Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

二つの系列を結ぶもの:エラリー・クイーン『フォックス家の殺人』

 今回は久々にエラリー・クイーンの作品を取り上げる。ライツヴィルものの第二作、『フォックス家の殺人』(1945)である。以前『災厄の町』から『盤面の敵』に至る後期クイーンに関する論文を書いたとき、この作品については扱いにやや困り、検討しなかった。改めてこの記事で、本作をクイーンの同時期の展開のなかではっきりと位置付ける作業を行う。

 予め述べておくと、この記事では他の多くのクイーン作品の「興趣」に触れることになる。具体的には、『災厄の町』、『靴に棲む老婆』、『十日間の不思議』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後の一撃』、『盤面の敵』である。また初期の代表作である『ギリシャ棺の謎』と『Yの悲劇』については、興趣にとどまらず、その真相にも触れることになる。クイーン・ファン向けの記事なので、その点ご注意いただければと思う。

 参照するのは越前敏弥訳(ハヤカワ・ミステリ文庫、2020年)である。必要に応じて原書(JABberwocky Literary Agency, 2017)を参照する。

 

【以下、本作の推理・真相に触れる。】

 

1.問いの設定

 『フォックス家の殺人』を同時期のクイーンの展開の中に位置付ける、というのが本記事の目的である。この目的のために、その「展開」をまずは明示しておこう。先に言及した論文で、私は後期クイーン(あるいは、フランシス・M・ネヴィンズの区分によれば第三期クイーン)を「筋書き殺人」「見立て殺人」という二つの系列で整理した。「筋書き殺人」とは、犯人もしくはその周囲にいる人だけが知りうる文書や考え(本の梗概や手紙など)にしたがって起こる連続殺人のことであり、「見立て殺人」とは、犯人や登場人物を含む世界で広く知られている文書や考え(例えば童謡)に見立てられて起こる連続殺人のことである。この両系列でクイーン作品群の展開を示すと、次のようになる。

  • 筋書き殺人の系列:『Yの悲劇』→『災厄の町』→『九尾の猫』
  • 見立て殺人の系列:(『ギリシャ棺の謎』→)『靴に棲む老婆』→『十日間の不思議』→『ダブル・ダブル』→『悪の起源』→『最後の一撃』

 そしてこれら二つの系列は『盤面の敵』で合流することになる*1。『ギリシャ棺の謎』を括弧に入れたのは、勿論これが「見立て殺人」ものではないからである。ただし『靴に棲む老婆』以降の見立てものは、「操り」のテーマと一体をなしている。そこで、操りテーマの先駆である『ギリシャ棺』を括弧付きで書き込んでおいたのである。

 さて、『フォックス家』は一読して分かる通り、筋書き殺人ものでも、見立て殺人ものでもない。どのようにしてこれら二系列の展開のうちに定位することができるだろうか? ヒントは、飯城勇三氏が示唆しているように*2本作が『ギリシャ棺の謎』のロジックと『Yの悲劇』の犯人像を踏まえている点にある。ここを出発点にとろう。次節でまず本作を『ギリシャ棺』との関連で—つまり「見立て/操り殺人」との関連で—考察し、第3節で『Yの悲劇』との関連で—つまり「筋書き殺人」との関連で—検討する。

2.見立て/操り殺人に対して

【本節では『ギリシャ棺の謎』(1932)の推理と犯人に触れる。】

 『ギリシャ棺』と『フォックス家』のロジック上の共通点、それはパーコレーター/水差しをめぐる推理にある。まず『ギリシャ棺』のそれを確認しておこう。

2-1. パーコレーターをめぐる推理: 『ギリシャ棺の謎』

 この国名シリーズ第4作の前半で、探偵エラリーは既に故人となったハルキスがグリムショーを殺したという、「ハルキス犯人説」を提示する。彼は盲目と思われていたハルキスがある時点から視力を回復していたのだとまず指摘し、次いでパーコレーターとティーカップをめぐる推理に移る。三つの汚れたティーカップなどは、書斎での会合に3人の人物が同席していたことを一見示している。だが6杯分入るはずのパーコレーターに5杯分の水しか入っていなかったことから、エラリーは1杯分しか実はお茶は入れられなかったこと、つまり誰かが、1杯のお茶を3つのティーカップに使いまわして3人その場にいたかのように偽装したのだ、と推理する。ここから彼は、書斎には3人ではなく2人しかいなかったと推理を進め、それが被害者グリムショーと犯人ハルキスなのだ、と結論づけるのである。

