Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

paradigme / exemplaritéの概念的変遷(1):プラトン

 記事のタイトルにある paradigme / exemplarité はいずれもフランス語だが、それぞれ、前者は古代ギリシアプラトンに端を発する語 παρἀδειγμα に、後者はラテン語 exemplar に、その起源をもつ。後者のラテン語は前者のギリシア語の翻訳に当たる語であるが、しかしこれら二つの概念は哲学史において、交錯しつつも微妙に異なった命運を辿ったように思える。

 それぞれの概念史に目下関心があり*1、ブログにてまとめる記事を何回かに分けて投稿する。まずは paradigme 系列の概念を、次に exemplarité 系列のそれを点検する。今回は最初ということで、無論のこと、プラトンの著作に出てくる"παρἀδειγμα"(パラデイグマ)がテーマである。『プラトン全集別巻:総索引』(岩波、1978年)を手引きに、この語の登場箇所を一通りチェックした。主要な使い方は以下の三つである。

1.範例、類例、手本となる例

 この意味で使用されている箇所が最も多い(全体の半分はこの用法と言ってよい)。典型——というよりも、むしろこの語の「範例」用法の「範例」——は、後期著作『ポリティコス』に見られる。

「子供たちが〔…〕色々な字母を正しく理解していた場合の音節がいくつかあった訳であるが、子供たちをまず第一にこれらの音節に、改めてよく注意させるのだ。それからこのように改めて注意させた上で、子供たちがまだ十分にはよく理解していない字母の結合体の前へ、子供たちをつれてくるのだ。そして、これら両種の、理解されている方と理解されていない方との結合体のいずれにおいても、そこに含まれている字母ががんらい果たすべき機能は類似した同一不変なものなのだということを、比較を繰り返すことで子供たちに呑み込ませるのだ。このような指導を続けていけば、ついには字母の結合体のうちの、子供たちが知らないものの全部のわきに、子供たちが正確に理解している結合体が、並べて示されるはずだ。そしてこの後者の結合体は、このようなかたちで示されるとき初めて、類例というものになってくるのだ。」(278A-B)

 ここで言われているのは、〈既知の字母の結合体=綴りを範例として、他の未知の綴りの中にある同じ字母の結合体が、同一の機能をもっている〉と、子どもに理解させるということである。この箇所では、「知らないものの全部のわきに」という一節が注目される。すなわち、一つの事例に過ぎないが、しかし模範となる例=範例と比較することで、他の事例も理解される訳だ。範例とはしたがって「比較」を基本的に前提する。

2.範型、原型、模範、手本、モデル(イデア論的文脈)

 前節の「範例」と並ぶ重要な意味。まずは『ティマイオス』から引用しよう。

2-1. 『ティマイオス

「前の話題では、あの二つのもの——つまり、一つはモデルとして仮定されたもの・理性の対象となるもの・常に同一を保つものであり、第二は、モデルの模写に当たるところのもの・生成するもの・可視的なものだったのですが——この二つだけで十分間に合っていました」(48E-49A)

 簡単に言えば、「モデルとその似像」の関係ということだが、ここでは特に「パラデイグマとしてのモデル」は、模倣されるべきイデアという意味で用いられている。

2-2. 『国家』

 後期著作ばかり続いたので、中期著作も見ておこう。『国家』から引用する。

「一般の多くの人々にしても、われわれがこうして哲学者について語っている事柄がほんとうであると気がつくならば、それでもなお哲学者たちにきつく当り、われわれの説を信じないままでいるだろうか——神的な模範(範型)を用いて描く画家たちが一国の輪郭をかたどるのでなければ、国家は決して幸せになることはできないだろうという、このわれわれの説を?」(VI499E-500E)

 ここに登場する「模範(範型)」とは、イデアそのものなのか、それともイデアを分有し、空間的・時間的に規定された理想像であるのか、という点には解釈上の論争がある*2。模倣すべきものがイデアそのものであれ、イデアを分有した理想像であれ、ともかくこの箇所ではイデア論的文脈が前提とされている、ということが分かれば今は十分である。

3.範型、原型、模範、手本、モデル(非イデア論的文脈)

