Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

探偵小説の過去と現在:フーコーの思想から

 『現代ミステリとは何か:二〇一〇年代の探偵作家たち』(南雲堂、2023年)を読み、色々と触発されたため、最近の日本の探偵小説、ミステリーについて漠然と考えてきたことを、ここでまとめておきたい。私は本書で論じられている「二〇一〇年代」の作品群を多数読み、それらに通じている訳ではなく、それゆえ以下の議論においても、考えが及んでいないところはあるだろう。ただ哲学・思想の研究者として、広い時間的パースペクティブから最近の諸傾向を点検してみることには、何か益することはあると思われる(少なくとも議論の叩き台くらいにはなろう)。この記事では——ありふれた選択であるが——ミシェル・フーコーの観点を採用して考察する。

 第一節では、一九世紀半ばに登場した探偵小説の、黎明期・古典期の大雑把な特徴をフーコーの『監獄の誕生:監視と処罰』(1975)周辺の諸着想を踏まえて取り出す。その上で第二節で、再び彼の哲学を参照しつつ、近年の探偵小説の二つの傾向に対して、ごく簡単な予備的考察を試みたい。

1.過去

1-1. 名探偵の古典的肖像(1)

 まずはありきたりな——と私には思える*1——論点の確認から始めよう。探偵小説における「名探偵」の基本的なモードは、自身は観察されることなく観察する立場にあること、観察対象でなく観察主体であること、つまるところ「見られることなく見る」、という点にある。これは無論のこと、フーコーが『監獄の誕生』において一望監視装置(パノプティコン)を分析する際、看守の位置に与えた機能に他ならない。この近代的な監視装置において、囚人は一方的に見られるのであって、看守は囚人から「見られることなく」、相手を「見る」ことができる。この視線の一方向性によって、囚人という個人の振る舞いに関わる「規律権力」が作動することになる。

 名探偵が探偵小説、ミステリー作品において特別なキャラクターであるのは、謎を立て、手がかりを読み、推理をするこの人物の様々な「読む」作業の起点にあるのが、他の人物にはできない「観察」をすることだからである。他方、名探偵は観察の対象には、多くの場合ならない。名探偵は「見られることなく見る」限りにおいて、優れた推理をすることができるその特権的なポジションを維持することができるのである*2

「こうした特徴づけはあまりに大雑把で、例外も多いのでは?」と思われる方もいるだろう。だが本項の分析の不十分さについては後で補うことにして、先を急ごう。

1-2. 真相を告げること

 次に、こうした名探偵が「真相=真理」を告げる、ということの意味を考えてみたい。そのために、フーコーの「真理」をめぐる議論を迂回しよう。

 『監獄の誕生』の後半において、フーコーは「法律違反者 (infracteur)」と「非行者 (délinquant)」を区別し、両者を(仮に同一人物であっても)別の対象として扱うことの重要性を指摘している。前者は法律違反を犯した当人であるのに対し、後者は本能、衝動、性格といった複合的な所産と結びつけられ、この人物の「生活史的なもの」と関わる。「非行者」を扱うのは、制度的には監獄制度の補足部たる行刑制度であるが、この「非行者」という対象を介して「人間諸科学 (sciences humaines)」が犯罪司法に関係してくることが重要である。そうした科学とは例えば、心理学、精神医学、そして犯罪学などであって、これらにより「非行者」の客観性を明るみに出す「知」が据え付けられることになる。

非行性というものを作り上げつつ、監獄は犯罪司法にある対象の場を、つまり、「諸科学」によって真性とされる (authentifié) 統一的な場を提供した。このようにして監獄のおかげで犯罪司法は「真理 (vérité)」の一般的地平の上で機能を果たすことが可能になったのである*3

