Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

絡み合うミス・ディレクションの建築物:アガサ・クリスティー『ねじれた家』

 今回取り上げるのは、映画化もされたアガサ・クリスティーの『ねじれた家』(1949)である。本作はその「意外な真相」によりとりわけ知られているが、記述・叙述の面でも、この作家の美質が示されている。いやむしろ、ミス・ディレクションという叙述面に注目した場合、彼女の作品中でも指折りの複雑な絡み合いが本作には存在する。この記事では、本作にどのようなミス・ディレクションが存在し、また相互に関係し合っているか、という点にフォーカスして論じる。

 参照するのは田村隆一訳(ハヤカワ・ミステリ文庫、1984年)である。

*原書を参照して、訳文等を一部改変する可能性がある。

 

【以下、本作の真相と興趣に触れる。】

 

1.ミス・ディレクションの絡み合い

1-1. 誤導の焦点:ブレンダとローレンス

 『ねじれた家』において、もっとも疑惑が向けられるのは、被害者レオニデスの若き妻ブレンダと家庭教師ローレンスのペア(あるいはそのどちらか)である。密かに愛し合っているこの二人が共謀して(あるいはどちから単独で)事件を起こしたのではないか、とする発言は、タヴァナー警部によって(28, 140頁)、ロジャーによって(75)、女中によって(91)、そしてクレメンシイによって(170)繰り返しなされる。

 しかし同時に興味深いのは、「二人が犯人ではないか」とする誤導が、ときに打ち消されたり、あるいは中立的な発言によって緩和されたりすることである。語り手チャールズの恋人ソフィアは、二人が犯人であるということに否定的だし(38)、フィリップ、マグダ、前半のクレメンシイは中立的な立場を取る(63, 69, 74)。この傾向は、第二の事件が発生する手前で、チャールズが次のように考えるところでピークを迎える(そして、第二の事件の後で逮捕された二人は、第三の事件を犯すことが不可能であると判明する)。

もしかすると、家中のものが、ブレンダとローレンスが犯人であってほしいと望みながらも、心の底では本当はそうではないらしいと思っているのかもしれないな。(183頁)

 こうした誤導とその緩和の〈宙吊り状態〉を象徴するものこそ、チャールズによる「この問題に対する二つの見方」(105)という表現だろう。ブレンダに同情的な見方と彼女に敵対的な見方の二つが存在し、それぞれのパースペクティブからは事件が違ったように見えてしまう、という訳だ。

 さて、ここではブレンダとローレンスの「疑わしい行動」に注目しよう。連れ立って歩いていたらしい二人の姿を目撃したことから、チャールズはジョセフィンと話しているときに鳴った小枝のはぜる音(153)を思い起こす。

あの小枝の折れた音はブレンダかローレンスだったのではないか(174頁)

 二人に疑惑を向けるこの「小枝の折れた音」が重要なのは、それが他のミス・ディレクションと結びついているからである。すなわち

  1. エディスへ、さらには他のレオニデス家の人物へ疑いが向かうこと。
  2. 真犯人である12歳の子供ジョセフィンから疑いをそらすこと。

1については次のセクションで、2については第3節でそれぞれ検討する。

1-2. レオニデスにより近い人物への誤導

 今度は殺されたレオニデスと血の繋がりのある、あるいはより近い距離にいる人物へのミス・ディレクションを見ていこう。

 A. エディス

 レオニデスの義姉エディスへの誤導はそれほど目立ったものではないが、前セクションの「小枝の折れた音」と絡むため、最初に取り上げる。チャールズが、その音はブレンダかローレンスが立てたものではないか、と疑ったすぐ後に次のような記述がある。

エディスが庭の小路で、かかとで雑草を踏みにじっているのがみえた。(176頁)

 これは小枝の音が話題となったすぐ後であるために、思わせぶりな記述である。確かに、これは明確なミス・ディレクションではない。だが、小枝の折れた音という直後にこの記述が来ること、また他の彼女への(これまたささやかな)誤導と合わさることで、この記述に「彼女がもしかしたら小枝を踏んで音を立てたのではないか」という懐疑が胚胎することは否めないであろう。

