に重なりはしない。叙述としてのミス・ディレクションの場合、解明部でそれが事件の要素を何ら指し示さないことが判明するのに対し、「偽の手がかり」においては、「誤導」であることが判明した途端、それは犯人が意図的に置いたことが分かり、それゆえいわば「真の」手がかりへと反転してしまうのである(この点は飯城勇三氏の的確な指摘による*2)。要するに、それは相変わらず「事件の何らかの要素を指し示すもの」に留まるのである。
この点で、「偽の手がかり」は確かに犯人の仕掛けた誤導ではあるが、叙述としてのミス・ディレクションとは異なった役割を果たす。実際、それは「手がかり」と言われているのだから、犯人が仕掛けたトリックであると同時に、探偵が(誤った仕方ではあれ)読む記号でもある(第1節で述べた三つの層に関連させて言えば、そこにはトリック/事件内容と推理/読解という二つの層が重なっている)*3。むしろ、叙述としてのミス・ディレクションとより正確に照応する「トリックとしての誤導」は、「偽の手がかり」とは少し違った記号のうちに見出せるように思えるのである。
2-3. トリックとしての誤導:鮎川哲也の作品から
「トリックとしての誤導」のより優れた事例、それを鮎川哲也の傑作『りら荘事件』(1958)の内に見出すことができる。以下、この作品に少々立ち入って論じるため、内容を知りたくない方は第3節まで飛ばしてほしい。
【以下、本項の最後まで『りら荘事件』の核心に触れる。】
論ずべきところの多い『りら荘』の中で、いま注目したいのは「炭焼きの死体」である。真犯人は、「事件のしるしでないもの(炭焼きの転落死体)を事件の列(昇順に置かれたトランプのカードと死体)の中に埋め込むことで、事件のしるしに見せかける」ことを狙っていた(詳細はこちらの記事を参照)。要するに、解明までは連続殺人事件に関係すると思われていた人物が、実は連続殺人事件と関係ない人物と判明する訳だ。ここに、2-1項で見た叙述としてのミス・ディレクションの、作品内での対応物が現れることになる。
ミス・ディレクションとは、「事件の何らかの要素を指し示す記号だと思われていたものが、解明部において記号でなかったことになるもの」であった。対してここでは、「連続殺人事件の何らかの要素と思われていたものが、解明部において連続殺人事件と無関係のもの」になるのである。〈ミス・ディレクションの登場人物化〉とでも言うべき事態が、ここにはある。解明後、事件とは無関係の事故死体に還元されるという点で、「炭焼きの死体」は「偽の手がかり」以上に、叙述としてのミス・ディレクションと相同的な事件内の要素なのである。
『占星術殺人事件』への前置きが長くなった。ここまでのポイントを2点に整理しておこう。
- ミス・ディレクションということで、「叙述としてのミス・ディレクション」と「トリックとしての誤導」という二つの相をここでは考えている。
- 後者の典型例は「偽の手がかり」ではなく、「ミス・ディレクションの登場人物化」を果たした鮎川作品の一人物である。
3.消点としてのアゾート
とはいえ、ここまで見てきた「叙述としてのミス・ディレクション」も「トリックとしての誤導」も、解明部において「記号でなかったことに」、あるいは「事件と無関係のものに」なるとはいえ、作品世界から消え去る訳ではない。この点はもう少し正確に言わねばならないだろう。
- 「叙述としてのミス・ディレクション」のところでは、クリスティー作品から幾つかの発言を引いた。その発言という出来事、ないし発言に対応する出来事は作品世界のうちで生じている。
- 「トリックとしての誤導」の典型例においても、先に取り上げた人物は作品世界のうちからいなくなっている訳ではない。
- それゆえ、これらの出来事や人物は、確かに事件の要素であることは止めたにせよ、作品世界のうちには存在したままである。