 この真理は、人間の「正常性」のことであるが、正常性の探究のためには非行者の異常性を参照することが不可欠なのである*4

 さて、非行者を人間諸科学的な「真理」で囲繞する犯罪司法に対し、探偵小説が最後に告げる「真相=真理」はどのようなものだろうか?まず、それは対象が異なる。「法律違反者」としての犯人を指摘するところで、この文学ジャンルの(多くの)作品は終わる。犯罪を犯した後の「非行者」には関わらず、さらに言えば、「探偵が犯人を殺してしまう」という黄金期における作品の一パターンを考えてみれば、そもそも犯人を法律に託す、ということさえ積極的にはしようとしないのである。「法律違反者」の手前にいるところの事件制作者としての犯人、こそが探偵小説の真相=真理の関わる第一義的な対象である。

 そして探偵小説の際立った特色は、こうした対象に対し、人間諸科学の見出す「真理」とは異なるが、しかしそれらと完全に同時代的なものに拠ることで「真相=真理」を告げることにある。その「同時代的なもの」こそ、前項で述べた「見られることなく見る」という規律権力の作動条件となっている、あの視線なのである。人間諸科学が(複数の)「非行者」に関わるのに対し、「見られることなく見る」探偵の視線は、登場する(一人ひとりの)「個人」に向けられる。ここに、近代という19世紀以降の時代を被りきろうとする探偵小説の徹底性がある。人間諸科学の見出す真理に対置されるのは、非科学的な何かでは決してない。推理という論理的・科学的道具立てを、人間諸科学と同時代的な「見られることなく見る」視線の周りに結集させること、そして、その視線と推理によって、「非行者」に関わる人間諸科学と異なった、「個」の引き起こした事件の真理を明らかにすること——これが探偵小説の「真相=真理」の基本設定なのである。

 無論のこと、探偵は推理の際、ときに人間諸科学の成果たる「真理」を用いる。しかし、人間諸科学の真理を用いつつ、探偵小説は別種の真理を突きつけ、前者を相対化する。ときにその相対化には、非行者を囲繞してくるあの「真理」に対する、フィクションというかたちをとっての「抵抗」さえ垣間見られることだろう。

1-3. 名探偵の古典的肖像(2)

 だが、これでは「抵抗」といっても不十分ではないだろうか。何と言っても、「見られることなく見る」視線とは、「規律権力」の基本的な構造をなしているのだ。探偵小説においては、「見る」名探偵の特権性が無根拠に担保されているのではないか……。

 このような疑念に対し、実のところ探偵小説はその初期から自覚的であった。そう、「見られることなく見る」探偵の特権など、当然のことながらいささかも自明ではない。端的に言って、探偵もまた「見られ」うる。そしてこのことは、エドガー・アラン・ポオの短編*5からして指摘されていたことであった。

 それゆえにこそ、探偵=犯人というタイプの作品は書き継がれてきたし、「謎を立てる探偵がいなければそもそも事件もない、ゆえに探偵こそが犯人」といったロジックも成立してきた。そして究極的には、探偵小説というジャンルそのものを成り立たせしめている「見られることなく見る」者——それが誰かはここでは言うまい——さえ、探偵小説の「犯人」として指摘されてきたのである。名探偵の視線の特権性に対する反省のあり方は、探偵小説というジャンルの基本的特徴とさえ言えよう。

 要するに、探偵小説の戦略は二重である。

  1. 一方で、人間諸科学が犯罪司法に提供するような〈真理〉に対し、同時代的な「見られることなく見る」探偵の視線と共に、別種の〈真相=真理〉を突きつける。
  2. 他方で、この「見られることなく見る」探偵の視線の特権性を、「探偵=犯人」といった構図で疑問に付す。

 以上が、黎明期から古典黄金期(そして日本では「第二の波」あたり)までの探偵小説の特徴を、フーコーの枠組みから大づかみに捉えたものである。

2.現在

2-1. 生権力の地殻変動

 『監獄の誕生』の後、フーコーは『知への意志』(1976)において、個(の振る舞いに)向かう「規律権力」と、統計学等によって人口全体を制御していく「生政治」の二つを、「生権力」の軸として提示する。第一節の議論は、「規律権力」が「生政治」と関連しつつも、独立した極を保持していた時期のもの、と言えるかもしれない(この点、確言するためにはさらなる検討が必要である)。