 今しがた述べたエディスへの他の誤導とは、次のようなものだ。彼女は「わたしは盲目的に可愛がってばかりいるんじゃない」とある箇所で述べるが(172)、チャールズは後々、この発言の真意が何であったか、首を捻るのである(183)。これも些細なものであるが、回想・反復によりミス・ディレクションを強化するというのは、クリスティーに典型的な技法であり、ここでも読者はエディスへの不信感・疑惑を募らせることになる。

 総じてエディスへの誤導は、ブレンダ/ローレンスに対して仕掛けられた本作の焦点となる誤導と対照的な、きわめて思わせぶりな仕方でなされていると言えるだろう。

 B. ソフィア

 ソフィアへのミス・ディレクションはより目立ったものである。彼女は前半で「あたしだって、だれかを殺すことくらいできると思うわ〔…〕でも、ほんとに殺しがいがなくっちゃ」と述べる(41)。このことをご丁寧に、チャールズは後々回想している(245)。勿論これは、先に述べた〈回想・反復による誤導の強化〉である。またレオニデスの遺産を自分が受け継ぐ点を、彼女が事前に把握していたということも(244)、彼女への疑惑を強めるだろう。

 C. マグダ

 ソフィアの母親マグダについては、一箇所だけ目立つミス・ディレクションが仕掛けられている。それは彼女が、末娘であるジョセフィンを急にスイスの学校にやることを決めたことであって、このことをチャールズは「どうも私には腑に落ちない」(180)と不信がるのである。

 これも強いミス・ディレクションではないが、真犯人であるジョセフィンに対する疑惑から目をそらせるという点で、二重の役割を備えた誤導であると言えるだろう。

 D. ロジャー夫妻

 この二人には中盤で強い疑いがかかる。ロジャーは経営に失敗し、夫妻で家を出ていく予定にしていたのである。この点は警察からも追及されるが、徐々に疑いが晴れていく(一方で、レオニデスが経営の再建に力を貸してほしいと別の商会に頼んでいたことによって、他方で、夫妻はレオニデスの手の届かないところで静かに暮らしたいと考えていたことによって)。

 

 本作ではこのように、第一の被害者レオニデスとやや遠い者と近い者に多様なミス・ディレクションが仕掛けられている。まとめておこう。

  • 強い疑惑の集中とその緩和による宙吊り(ブレンダ/ローレンスに対して)
  • 思わせぶりな記述(エディス)
  • シンプルなミス・ディレクション(ソフィア)
  • 二重の役割を備えた誤導(マグダ)
  • 懐疑の一旦の集中とその解除(ロジャー夫妻)

 似たような記号の結構をとった作品に『ホロー荘の殺人』がある。ただし以前論じたように、その作品では漠然とした疑惑を重ねることで「迷霧」のような誤導のあり方をとっていたのに対し、本作では「小枝の折れる音」を一つの中心として、より立体的かつ多様に誤導が組み上げられているように思える。

2.ダブル・ミーニング

 本作には興味深いダブル・ミーニングが仕掛けられている。ダブル・ミーニングとは、解明前の前後で意味が変化する記号とまずは定義されるが、解明前の意味は読者を(警察を)誤った方向に導くという点で、ミス・ディレクションの発展形でもある。この作品では、チャールズの父である警視庁副総監ヘイワードの発言にそれが見られる。

 ヘイワードがチャールズに対して、ジョセフィンに意を払うよう述べる以下の二つの発言に注目しよう。

「あの子に悪い結果を及ぼさないよう気をつけてやりなさい」(145頁)
「あの子には気をつけてやりなさいよ。ひとりの人間の安全を脅かすようなことを、かなり知っている様子だからな」(146頁)