 この推理は、続くハルキスの秘書らの証言で覆されることになる。真犯人が、エラリーの推理能力を知って、ハルキス犯人説を推理するように探偵を誤導するいわゆる「偽の手がかり」をティーカップに仕込んでおいたのである。

 ここでは、パーコレーターをめぐる推理で再構成される場面の登場人物が「3人→2人」と減ること、そして、探偵の推理を操るという「操り」のテーマが導入されていること、以上二点に注意しておこう。

2-2. 水差しをめぐる推理

 『フォックス家の殺人』は、12年前のジェシカ・フォックス殺害事件を究明する「回想の殺人」ものである。そして本作における『ギリシャ棺』と類同的な推理は、水差しとグラスをめぐるものである。水差しにはグラス4杯分=1クォートのぶどうジュースが入っていた。そしてその水差しからジェシカは1杯分だけジュースを注ぎ、それを飲んだために夫ベイヤードの手で入れられたジギタリスにより殺されたーこれが12年前の司法判断であった。

 エラリーは見つかった水差しについたジュースの「染みの線」から次のような実験と推理をおこなう。4杯分水を水差しに入れた後で、彼はジェシカが飲んだ1杯分の水をそこから注ぐ。しかしそれでも、染みの線はなお水面より下にあった。ということはもう1杯、注がれていないとおかしいことになる。4杯分予め水差しに入っていたこと、またジェシカがちょうど1杯だけ飲んだことは確かである。とするならば、1杯分飲んだ「訪問者」がいたはずである—そう推理は進められる。そしてフォックス家の人々の発言から、モントリオールに当時住んでいたジェシカの友人、ガブリエール・ボネールが実は短い間来訪していたのだ、という事実が突き止められる。作品の終盤、彼女がライツヴィルへ12年ぶりに来訪し、証言することでベイヤードへの疑いは晴れるのである。

 この、ライツヴィルの外からの来訪者がいることを突き止める推理と実験は、数多いクイーン作品の中でも、ひときわ印象的な部分の一つである。あたかも、閉ざされて重苦しくなった部屋の窓が急に開き、外の風が吹き込んでくるような、そうした印象を受ける。この箇所で注目すべきは、以下の二点である。

  1. 推理で再構成される場面の登場人物が「1人→2人」と増えること。これは『ギリシャ棺の謎』の場面と好対照である。
  2. この水差しをめぐる推理には「操り」が含まれていないこと。

 併せて考えれば、本作は『ギリシャ棺』と対照的な非・操り殺人ものであるということになる。では、本作は「見立て/操り殺人」の系列と何らの共通点も存在しないのだろうか? その共通点を考えるより前に、「筋書き殺人」ものとの関連を点検しておくことにしよう。

3.筋書き殺人に対して

【本節では『Yの悲劇』(1932)の真相に触れる。】

3-1. 同種の犯人の設定:『Yの悲劇』

 先述した通り、本作の犯人の設定は(すぐ分かるように)『Yの悲劇』と重なるものである。よく知られているように、『Y』においては、父の推理小説の梗概を発見した少年ジャッキーが、その梗概の「筋書き」にのっとって殺人事件を引き起こしていくのである。

3-2. 「筋書き殺人」との共通点

 『フォックス家の殺人』において、ジェシカを殺したのは当時少年であった息子デイヴィーである。今、エラリーによる推理の詳細は省き、事件の全体像を再構成してみよう。デイヴィー少年は化学実験のために浴室からアスピリンの瓶を盗んだ。そして同時に別のもの、すなわちジギタリスのチンキ剤も盗んだのである。彼は空のグラスにこの毒薬を入れ、実験をおこなった。しかし棚にグラスを戻すときに、(もしかしたら父ベイヤードがいてばれるのを恐れて)中身を捨てるのを忘れた。そしてそのグラスを、ジェシカが偶然、割れたグラスの代わりに手にとってしまったのである。

