Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

手がかりと伏線のグラデーション:アガサ・クリスティー『愛国殺人』

 今回はアガサ・クリスティー円熟期の佳作、『愛国殺人』(1940)を取り上げる。この作品は傑作・秀作とまでは言えないにしても、この時期に典型的な叙述の技巧、及びトリックを見ることができる興味深い作品である。以下、叙述とトリックという、その二つの面から本作を検討する。

 参照するのはハヤカワ文庫版(加島祥造訳、2004年)である。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

1.手がかりと伏線

 この作品の主たる謎は、「顔をつぶされた屍体」をめぐるものである。とりわけてその屍体がメイベル・シールであるか否か、が解明部分の中心的な興味となる。ポアロの推理を再構成すると、概ね次のようになる。

 ポアロが生きているシールを見たとき、彼女の履いていた靴(パックルがとれたもの)は新しかった(30頁)しかし屍体発見時、靴は古いものに変わっていた(175頁)。彼女は靴を履き替えたのだろうか。しかし彼女の部屋の中にあった靴の中に、パックルが取れたものはなかった—もし履き替えたのであればある筈である(この箇所は、記述されない部分が手がかりとなる、というネガティヴ・クルーとして提示される 115-6頁)。彼女を殺した犯人=チャップマン夫人が、シールの新しい靴を履いて出ていったのではないか。実際、屍体の履いていた靴は「きつかった」(183頁)。きつかったのはチャップマン夫人の靴のサイズは5であり、このサイズの靴を、最低でもサイズ6の足の持ち主であるシールに代わりに履かせたことに由来する。そして、夫人はその後シールを一週間にわたって演じ続けた。そう、ポアロが見たシールとは、彼女に変装したチャップマン夫人に他ならなかった……*1

 この推理を導くために、(読者の目にもつきやすい)手がかりと伏線(ここでは読者の目には伏せられている手がかり)が仕掛けられている。そしてそれらは一定のグラデーションの下に配置されているように思える。以下、見えやすい手がかりから伏線へ向けて、順に記していこう。

1. 「顔の潰された屍体」はもちろん謎であるが、謎は事件を解くための、見えやすい「原ー手がかり」とでも言うべきものである。
2. 「新しい靴」と「古い靴」はどうだろうか? 靴の新しさは、ポアロの目の前でパックルが取れる、という印象的な場面で記述される。とはいえこの新しさ・古さの対照性に気づく読者は多くはないだろう。
3. さらに難しいのは屍体の靴が「きつかった」という記述である。ここには、今述べた対照性もなく、気がつくのはなかなか難しいと思われる(しかも、上で私が再構成したようには、ポアロはきつかった理由を解明部分で明示的に指摘していない)。
4. だがもっとも難しいのは、「ネガティヴ・クルー」の部分である。「パックルの取れた靴」に関する記述の不在、というのは「クルー」と言われている通り「手がかり」ではあるのだが、叙述の水準でみればそれは伏線であって、読者がもっとも気が付きにくい部分と言える。

 かくして次のようなグラデーションが存在することになる。

  1. 屍体の顔が潰されていたこと。
  2. シールの履いていた靴が新しいものから古いものに変わっていたこと。
  3. 屍体の履いていた靴がきつかったこと。
  4. 「パックルの取れた靴」に関する記述が不在であること。

 以前より私は、「ミス・ディレクションの森の中に手がかりを隠すこと」が、40年代の盛期クリスティーの代表的な叙述の技巧だ、と指摘してきた。対してここに見出されるのは、「手がかりと伏線のグラデーション」というもう一つの技巧である。「手がかりと伏線のグラデーション」は「ミス・ディレクションの森の中に手がかりを隠すこと」と並ぶ、クリスティーの叙述上の典型技法である、と言うことができるだろう。

*この点は今後の検証に委ねばならないが、以前の記事で私は、伏線が伏線として(手がかりと峻別されるかたちで)探偵小説の歴史に登場したのは、1920年代のフェアプレイ成立の時期だったのではないか、という仮説を提示した。この時期以前は、「読者の目に伏せられた伏線」という記号は明示的には存在せず、手がかりの見せ方の問題に過ぎなかったのではないか、ということだ。しかしクリスティーにおいては、無論のこともはやそうではない。この作家は手がかりと伏線の記号的差異を承知した上で、意識的にグラデーションを設定しているように思える。

2.トリックについて

 この作品は「男女カップルによる共犯」という、この時期のクリスティー作品に見られる構図とトリックを備えている。以下では、この犯罪の構図を備えた他のクリスティー作品と比較する。ここで作品名を挙げるのも憚られるので、以下、大丈夫という方のみ5行下までスクロールしていただきたい。

 同じ構図を備えた作品とは、『ナイルに死す』『白昼の悪魔』『書斎の死体』ある。こちらの記事で詳しく論じたため、そちらを踏まえて、刊行順に見ていこう。

 