 最後に、「モデルとその似像」という点では前節と同じ関係ではあるが、イデア論の文脈以外で用いられている箇所も、念のため引用だけしておこう。『ソピステス』の一節である。

「私がこの技術〔真似る技術〕のうちに見るものの一つは、似像(模写物)を作る技術なのだ。これが成立するのは、とりわけ次のような場合である。すなわち、似たものを作り上げるにあたって、長さと幅と深さにおいて原物がもっている釣り合いにこれを合致させ、さらに加えてそれぞれの部分にふさわしい着色をほどこすというやり方をとる場合が、それだ」(235E-236A)

 以上三つが、プラトンの著作に見られる"παρἀδειγμα"(パラデイグマ)という語の使い方の「パターン」である*3一つの事例でありながら、他の諸事例に対する模範となるという意味での「範例」と、イデア論的文脈であれそうでないのであれ)似像に対するモデルという意味での「範型」、 παρἀδειγμα の含んでいたこの両義性が、今後重要な役割を演じることになるように思える。そして次回、プラトンの次に取り上げるのは、勿論アリストテレスにおけるこの語の使い方である。

 

【7/11 補足・初期著作について】

 初期著作について補足しておこう。初期に関しては、「1.範例、類例、手本となる例」の使用例がほとんどを占める。二つだけ見ておこう。まずは『ソクラテスの弁明』から。

「人間の知恵というようなものは、何かもうまるで価値のないものなのだということを、この神託の中で、神は言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソクラテスのことを言っているように見えるのですが、私の名前は、つけたしに用いているだけのようです。つまり私を一例にとって、人間たちよ、おまえたちのうちで、一番知恵のある者というのは、誰でもソクラテスのように、自分は知恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者が、それなのだと、言おうとしているようなものです。」(23A-B)

 もう一つは『ラケス』の次の箇所である。

「もし、皆さん自身が、そのような技〔若者たちを教育する技〕を見つけ出した人であってのことであれば、いままで他にどのような人たちの面倒を見て、つまらぬ人間から立派でよき人間になさったことがあるのか、その見本をみせて下さい。」(187A)

 イデア論的文脈での「範型」(つまり上の2)がほとんど使われていないのは、プラトン対話篇の思想の展開を鑑みれば、当然のことだろう*4。対して、「非」イデア論的文脈での「模範」(上の3)に関しては次のような用例がある。『プロタゴラス』である。

「子供たちが先生の手を離れると、彼らが自分の好き勝手にでたらめな振る舞いをしないように、今度は国家が、法律を学びその規範に従って生きることを要求する。」(326D)

*1:この関心の背景を少しだけ明かしてしまおう。数理哲学においては、カヴァイエスが数学の生成のさなかで「パラディグム(paradigme)」が登場すると述べている。対して、美学や文学——広い意味での「フィクション」——においては、カントが『判断力批判』で美的判断における「範例的(exemplarisch)」必然性について論及し、また時代がくだってデリダは「範例性(exemplarité)」概念を自身の文学論において重視している。こうした哲学者の考えを導きの糸に、数理における「パラディグム」と、フィクションにおける「範例性」をいわば二つの極とするような哲学が構想可能なのではないか。

*2:藤沢令夫『イデアと世界:哲学の基本問題』、岩波書店、1980年、第2章、および小田部胤久「カント『判断力批判』における〈範例性〉をめぐって:paradeigma/exemplarをめぐる小史」、『美学芸術学研究』、35号、2016年を参照。

*3:『総索引』にはもう一つ、目に見えぬ実在を学ぶための「模型」という意味も挙げられている。『国家』の次の箇所である。 「天空を飾る模様〔星〕は、そうした目に見えぬ実在を目指して学ぶための模型としてこそ、これを用いなければならない〔…〕」(VII529D)

*4:ただし『総索引』では、『エウテュプロン』の次の箇所が挙げられている。

その相〔すべての敬虔がそれによってなりたつところの単一の相〕それ自体がいったい何であるかを僕に教えてくれたまえ。ぼくがそれに注目し、それを基準として用いることによって、君なり他の誰かなりが行う行為のうちで、それと同様のものは敬虔であるとして、それと同様でないものは敬虔でないと明言することができるようにね」(6E)