 20世紀後半に入り、ジル・ドゥルーズの有名な小論「管理社会について」(1990)*6も踏まえ、生政治が規律権力より前景化していく、としばしば言われてきた。そして世紀も変わり、二〇一〇年台に入って、個人がスマートフォンなどのデジタルモバイルを持つようになってきてから、「生政治」と「規律権力」の関係はまた新たな段階に入ったように思われる。とりわけ新型コロナウイルス禍により、その新たな段階は可視化された。この点を美馬達哉『感染症社会:アフターコロナの生政治』(人文書院、2020)を手引きに見ておこう。

 新型コロナウイルス禍初期に書かれたこの著作で、美馬は中国でおこなわれた健康コードシステムの社会実験に注目している。デジタルモバイルのアプリに個人情報を入力をすると、ビックデータ解析を介して、赤・黄・緑のQRコードが個人のモバイルに自動的に表示される。三つの色はそれぞれ、緑であれば行動制限なしだが、黄であれば一週間の隔離を、赤であれば二週間の隔離をそれぞれ要請される。美馬はこうした「健康QRコードの色」のような仕組みが、アフターコロナの時代にさらに展開されていくだろうと予想している。たとえば感染症だけでなく犯罪歴などもこのコードと紐付けされ、緑であれば公共施設への出入りに制限なし、黄であれば出入りに部分的制限あり、などといったように。この制限も勿論、入館時に人がチェックするのではなく、モバイルを施設に入るときにタッチすることで、自動的になされる。こうした仕組みは、個人が「緑」の色をみずから積極的に維持しようとするモチベーションを誘発することにつながるだろう*7

 美馬の見解を敷衍すれば、この「健康コード」のシステムは、人口集団を調整・管理する「生政治」のうちに個人の振る舞いをチェックする「規律権力」を組み込んだもののように思える。もはや個人の振る舞いを、誰かが監視することは必要ではない。ビックデータ解析を通じて、個人に直接、行動を要請することができるのである。しかもここには監視特有の「不快感」が発生する余地がない。むしろ各人が「緑のコード」を維持しようと、積極的に「乗っていく」だろう。

2-2. 知的バトルものについて

 二〇一〇年代以降の探偵小説群は、この〈規律権力の生政治への組み込み〉の状況といくばくか並行ないし連動しているように思える*8。規律権力が生政治に組み込まれている以上、探偵の視線は個人に単純に向かいはしない。探偵は個々の人間に目を向けるより前に、まずはある人間集団の全体を配慮しなければならない。このことが顕著に現れているのが、『現代ミステリとは何か』の最初で蔓場信博氏が「(異能)知的バトル」と呼んでいる小潮流である。

 この潮流では、探偵が最後に一つの決定的な推理をおこなう点にではなく、複数の推理が入り乱れ、何らか競い合う点に特色がある。この潮流の典型的な——これは「最高の」ということでも、また「代表的な」ということでもない———作品が城平京の『虚構推理』(2011)である。

 

【以下、本セクション最後まで『虚構推理』の内容に触れる。】

 

 この作品では、ネット上の掲示板で多くの人を信じさせるような推理を立てることが目標となる。探偵はかくして、一つの推理で説得が不可能であればまた次の推理を、というかたちで次々と推理を繰り出していくのである。

 この作品において、推理は事件の「真相=真理」と一致するものではない(真相は推理を繰り出すより前に明かされる)。推理は「多数の人の納得」を目指してあくまでなされるに過ぎない。これは、まさしく「人口集団の制御」を目指す生政治的な状況に対応した探偵と推理のあり方と言えるだろう*9

2-3. 特殊設定ものについて

 では「特殊設定ミステリの小潮流」についてはどうだろうか。この潮流は、「知的バトルもの」と〈裏表〉の関係にあるように思える。「見られることなく見る」探偵の特権的な視線が成立しにくくなる状況において、「多数の説得」ではなく、なお「一つの真相」に行き着こうとするのだとしたら、作中の世界や人間集団において守られざるを得ない基準を導入する、という手が考えられるだろう。探偵は推理の準拠点として、こうした基準を採ることができる。この基準こそが特殊設定である。斜線堂有紀『楽園とは探偵の不在なり』(2020)における「二人以上殺した者は天使によって地獄に引き込まれる」という設定、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(2019)における「必ず成就する予言」などが分かりやすい例として挙げられよう。