 本作が非・操り殺人ものであったのと同様、『Yの悲劇』のような筋書き殺人ものでもまたない。しかし、「筋書き殺人」との共通点は存在する。第1節で述べた二つの系列には、実に驚くべき犯人像の対照性が存在する。それは、「見立て殺人」の系列に属する作品の犯人がすべて成人男性であるのに対し、「筋書き殺人」系列の犯人は、少年か女性といった非・成人男性なのである*3。この鋭い対照性ゆえに、「犯人が少年」という設定は、『Y』との単なる相似性以上に、本作を「筋書き殺人」の系列との共通項とみなしうるものである。要約すれば、〈非・筋書き殺人でありつつ、筋書き殺人ものと共通の犯人像を提示した作品〉と言うことができるだろうか。

4.『フォックス家の殺人』の二層構造

 第2節で先送りした「見立て/操り殺人」との共通点の問題に戻ることにしよう。まず本作において、エラリーがデイヴィー少年について述べる言葉を引用する。

デイヴィー少年にはなんの悪気はありませんでした。自分が何をしているか、わかっていなかったんです(He had no idea of what he was doing)(461)

 ところが同じく「子供=犯人」である『Yの悲劇』においては、事情が異なる。ここでは少年ジャッキーは自分がしていることを把握している。分かっていないのは、筋書きを書い(て死んでしまっ)た父ヨークの方である。ドルリー・レーンはハッター家殺人事件の様相は、次のような場合にのみ理解できるのだと述べる。

子供が大人の書いた筋書き通りに犯行を重ねるが、当の大人は子供がそうしているのを知らない*4

 「筋書き殺人」は二層構造である。第一層が「筋書きを書いた人物」、第二層が「筋書きを実行した人物」である。ここでは第一層に当たる人物が「何をしているか知らない」一方で、第二相に属する人物は「何をしているか分かっている」のである。これに対して、同じく二層構造をもつ「見立て/操り殺人」においては、知の把握のあり方が逆転している。この系列においては、第一層が「操る人物」であり、第二層が「操られる人物」なのだが、前者が何をしているか把握している一方で、操られている後者は、本当には自分が何をしているか知らない。図式化しておこう。

 ここで、本節冒頭に挙げた本作からの引用を改めて読んでほしい。この「自分が何をしているか、わかっていない」デイヴィー少年は、第一層に属しているのか、それとも第二層に属しているのか。いや、そもそも「筋書き殺人」でも「見立て/操り殺人」でもない『フォックス家の殺人』において、こうした二層構造は存在するのだろうか?

 存在する。事件の構造を告げるクライマックスのエラリーの言葉を聞こう。

ある意味では、ベイヤードさん、ただの偶然が奥さんを殺したんです。
しかし、別の意味では、十歳のデイヴィー少年が自分の母を殺した……そして本人はそのことを知らずにいた(Davy, a ten-year-old boy, killed his mother ... and never knew itと結論せざるをえません(461頁)

 ここにある第一層は、「筋書き」や「見立て」ではない。そうではなく、「すべてが偶然の出来事」(462頁)であるという、〈偶然の出来事の連鎖〉こそがそれに当たる。デイヴィー少年がグラスを洗い忘れてしまったこと、そのとき父ベイヤードがもしそばにいなかったら洗っていたかもしれないこと、ジェシカがうっかりグラスを割ってしまったこと、その彼女がたまたま洗い忘れのグラスを手に取ってしまったこと、そしてグラスの色が濃くてジギタリスの色を隠してしまったこと……こうした〈偶然の出来事の連鎖〉によってデイヴィーは母ジェシカを殺めてしまった。言うなれば、偶然の出来事の連鎖がデイヴィーを犯人にしてしまったのである*5。つまり、第一層は〈偶然の出来事の連鎖〉であり、第二層がデイヴィー少年である*6。それゆえ、「自分が何をしているか、わかっていない」デイヴィー少年は第二層に属すことになる。『フォックス家』のものも含めて、表を作り直そう*7

