Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

文字か図像か、真実か偽装か:アガサ・クリスティー『NかMか』

 今回はトミー&タペンスものの長編第二作、『NかMか』(1941)を取り上げる。第一作『秘密機関』(1922)からの大きな飛躍を示したこの作品は、全盛期クリスティーの優れた叙述の才が、エスピオナージュ(・パロディ)において発揮された傑作である。ここでは大きく二つの点から、この作品を検討する。

 使用するテクストはハヤカワ文庫版(深町眞理子訳、2004年)である。必要に応じてHarperCollinsのペーパーバック版(2015年)を参照する。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

 

 第15章におけるタペンスの推理は以下の二つを軸としている。

  1. 女性スパイ「M」の正体。
  2. タペンス自身がアントニーに罠を仕掛けていたこと。

以下、叙述上の仕掛けに主に注目しつつ、それぞれを検討していこう。

1.同種の表現の反復

1-1. 伏線とミス・ディレクション

 「M」の正体はスプロット夫人であった。誘拐事件のときに、誘拐されたベティーを犯人と思われる女性が抱いていたにもかかわらず、夫人がその女性を狙撃したことが、タペンスの注意をまずは引いたのである(実際には、誘拐犯と思われていた女性こそ、ベティーの母親であり、彼女は我が子を取り戻しに来たのであった)。しかしこの誘拐事件に至るまでに、トミーとタペンスはペレナ夫人に疑惑を向けている。これ自体はよくあるタイプの誤導であるが、ともあれこの誤導により、女性を一撃で仕留めたスプロット夫人に疑惑が向かないよう配慮されている。

 特筆すべきはトミー襲撃直後の場面の描写である。

 第10章の冒頭、スプロット夫人はブリッジのテーブルに「息をはずませながら電話口から戻って(returning breathless from the telephone)」(287頁;p.167)くる。この息を切らせて戻ってきたことを、タペンスは推理の場面で、夫人がトミーを襲撃した傍証として挙げている。この記述は勿論、スプロット夫人に疑惑が向けられていない状況において、「伏線」として機能する。

 さて、ブリッジに戻ってきて少ししてから、スプロット夫人はペレナ夫人に注意を向ける証言をする。ペレナ夫人は「だいぶ遠方から走ってらしたかどうかしたんじゃないかしら。はあはあ息を切らせてらしたから(I think she’d been running or something. Quite out of breath)」(290頁;p.169)と言うのである。これは、それまでのペレナ夫人への疑惑を強める記述であり、ミス・ディレクションとして機能する。ここで注目すべきは、伏線とミス・ディレクションという好対照な記号が、わずか三ページを挟んで、同じような表現と共に用いられている、ということである。すなわち、以下の表現である。

  • 伏線:「息をはずませながら(breathless)」
  • ミス・ディレクション:「はあはあ息を切らせて(Quite out of breath)」

 これが大胆な叙述の作法であることは言うまでもない。だが、ここでは考察をさらに進めてみたい。ささやかに見える二つのよく似た表現を、好対照な記号機能のうちで用いる、ということはいったい何を意味しているのか?

2-2. あるトリックとの関連で

 探偵小説においては、「よく似た二つのものを入れ替える」ことがトリックとしてしばしば用いられる。典型的には「似た人物の入れ替え」によって例えばアリバイを確保するといった偽装工作であり、クリスティーも実際、この時期にこうしたトリックを複数の作品で用いている*1。このトリックとの関係で、本作の叙述について何か言うことはできないだろうか? 二つの解釈を与えてみよう。

(1)伏線とミス・ディレクションは「好対照な記号」である、と先に述べた。伏線とは、「解明部までは事件を指し示すと思われていなかった記号が遡行的に事件を示すことになる記号」であり、ミス・ディレクションとは(原理的には)「解明部までは事件を指し示すと思われていた記号が遡行的に事件と無関係であることになる記号」である。これらはいわば、探偵小説の叙述において〈一対〉のものだと言うことができるだろう。つまり、『NかMか』においては、〈よく似た二つの表現が一対の記号機能のうちに用いられている〉ことになる。これは、入れ替えトリックにおける〈よく似た二人の人物が一人の人物に偽装される〉ことと、呼応している。入れ替えトリックの叙述面への転用と言うこともできるだろう。

(2)これは強引な解釈、あるいは深読みのしすぎであろうか? 否定し切ることは難しい。だが、ここで別の解釈を与えてみよう。いま、「breath」を文字記号としてではなく、一つの抽象的な図像あるいは絵として見てみよ*2。するとこの叙述の箇所において、「同じ図像が(伏線とミス・ディレクションという)二つの表現の中で用いられている」ことになる。対して入れ替えトリックにおいては、見方を変えるなら、「同じ図像に二人の人物が見せかけられている」と言うこともできる。この解釈をとるならば、入れ替えトリックと本作の叙述は対照的であるとみなせる(一を二のうちに用いることと、二が一として持ち入れられること)。とするなら、入れ替えトリックの、図像的に見た叙述面での対照的転用とでもいった事態が、ここでは起きていることになる。