 解明前までは、これらの発言は、色々と嗅ぎ回っているように見える自称探偵ジョセフィンが被害者となる可能性を示唆するミス・ディレクションとして機能する。だが、解明部を経て、最後にヘイワードが「一時は〔彼女が犯人だと〕思った」(295)という発言から振り返れば、これらヘイワードの言葉に、〈ジョセフィンがこれ以上犯罪をおかさないように気をつけよ〉という意味が含意されていたことが分かる。

 このダブル・ミーニングもまた、ジョセフィンから疑惑を逸らすミス・ディレクションとして機能していると言えるだろう*1

3.反転的ミス・ディレクション

 ここまできてようやく、本作のもっとも興味深いミス・ディレクションについて検討することができる。それはジョセフィンから疑惑を逸らす誤導群である。まずは第1節でも見た、「小枝の折れた音」に関するところから始めよう。ジョセフィンと話していたチャールズは、彼女に強引に引っ張られた理由を、「小枝が突然折れたせいだった」ことに求めている(153)。この部分は、彼女が誰かに見張られているかもしれないこと、それゆえ探偵を自称する彼女が狙われている可能性をひとまずは示唆する。そしてこの「小枝の折れた音」のした原因が、具体的にブレンダ/ローレンスなどに向けられていく結果、この叙述が新たなミス・ディレクションを生み出していくことになる訳だ。

 しかしジョセフィンから疑惑を逸らす誤導のうち、もっとも威力を発揮しているのは、無論のこと、「彼女が探偵であり、また第二の被害者になること」にある。この「子供が犯人」という真相は、有名な先行作を想起させるものだが(ご丁寧にも、先行作同様に「筋書き殺人」のヴァリエーションが導入されている*2)、手がかりの読解と論理的な推理から「意外な犯人」に至るその先行作と、本作の勘所は異なっている。『ねじれた家』では、絡み合うミス・ディレクションによって組み立てられた建築物の中に、「探偵」という役柄の人物をそれと対蹠的な「犯人」として反転させるミス・ディレクションを埋め込むことで、「意外な犯人」を演出している。それゆえ、「推理」の部分が希薄であることは本作の欠陥とはならない。むしろ、手がかりや推理によってではなく、複層的なミス・ディレクションの家の中に、探偵と犯人という役柄を反転させる〈反転的ミス・ディレクション〉を埋め込むことで、この作品は先行作と同じ「子供=犯人」という真相を、違ったアプローチで実現することに挑戦しようとしたのである。そしてその挑戦は成功を収めたと言ってよい。本作において「子供が犯人」という設定は、トリックと物語内容の水準においてではなく、記述・叙述と物語言説という水準において捉えられることで、はじめてその真価を問うことができるようなものなのである。

 

 『ねじれた家』は、「子供が犯人」という設定と筋書き殺人の一変種という点で先行作を継承しつつも、錯綜したミス・ディレクションの建築物の中に〈反転的ミス・ディレクション〉を埋め込むことでその設定を別の形で実現せしめた、クリスティーならではの秀作なのである。

*1:ヘイワードの、「子供というのは欲望をそのまま実行にうつす〔…〕しかし、普通の人間はそういうことをすれば罰をうけるということをまず知り、〔…〕そういうことは間違ったことだということをはっきり会得してくるのだ。ところが、なかには道徳的に成長しない人間がいる」(142)という発言も大胆である。一文目は、真相をそのまま告げている。だが、後続する文でもってこの最初の文はミス・ディレクションとして機能してしまう。記号間の関係が重要となる(あるいは記号間の関係それ自体を新たな記号とする)クリスティーの叙述上の企みがよく分かるところだろう。

*2:「筋書き殺人」を私はエラリー・クイーン論の中で、「犯人もしくはその近くにいる者だけが知りうる文書や考えに沿って起こる(連続)殺人事件のこと」と定義した。レオニデスはジョセフィンを含む全員の前で、目薬を注射すると死んでしまうと述べている(「祖父自身の口から精密な殺人方法を教えたようなもの」288)。それゆえジョセフィンだけがこの殺人方法を知っていたわけではないにせよ、レオニデスの近くにいる者だけが知りうる考えに沿って起きた事件という点で、筋書き殺人の一変種であると言えるだろう。