 ここでようやく、本作がどのような点で「見立て/操り殺人」の系列と共通点をもつのか、言うことができる。それは第二層の人物が「何をしているか、わかっていない」点にある。表の中で、緑でハイライトしたところが「筋書き殺人」との共通点であり、黄色でハイライトしたところが「見立て/操り殺人」との共通点である。『フォックス家の殺人』は、非・筋書き殺人もの、非・見立て殺人ものでありながら、〈偶然の出来事の連鎖〉を持ち込むことで、犯人像に両系列の要素を含み込ませることに成功したのである。驚くべき達成と言う他ない。

 そして当たり前のことであるが、付言しておかねばならない。この作品には、知性を持って事件を起こそうとする犯人は(第一層にも第二層にも)存在しない。一切の知略が不在の探偵小説。もちろん、探偵小説の歴史を紐解いてみれば、これは珍しいことではない。しかし「ある推理の問題」という論理パズルとしての探偵小説から出発した作家クイーンが、知略不在の探偵小説を書くに至ったこと、しかもそれをなお高度なパズラーとして成立せしめたこと、この二点をみても本作が傑出した、類例のない作品であることに疑いの余地はないと思われる。

 

 最後に、本作が「後期クイーンの二系列」に関してもつ位置付けを明示しておこう。『フォックス家』は、非・筋書き殺人もの、非・見立て殺人ものでありながら、両系列に共通した犯人像を提示することで、両系列をいわば「裏からピン留め」するような位置を占めている*8。二つの系列を並走する川にたとえられるのだとしたら、二つの川を見えないところでつなぐ地下水脈のような作品と形容することもできよう。『フォックス家の殺人』は、二系列をそれ一作で支える、後期クイーンの隠れた結節点なのである。

*1:これら二系列は概ね理解可能と思われるが、『九尾の猫』のみ意外に思われるかもしれない。詳細は論文、及びこちらのブログ記事を参照。

*2:「解説」、『フォックス家の殺人』、469頁、及び飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』、星海社、2021年、120頁。

*3:[9/26追記]この興味深い対照性は明らかに当時の社会・制度と関係をもつだろう。この対照性を範例とみなすことで、当時の社会の様態をいずれ考えてみる予定である。

*4:エラリー・クイーン『Yの悲劇』、越前敏弥訳、角川文庫、403頁。

*5:『フォックス家の殺人』というフィクション作品の真相を範例として、当時の社会を解釈することも試みてみよう。すぐに思いつくのは第二次世界大戦である。アウシュヴィッツなどの強制収容所において、一方の列に行って生き残るか、他方の列に行ってガス室送りになるかは「偶然によった」としばしば言われる。しかしこのデイヴィーのケースとより正確に対応するのは、例えば空襲の「生き残り」のほうに思える。個人を意図的に狙っていない爆撃において、生き残るかどうかは「偶然の出来事の連鎖」によって往々にして決まったのではないか。そして本作第2章(例えば34-35頁)を読めば、デイヴィーもまた一連の偶然によって生還したように思える。そんな彼はなお自分自身が「子供のまま」(35頁)だと感じているのだ。本作はデイヴィーに焦点を合わせれば、偶然の出来事の連鎖によって母親を殺めてしまった少年が年を重ね、今度は偶然の連鎖によってたまたま生き残ってしまう物語—そしてそのような生が最後に肯定される物語—だと言うことができる。『フォックス家』は、教養による大人への成長といった物語が大量死によって粉砕された時代を、範例的に示す作品と言うことができるかもしれない。

*6:上下のニュアンスを含む「層」よりも、側面の意味を備えた「相」を用いた方が適切かもしれないが、ここでは拘らない。

*7:『フォックス家の殺人』の第一層の×を角括弧で括ったのは、「偶然の出来事の連鎖」には無論のこと、「知っているか否か」といった問題は無関係であるからである。

*8:実のところ、本作はまた、両系列の合流点に位置する『盤面の敵』への補助線をも含んでいる。この点についてはいずれ論じる予定である。