 どちらの解釈をとるにせよ、確かにささやかな仕方ではあるのだが、トリックの叙述面への転換がここにはあることになる*3。残念ながら、本作においてこの転換が、伏線およびミス・ディレクションの鮮やかな記号効果をあげているとは言い難い。だが、一見して些細な言葉遣いのうちに、この時期のクリスティーの多様な叙述上の試みの一つがあることを、ここでは見定めてみたいのである。

2.署名つき手紙の問題

2-1. 手紙:その特権性

 以前から述べているように、クリスティーにおいて「手紙」は様々な叙述が仕掛けられる、特別な媒体である。本作品では、スパイものならではの仕掛けがなされており、注目に値する。検討するのは、「ペネロピー・プレーン」の署名付きの手紙である。この手紙は実は、複合的な状況下で機能している。以下、少しずつ検討していこう。

 まずは基本的なことを確認しておく。タペンスはこの手紙をトミーからのものと考えて行動するが、実は敵側(アントニーを含むスパイ)の謀略であり、彼女が逆に捕まってしまう——これがプロット上の進行である。だが解明部で明らかになるのは、この署名自体がタペンスがアントニーに仕掛けた罠であり、彼女はこの手紙が敵側からのものだと知って騙されたふりをしていた、という事実である。

2-2. 宙吊り

 この手紙が到着したときの状況を(A)と(B)の二つに分けて、改めて整理してみよう。

  • (A)アントニーとデボラ(タペンスの娘)の会話後に、中年女性〔=タペンス〕の写真がデボラの部屋からなくなっている。
  • (A’)アントニーがタペンスに会いにくる。タペンス、トミーとの暗号が「ペニー・プレーン、タペンス・カラード」であると告げる。
  • (B)手紙が到着する直前の章は、捕まっていたトミーのSOSに、アルバートが気がつくところで終わる。

 (A)と(A’)におけるアントニーの振る舞いは、彼への懐疑を誘発する。それゆえ、タペンスが告げた暗号を、手紙でアントニーに逆用されているのでは、と読者は思うだろう。この場合、手紙は偽装ということになる。しかし直前の(B)でトミーのSOSが受け取られているため、彼が解放されている可能性も否定できず、それゆえ、手紙が本物である可能性もまた排除できない。

 (A)におけるタペンスの写真の不在は印象的な書き方をされているため、前者——すなわち偽装——の印象が強いものの、〈宙吊りの状態〉に読者は置かれることになる。だがどちらにせよ、つまり手紙が偽装と見做される場合も、手紙が真性と見做される場合も、署名の「ペニー・プレーン」は「トミー」を指すと読者は考える。しかし先述した通り、タペンスが伝えた暗号自体が罠なのであって、「ペニー・プレーン」は「トミー」を指示しない。この署名=「指示対象なきシニフィアン」はタペンスにとって手紙が偽装であることの「手がかり」となるのである*4

 これは興味深い記号だ。つまり、読者を宙吊り状態に置く二重の記述、その双方が合わさることにより強いミス・ディレクション(どちらをとっても、タペンスが罠を仕掛けたことから目をそらさせる記号)として機能するのである。

 そしてこれはスパイものであるがゆえに、可能となる記号と言える。すなわちこのジャンルにおいて、「捜査する側は同時に積極的に謀略を仕掛ける側でもある」のであり、実際、トミーとタペンスは作品中盤までにそうした謀略を仕掛けている。だが終盤において、謀略の面は盲点に入るよう誤導され、最後にタペンスのスパイ的特性が明らかになる、という構成をとる。タペンスの名スパイぶりを最後に示すことで、エスピオナージュであることが明示される作品とも言えるだろう。

 以上、二箇所に絞って立ち入って本作の探偵小説的な記号を分析した。どちらをとっても繊細で複雑な記号となっており、その複雑さにもかかわらずスラスラと読ませるクリスティーの才に改めて驚かされた。そのシンプルで力強いタイトルと共に(こうしたタイトルは、既に実績のある作者が、自信のある作品にしか付け得ないものだ)円熟期を迎えたこの作家の代表作の一つと言えるだろう。

*1:(作品の真相に触れるため作品名を反転させる)『白昼の悪魔』『書斎の死体』である。またより遡れば(やはり作品名反転)『エッジウェア卿の死』もこのトリックの派生形である。

*2:書かれた言葉は文字記号でもあり絵でもある、ということは、ジャック・デリダエクリチュール論の一つのポイントであるように思われる。

*3:これは私の探偵小説図式に従えば、トリックたる「二次性」を叙述という「一次性」へと変換した、ということを意味する。

*4:クリスティーの先行作において、手紙の固有名一つに仕掛けが施された作品が存在するが、本作はその新展開をしるしづけている。(以下、その先行作に言及するため反転する)その先行作とは『杉の柩』であり、問題となる固有名は、ホプキンス看護婦がポアロに見せる手紙にある「メアリイ」である。この固有名は、終盤まで事件の被害者メアリイ・ゲラードを指すミス・ディレクションとして機能するのだが、解明部で、実名メアリイ・ライレイであるホプキンスを指していた事実が明らかになる(該当するブログ記事を参考のこと)。この作品では「固有名の指示対象が人物AからBへ変化する」のに対し、『NかMか』においては、「固有名の指示対象が人物Aから不在へと変化する」のである。