(1)『ナイルに死す』(1937)
 この作品では、婚約を解消したと見せかけたサイモンとジャクリーンのカップルが、サイモンの妻リネットを共謀して殺害する。中心にあるのは「ジャクリーンがサイモンを空砲で撃つ」というアリバイ・トリックである。

(2)本作『愛国殺人』(1940)
 妻ガーダ・ブランド(=チャップマン夫人)がメイベル・シールを殺したのち入れ替わる(シールがモーリイの後で死んだと見せかけるため)。ついで、主犯である夫アリステアが歯科医モーリイを殺したのち入れ替わり、歯科医としてガーダと一緒にアムブライオティスを殺す。
 なおモーリイにアリステアが入れ替わったのは、一方で①歯科医としてアムブライオティスに毒を注射し、他方で②モーリイの患者であるガーダとシールのカルテの名前を貼り替える、という二重の目的のためであった*2

(3)『白昼の悪魔』(1940)
 夫婦を装ったレッドファンとクリスチンのコンビが、アリーナを殺害する。レッドファンはアリーナの愛人のように振る舞っていたが、それは彼女にお金をたかるためであった。ここでは、クリスチンがアリーナを一時的に入れ替わることが、アリバイ・トリックとして用いられていた。

(4)『書斎の死体』(1942)
 無関係に思えていたジョージーとマイクは実は結婚しており、この二人が共謀して殺人を犯す。遺産相続の障害となったルビーを二人は殺そうとするのだが、その際、もう一人の同年代の女性=パメラも合わせて殺し、二人の死体を入れ替えることで、アリバイを確保しようとする。

 『愛国殺人』の犯罪の構図はしたがってとりわけて複雑なものである。先に言及した記事に倣って、図示しておこう*3

 かくして次のような系列を描き出すことができる。

・被害者は1人(『ナイルに死す』)、入れ替わりはなしのアリバイ工作あり
 →被害者Aと(Aを殺した)共犯の入れ替わり
  +被害者Bに(Bを殺した)主犯が入れ替わり、被害者Cを殺害(『愛国殺人』)
 →被害者1人と犯人1人の入れ替わり(『白昼の悪魔』)、アリバイ工作あり
 →被害者2人の入れ替わり(『書斎の死体』)、アリバイ工作あり

 〈男女共犯もの〉の系譜にあって、入れ替わりトリックを導入した『愛国殺人』は、アリバイを策謀するその前の『ナイルに死す』と共に、このトリックを明確なアリバイ工作に結びつけた『白昼の悪魔』を準備した作品である、と言うことができよう。

3.達成度について

 これだけ複雑な構図の作品にもかかわらず、本作は満足感や達成度という点では他の作品に比べて物足りない印象を受ける。その理由を二つ挙げておこう。

  • 「モーリイ→顔のない屍体」という見かけの順とは逆に、「顔のない屍体→モーリイ」の順に実は殺されていた、というのはとても面白い構図の逆転のはずなのだが、この逆転が強調される推理になっていない
  • 「靴がきつかった」理由が明示されていない、という点に加え(第1節を参照)、ポアロの推理に不十分な点がある。推理の前半と後半でうまくつながらないところがあるのだ。まず前半で、「外国のスパイ(アムブライオティス)と食事をしたり、町で会ったブラントに話しかけたりするのは、メイベル・シールの性格と合わない」という点から、シールを名乗っていた女性は二人いた(入れ替わりがあった)という推理がなされる。しかし後半では、「スパイと食事したのも、ブラントに話しかけたのもシール本人である」と推論される。この二つの推理は、きちんと接合すべきだったろう。

 こうした欠点があるとはいえ、『愛国殺人』はこの時期特有のクリスティーの叙述の才とトリックが味わえる、読み逃すことのできない佳作と評価することができよう。

*1:本作は、エラリー・クイーンの複数の作品が念頭に置かれているように思え、興味深い。まずは『オランダ靴の謎』が挙げられる。(以下この作品の真相に言及するため反転)『オランダ靴の謎』の推理の中心的な部分は、靴が緩かったため犯人は靴に詰め物をしたのだ、という点にある。対して本作では逆に、「靴がきつかったこと」が重要なヒントとなっている。

*2:もう一つの興味深い類似点をもつエラリー・クイーンの作品とは、『中途の家』である。どちらも「重婚」がテーマとなっている。ただし、クイーンの作品では重婚の罪を犯していた男性は被害者であるのに対し、本作では同じ立場の男性が加害者となる。

*3:[2/1追記]本作にはしたがって二重の入れ替わりが存在する(アリステア≒モーリイ、ガーダ≒シール)。入れ替わりの背景にあるのは、二人の人物を同一人物に見せかけるという「類似性」であるが、「二人の人物がそれぞれ別の人物と似ている」という二重の類似性を巧みに使った作品もこの時期のクリスティーには存在する。(作品名を記すため反転)ポアロのクリスマス』である。