『占星術殺人事件』が決定的な一歩を踏み出すのは、まさにこの地点からである。重要なのは、アゾート——祝福された星座の身体部位をもつ六人の女性から、その部位を取り出して合成した完璧な美女——という幻想である。まずはこのアゾートが「トリックとしての誤導」に当たることを確認する。御手洗潔の発言を聞こう。
「この〔アゾートという〕理論というか、幻想というか、があまりに強烈で、猟奇的だったので〔…〕ごく簡単なことに思いいたらなかったわけです。」(395頁/改訂完全版439頁)
アゾートは「ごく簡単なことに思いいたらな」いようにすべく、真犯人が狙った誤導であった。そして御手洗の口から、アゾート幻想は文字通り幻想であって、アゾートは存在しないことが告げられる。この解明の与える効果を「遠近法」になぞらえる、語り手・石岡和己による以下の記述は重要である。
〔…〕ルネサンスの大家の筆が描いたようなアゾートという「騙し絵」、その微笑があまりに謎に充ちていたから、四十年人は惑わされ、道を誤った。
まるで皮肉なほどに機能的な「一点透視」という遠近法、アゾートはこの手法で描かれ、そして私の目が今無理矢理向けられてた場所は、その絵のすべての線が凝縮していく「消点」だった。
アゾートの消点。私はこの時、アゾートにまつわる数々の、偽りの風景が、目のくらむような勢いで遠ざかり、すうっと針先の点のようになって消えるのを見た。(397頁/改訂完全版440頁)
『占星術』におけるアゾートが「トリックとしての誤導」以上の効果=経験をもたらすことが、はっきりと記述された箇所である。アゾートは確かに「トリックとしての誤導」であるが、先行作のように、「作中内の要素」として残ることはない。一方で、アゾートにまつわる諸々の風景——作られたアゾートという幻想、事件に関する諸々の説の惹起するイメージ——を「偽り」として抹消させるのは、御手洗の指摘する「真相」であろう。だが他方で、その消えゆく諸々の風景が一つに収縮する先、それこそこうした風景を生み出したところの「アゾート」なのである。それは、諸々の偽りの風景が収斂する無限遠点として機能している。
むしろこう言うべきであろう。謎解きの最中に起きる「事件を指し示すものでなくなる」という、ミス・ディレクションの〈無化〉の瞬間それ自体を対象化して記述し、読者に経験させること、この点に『占星術殺人事件』の卓越した試みの一つがあったのだと。「トリックとしての誤導」をアゾートが止めるとき、それは諸々の風景の収斂する消点になる。「消えるのを見た」。通常、ミス・ディレクションがその当の記号機能を止める瞬間を「見る」ことなど、できない。しかしこの作品は、その記号に収斂していく風景や幻想が消える、という仕方で、一瞬だけではあれこの消失を幻視させることに成功している。
アゾートはそれゆえ、「トリックとしての誤導」でありながら、誤導を越えた役割を演じている。改めて考えれば、前節で挙げた「トリックとしての誤導」が、作品世界のうちで解明以前・以後も存在する(していた)ものであるのに対し、アゾートはそもそも解明以前にあってさえ、存在するかしないか不定のものである。とするなら、この「誤導を越えた役割」はこの「不定」性とも関わるだろう。ではそれは何か?
4.謎の存在論
この「誤導を越えた」部分、それこそ、探偵小説における「謎」という問題と関わる部分と思われる。そこでこの節ではまず、探偵小説における「謎」というそれ自体謎めいたものについて、一般的な議論を行う。その上で、『占星術』におけるアゾートが、この「謎」の問題と重ね書きされうるものであることを指摘したい。
4-1. 探偵小説における「謎」
探偵小説においては、しばしば「そこに謎がある」といった言い方がなされる。しかし「謎」とは、「ありえないもの」もしくは「理解しがたいもの」、つまりは何らかの仕方で「不可能なもの」だ。そうした「不可能なもの」が「ある=存在する」とは、正確に言ってどのような事態なのだろうか?
