Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

二つの範例性:〈数理/フィクションと哲学〉への予備的考察(1)【追記あり】

 先日の講演会で、数学をカヴァイエスの言う「パラディグム」で、フィクションをカントやデリダを参照しつつ「範例性」で、それぞれ特徴付けた(ちなみに「範例性」の元となったラテン語は、「パラディグム」のギリシア語原語に対応するものである)*1。しかしこの講演内容を考える過程で、同時に、数学における「範例性」に思い至ることにもなった。今回から2回に分けて、数学とフィクション、それぞれの「範例性」を軸に、両者を対照的・相補的、そして統一的に議論するための、予備的な考察を提示する

 まず「範例性」を簡単に定義した上で、数学における「範例性」と「パラディグム」の関係を明らかにする。その上でフィクションの議論に進み、数学とフィクション、それぞれの「範例性」の特徴を見てみたい。

1.範例性の定義

 ここでなされる「範例性」の議論は、数学とフィクション、さらには他の多くのことにも共通する、ごく一般的な話である。

 「範例」とは、あるグループの一例でありながら、そのグループの他の諸々の例がそれと比較されるような模「範」的な「例」である、と簡単に特徴付けることができる。プラトンの挙げている例*2に戻るのがよいだろう。子供にある単語の綴りの発音を教える際、その綴りの一部である「母音字と子音字の結合体」をどう発音するかが問題となる。そのとき、既にその子供が知っている(例えば他の単語の)同じ結合体の発音を念頭に置かせて、その新たな単語の含む結合体を発音させる、という訳だ。このとき、既知の結合体の発音が、未知の他の諸々の結合体の発音の「範例」となっている。範例を「脇に置く」=範例と比較することで、他の諸々の例も理解されるのである。

2.数学における範例性

2-1. パラディグムとは何か

 講演では、ジャン・カヴァイエス(Jean Cavaillès, 1903-1944)の概念「パラディグム」を簡単な例で取り上げた。遺作『論理学と学知の理論について』(1947)で展開されるその議論を、ここでもその簡単な例に沿って提示しよう。

・簡単なたし算を考える。           2+3=5
・この計算は、順序を変えても答えは同じである。3+2=5
・よって次が成り立つ。            2+3=3+2
・この関係は他の数でも成り立つ。       7+9=9+7
・すると一般に、どんな自然数a, bに対しても次が成り立つ。
                       a+b=b+a

 この「a+b=b+a」という、対象に無関係に成り立つ構造が「パラディグム」と呼ばれる。このように抽象的な構造を取り出してしまうと、この関係を満たす対象を、「自然数」に限定することなく考察することができる(例えば分数もこの関係を満たす)。

2-2. 範例性とパラディグム

 今し方、抽象的な構造を「a+b=b+a」と書いた。しかし無論のこと、必ずしもこう書かねばいけない訳ではない。代わりに、「c+d=d+c」と書いても、「n+q=q+n」と書いても、はたまた「☆+■=■+☆」と書いても、内実としては変化がない。しかし他の諸例と比べると、アルファベットの最初の二文字を利用することが一番見やすいため、それが用いられる。つまりそれは、他の諸々の例を代表する一つの模範=「範例」なのである。

 重要なのは、この範例が「記号」の水準にあるということである(「☆+■=■+☆」といった諸記号の代わりに、記号「a+b=b+a」が範例として機能する)。そして数学において重要なのは、この範例としての記号を通して(パラディグムの)「概念」が措定される、というところにある。今の記号列であれば「加法に対する可換律」といったように。そしてこのとき同時に、対象に無関係に成り立つ構造があらわになったことにより、対象のいわば「無限性」もまたこの記号に示されることになる*3

 まとめよう。

  1. 数学においては、ある記号列を「範例」として、その記号列の表す「概念」が固定される。言い換えれば、その記号は「ある概念の範例」となる。
  2. その概念化を通して、対象の「無限性」が開かれる。

【2024.1.4補足】その後、上記の考察に問題があることに気がついた。「a+b=b+a」が「c+d=d+c」などの記号と並ぶ「範例」であると書いたが、むしろこの記号列は他の記号列と並ぶ一つの「事例=見本」にすぎず、従うべき「模範例」とまでは言えないのではないか、と思い至ったのである。むしろ、ここはカヴァイエスが「パラディグム」—すなわち範例—と呼んだことを素直にそのまま、受け取るべきであると思われる。要するに、「a+b=b+a」を「2+3=3+2」や「7+9=9+7」などといった、個別の対象を入れた式の「模範」、「型」として取るべきではないか。a+b=b+a」という記号列は、個々の対象を代入した記号列の代わりとなり、それらが従うべき〈範例(パラディグム)としての構造〉である—これが、カヴァイエスがこの構造を「パラディグム」と呼んだ、真の意義であると思われる。
 この補足の内容は、次節以降の議論を棄損するものではないが、いずれブログ記事とは違った仕方で、議論を再構成する予定である。