 勿論、「特殊設定とみせて特殊設定でなかった」といったタイプの作品もあり、個別の分析が重要であることは言うまでもないが、大勢を捉える一つの仮説としてここでは提示しておきたい。

 

 

 以上、「規律権力」と「生政治」をめぐる関係の変化から、探偵小説の過去と現在を簡単に特徴づけてみた。いつものように個別作品の分析をしている訳ではないため、説得力に欠ける部分があることは承知しているが、是非上記の着想を検証の鑢にかけていただければと思う。

 なお、「ポストトゥルース」的な状況——世論形成の際に、客観的な事実よりも個人の感情や信念に訴えかけていく趨勢——から、現代ミステリはしばしば論じられる。これが有力な議論の方向であることに異論はないが、私個人としては、自分が拠って立ってきた哲学・思想を展開させる方向で、現代ミステリを考えていく所存である。

*1:本項及び1-3で扱う「見られることなく見る」をめぐる議論は、あちこちで私が読んできたものをまとめたもの、という感覚が強い。とはいえ、「どこか」と問われると、はっきりと参照できる文献を挙げるのが難しい。

*2:この「見られることなく見る」を別の仕方で表現すれば、名探偵は他の登場人物に対して「メタレベルにある」ということになろう。つまり、ここには「後期クイーン的問題」と接する論点がはらまれている。法月綸太郎は「初期クイーン論」(1995)において、手がかりをめぐって、対象レベルとメタレベルの混同が起きること指摘していたが、この〈レベルの混同〉とでも言うべき事態は、探偵小説という枠組みを超えて、文芸全体に対しても示唆的な点を含んでいる。カントは『判断力批判』において、美的判断においては、規則は「告知することができない」(§18)と、つまり範例としての個別作品と規則は分離不可能であると述べていた。対して数学においては、20世紀に入ってジャン・カヴァイエスが指摘するように、規則は個別領域の操作構造を踏まえて、そのメタレベルで取り出される。逆に数学のこの特徴から翻って見れば、美的判断の対象となる作品においては、「対象レベル(としての個別作品)とメタレベル(としての規則)が短絡せざるを得ない」ということを意味する。勿論、カントの美学を文学作品、フィクションへとどう拡張するかという重要な問題はあるにせよ、「後期クイーン的問題」はカントの特徴づけた美的作品の特徴を、探偵小説というジャンル内で表現したものともみなしうるのである。

*3:Michel Foucault, Surveiller et punir. Naissance de la prison, Gallimard, 1975, p. 297. ミシェル・フーコー『監獄の誕生:監視と処罰』、田村俶訳、新潮社、1977年、253頁、訳文改。

*4:「法律違反者」と「非行者」をめぐるフーコーの議論については以下を参照。内田隆三ミシェル・フーコー[増補改訂]』、講談社、2020年、259-265頁。

*5:(ネタバレのため反転)「お前が犯人だ」である。

*6:しばしば指摘されることだが、フランス語 contrôle を「管理」と訳すと「誰かが管理している」というニュアンスが出てしまうため、「制御社会」とでも訳す方が適切である。

*7:美馬達哉『感染症社会:アフターコロナの生政治』、人文書院、2020年、197-200頁。

*8:フィクションや文学を論じる際にしばしば用いられる「反映」の考えを避けたいという理由から、ここでは「並行」や「連動」という些か曖昧な語を用いた。

*9:こうした「多くの人を説得させる推理を展開すること」と、それまでの探偵小説の基本モードである「たった一つの真相を推理すること」との端境にあるものとして、「推理」ならぬ「憑物落とし」をおこなう京極夏彦の〈百鬼夜行シリーズ〉を挙げることができるかもしれない。