探偵小説というジャンルの特徴は、最終的に「謎が解かれる」点にある。謎が解かれる、つまりは謎は「なかったことになる」訳だ。ということは、解決前における「謎」とは、〈何らかの誤認(の集積)による錯誤〉といったものではないだろうか。この考えに立てば、謎とはほんとうにあるものではなく、認識論的な何らかの誤認、誤解に基づいて仮構されたにすぎないもの、ということになる。要するに、謎とは実のところ、いつだって「存在しない」のであって、その「不在性」が解明部で明らかにされるだけ、ということになる。「謎がある」とは、何らかの誤認・錯誤があると言っているに過ぎない*4。
- 誤認(の集積)による錯誤としての謎→錯誤の解消
だが、「謎が単なる誤認・誤解の産物であり、最終的には霧散してしまう」と考えるならば、それは探偵小説を読むという経験のリアリティを毀損することになるだろう*5。探偵小説の読者は、それが優れた作品であれば、その謎の魅力を繰り返し語る——その謎にあたかも憑かれたかのように(なぜ被害者はマンドリンで撲殺されたのか、どのようにして足跡のない雪面上で人が殺されたのか……)。謎が霧散してなくなってしまったのであれば、このような魅力をどう考えたらよいのだろうか(あるいは、「魅力」といった経験的な概念を用いた議論が疑わしいのだとしたら、こうした謎がさらなる探偵小説作品を生み出していくという、その能産性がどこにあるのか、と問うてもよい)。
以下では、こうした経験のリアリティ(や謎の能産性)に即応した哲学や存在論を探究していくことにする。
さて、探偵小説の読者が謎について繰り返し語る、と今しがた述べたときに、「優れた作品であれば」と但し書きをつけた。実際、どれほど最初に提出された謎が興味深いものであっても、その解決が腰砕けであれば、その謎に魅力は付されることはない。解決が際立ったものであるときに限って、謎は私たちに「憑く」のだ。とするならば、解決によって謎は消え失せてしまうのではなく、むしろ逆に、優れた解決によってこそ、謎は単なる誤認や誤解を越えた魅力を獲得する、というべきではないか。解決の卓越性が遡行的に謎のリアリティや魅力を付与する。謎の存在論を考えるときには、こうした探偵小説固有のダイナミスム、運動性の只中で思考しなければならない。図示しておこう。
では、こうして遡行的に獲得された謎のリアリティや魅力とは一体何だろうか?
4-2. アゾートという「謎」
この問題を考える際に、『占星術』におけるメインの謎、すなわちアゾートがヒントを提供してくれるかもしれない。実際、第3節最後に指摘したように、アゾートは解明前にあってさえ存在するかしないか不定のものだった。これは、「謎」が判然としない存在論的身分をもっている、という前項で述べた事態と照応しているようにも思える。
もう一度、第3節における抜き出し引用を読んでみよう。アゾートとは、そこに「偽りの風景」が「凝縮して」「針先の点のようになって消える」「消点」であった。遠近法における消点とは、その絵画作品のうちに存在しない「無限遠点」である(『占星術殺人事件』においても、アゾートは追えば遠ざかり決して捉えられない「逃げ水」(395頁)に喩えられていた)。
そこで今、「アゾートという謎」から大胆な一般化を行い、探偵小説における「謎」を次のように考えてみたい。