3.フィクションにおける範例性

3-1. 文学における範例性

「フィクション」と広い書き方をしたが、ここでは議論をひとまず「文学」に限定しよう。〈文学における範例性〉というテーマで特筆すべき思考を展開した人物、それはジャック・デリダJacques Derrida, 1930-2004)である。ここでは青柳悦子の優れた解釈を参照しつつ、デリダの範例性に関する議論を見ることにする。

 デリダは『パッション』(1993)の中の長い註の中で次のように述べている。

何かについて話しているとき、その何かについて話しているのか、〔…〕なんらかの例を、何かの例を与えているのか、私が何かについて話せるということの例を与えているのか、何かについての私の話し方についての例を与えているのか、何か一般的なことについて一般に話すことができるという可能性の例を与えているのか、あるいはそういう言葉を書くことができるという可能性の例を与えているのか、などなど、そのいずれかを決定し得ないときに、何か文学めいたものが始まっているのだろう。

 青柳はこの一節について、「文学の意味作用は多重的でありまた寓意的であるためにそれだけいっそう、また作品は作品として存在するだけで解説を伴わないだけになおさら、どのレベルでの例示として自らがあるのかを決定できない」と述べている*4

 ここで、この「決定不可能性」をいわば「目減り」させることをお許し願いたい。デリダがここで述べているのは、「(私が)何かについて話す」ときに、「私ー何ー語り」において生じる諸種の内的関係のなかで、その諸種のうちのどの例示であるかが決定できない、ということだった。これを「何」の決定不可能性だけに縮減する。つまり、いささか単純化して次のような「例」を考えてみるのだ—作品の中の人物や出来事が社会の中の人物や出来事の「範例」であるのか、それらが他の文学作品の「範例」として機能するのか、決定できない。

 この縮減・単純化から次のように言うことができる。「何についての」範例性か決定できないままに、しかし「何かの」範例である、という仕方で働く記号」—デリダがこうした文脈では用いないだろうこの語を敢えて用いる*5—の〈自己例示機能〉のうちに、文学めいたものが蠢いている、と。

 要するに文学というフィクションにおいて、その記号は何の範例性か定められない、つまり「xの範例性」というかたちでしか与えられない。しかしその「x」が決定不可能だからこそ、そこに何が代入されるか分からないからこそ、文学はその力を保持することができる。

 まとめよう。

  1. 文学というフィクションにおいて、その記号は「何かの範例」である
  2. 「何か」に何が入るかは決定不可能である。何についてのものかの「決定不可能性」にこそ文学性が宿る*6
3-2. 二つの対照的な範例性?

 とするなら、数学と文学(というフィクション)において、次のような記号上の対照性が見られることになる。

  1. 数学:記号は「ある概念の範例」
    文学:記号は「何かの範例」
  2. 数学:対象の「無限性」
    文学:何かの「決定不可能性」

 とするなら、数学と文学はまったく交わらない、疎遠なままに留まる二つの領域なのだろうか。いや、むしろ「記号の基本的な性質の対蹠的な二様態」と捉えた方がよい。後続する記事で、この点を追求する。

 

[12/19]一部修正・追記。

*1:「パラディグム」のフランス語は « paradigme » —英語では「パラダイム」—、「範例性」のフランス語は « exemplarité » である。

*2:こちらの記事の最初の引用を参照。

*3:可算無限か非可算無限か、はここでは問題ではない。

*4:青柳悦子デリダで読む「千夜一夜」—文学と範例性』、新曜社、2009年、81頁。デリダの引用も同所における青柳の訳文に従った。

*5:おそらくは「何」の決定不可能性だけに縮減した結果、「記号」とここで書くことができる(ここで念頭にあるのは、記号−対象−解釈項というパース的な三項関係を備えた記号である)。記号の水準で提示することで、第1節における数学の記号的範例性の議論と比較することが可能となる。

*6:「何」へと縮減した結果、「決定不可能性」というよりも、何についての範例性が定まっていない、という「未規定性」のニュアンスが勝るように思えるが、ひとまずは「決定不可能性」で通すことにする。