敷衍しよう。謎はまず諸々の誤った説や考え(偽りの風景)を生み出す。そして探偵が驚くべき真相を指摘するとき、それら誤った説は消え失せていく。だが、この誤った説が消え失せるその刹那、再びそれらの説を生み出した消点=焦点として謎が無限遠点として浮かび上がることになる。消失の収斂点である以上、それは無論、不在だ。にもかかわらず、真相の強度と相関的に謎が魅力を得ることになるのだとしたら、それは他ならぬこの消失の収斂点としてではないか。
*よりシンプルに、誤認や錯誤としての謎が真相を創り出したとき、その真相の強度に応じて謎が魅力を得る、といったほうが説得力があるかもしれない。謎の核心を〈真相を創り出した誤認・錯誤〉に置く訳だ。しかしここでは『占星術殺人事件』にインスパイアされた思考実験として、上記の考えを展開してみたい。
4-3. 欠ー存在論の試み
謎はそれゆえ作品世界にはない。作品世界の登場人物も、作品を読む読者も、それを対象としては表象的に捉えられない。無論のこと、謎は何らかの「理念的」存在でもない。
対象として表象的に捉えられない謎。それは後期ハイデガーの「存在の退隠」の思想を、あるいは思わせるかもしれない。だがハイデガーにおける存在があくまでも、それ自身は引き込もりつつ「存在させる」のと対照的に、ここで問題となっている「謎」とは、「消えゆく諸々の説の消失点」としてのみ考えられるものだ。それはやはり、ハイデガーが考えたものとは別の事態であるように思える。
私たちがいま直面しているのは奇妙な存在論だ。謎は通常の意味では存在しない。だが単なる不在ではない。謎とは消えゆく諸説の収斂点であり、その消失の収束の只中で、魅力とリアリティを獲得する何かなのだから*6。4-1項で、謎を〈不可能なもの〉と呼んだことを踏まえ、謎に関する現下の事態を、「〈不可能なもの〉の欠ー存在論(L'a-ontologie de « l'impossible »)」と呼ぼう*7。「存在論」についた接頭辞「欠(a)」は、一方で、謎の「不在性」を表す。だがその不在性にもかかわらず、謎を経験するリアリティがある以上、単に不在と言い切ることもまたできない。探偵小説の謎は存在論の圏域には属さないが、存在論なしに考えうる問題でもないということになる。「欠」とはそれゆえ他方で、この存在論との無縁性と不可欠性を、ハイフン(ー)を伴った距離感と共に表現するものでもある。
4-4. 三たび「アゾート」へ
前項の考察はいまだ荒いものだ。しかしそれを承知で改めて、アゾートに話を円環的に戻してみよう。すると、アゾートとはこうした「〈不可能なもの〉の欠ー存在論」としての謎という問題を、作品に内化し対象化しようと試みたもの、と言えるかもしれない。パラフレーズするならば、「謎を対象化することの不可能性」と「にもかかわらず謎のもたらす何らかの経験」、双方を作品内に対象化したもの、ということになるだろうか*8。
終わりに:フィクションそれ自体の問題へ
『占星術殺人事件』に対する考察は「謎」という探偵小説の中心的な謎へと私たちを導いてきた。最後に考えるべきは、こうした「不在の謎」が、他ならぬ探偵小説というフィクション、すなわち「虚構」の只中で問われている、ということの意味だ。御手洗潔も石岡和巳も、この世界に(残念ながら)存在しないし、これからも存在することはない。勿論、アゾート殺人など昭和11年に起きなかった。とするならば、こうした不在だらけの虚構世界の中で、さらに屋上屋を重ねるように「不在の謎」を問う、ということは真に意味のある問いなのであろうか?
この疑問に対し、まさしく屋上屋を重ねたようなこの問題こそ、文学に対する哲学的考察の一つの中心的なポイントなのだ、と私は答えたい。今、探偵小説という限定を外し、「文学」と書いた。大風呂敷を広げることを承知で言うならば、「〈不可能なもの〉の欠ー存在論」における〈不可能なもの〉とは、探偵小説のみならず、幻想小説、SF、ファンタジー、ホラーといったジャンルでも「幻視」されるように思えるからである。
大風呂敷を広げすぎたであろうか。だが、このような地点にまで読者の思考を連れ出してしまうこと、それこそ『占星術殺人事件』という作品が探偵小説史上類例のない喚起力を伴った真の傑作であるということの、紛れもない証しなのである。
*1:島田荘司という「問題」は、私(たち)が島田の影響を大きく受けている以上、むしろ今日、より大きくなっているとさえ言える。
*2:飯城勇三『エラリー・クイーン論』、論創社、2010年、248頁を参照。
*3:驚くべき必然性、と言うべきだろうか、クイーンの作品において「事件内容」と「読解」という二つの層が重なっているのに対し、クリスティーの作品においては「叙述(ミス・ディレクション)」と「読解(手がかり)」という二つの層が並置されている。先の『杉の柩』に関する記事を参照。
*4:現象学的に言えば、誤認の志向的対象としてのみ「謎」はある、ということになるだろう。
*5:本項これ以降の議論は、笠井潔『探偵小説論序説』、光文社、2002年、149-166頁にインスパイアされている。
*6:それゆえこう言ってしまっても良いかもしれない。謎を解明する探偵小説においても、解かれざる謎はなお〈残存する〉のだと。
*7:〈不可能なもの〉と、謎にあたかも「一つ」の「同じ」実体があるように書いたが、無論のこと、不在の〈不可能なもの〉に「一」も「同」もない。〈不可能なもの〉は一なる全体を免れる。
[7/6, 11追記]それゆえ「不可能なもの」のフランス語 « l'impossible »に定冠詞の単数形 « l' » を付けたのは、「同一性」を温存する点で不適切だったように思える。L'a-ontologie d(e)(s) « (l)(')(es) impossible(s) » などと書くべきだったかもしれない。なお「謎」を〈不可能なもの〉に一度変換したのは、ジョルジュ・バタイユの文学・思想と共振を考えているためでもある。
*8:本作のトリックも最後に分析しておこう。『占星術殺人事件』のメイントリックについて、かつて周囲の友人たちは「顔のない屍体」もののヴァリエーションである、と言っていた。それは無論のこと、探偵小説の歴史を踏まえた説得力のある考えである。だが歴史を踏まえるならば、そこにはもう一つの「ヴァリエーション」が含まれてもいる。それは「多の中に一を隠す」、あのチェスタトンのトリックの応用である。
犯人は6体の屍体を5体に見せかけようとした。そのことで犯人は6という「多」の中に、何かを隠そうとした。何を隠そうとしたのだろうか? それは最終的には、犯人自身であるように思える。とするなら、「多数の屍体の中に一つの生者を隠す」というかたちで、チェスタトンの発想が適用されたのだと言えるかもしれない。だが、それはつまらない見方のようにも思える(多数の屍体の中に生きた自分自身を隠すのであれば、戦場で身を潜めているくらいでも十分である)。むしろ、先に述べたように「6を5に見せかけたこと」、ここに本作のトリックの核心がやはりあるのではないか。チェスタトンのトリックには様々なヴァリエーションがある(例えば構図を逆転させ、「一によって多を隠す」ことを狙った作品もある)。その中でも『占星術』の独創性は、「6体によって5体を隠す」、すなわち「ある多の中に別の多を隠すこと」にある。ここには、6体と5体という多を、それぞれ別の「一かたまりのもの」と、すなわち別の「一」とみなすという高度な作業がある。
[7/10追記]あるいは「6を5に見せかけたこと」を〈裏〉から見るならば、次のようにも言えるかもしれない——6体のうちには欠落した一つの身体、つまり「不在の1」が隠されているのだと。とするならば、「ある多の中に別の多を隠すこと」は、「多の中に不在の一を隠すこと」とも言い換えられるだろう。これはチェスタトンの原トリック「多の中に(存在する)一を隠すこと」を部分的に反転したものとも言え、興味深い。
かくして『占星術殺人事件』のトリックは、本論の議論も踏まえれば、以下の四つのファクターの重ね書きによって成立したものと言うことができる。改めておそるべき作品である。
- 「顔のない屍体」のヴァリエーション
- 「多の中に一を隠す」を「ある多の中に別の多を隠す」(多の中に不在の一を隠すこと)に展開すること
- ミス・ディレクションにおける「無化」の経験の表現
- 探偵小説における「謎」という問題の対象化