今回は『エッジウェア卿の死』(1933)を考察する。この作品は、独創的なトリックを、1940年代のクリスティー全盛期へと通ずる優れた探偵小説の記号群によって支える構造になっており、かなりの秀作である(もっと後の時期の作品と言われてもおかしくない出来映えと言える)。ここではトリック、および伏線やミス・ディレクションといった叙述の面に注目しつつ、三つの節に分けて検討する。
参照するテクストは福島正美訳(クリスティー文庫、2004年)である。
【以下、本作の真相に触れる。】
1.二つの類似性
まずは本作において「二種類の登場人物の類似」が用いられていることに注目しよう。それは勿論、以下の二つである。
- エッジウェア卿夫人ジェーン・ウィルキンスンと女優カーロッタ・アダムズ
- 男優ブライアン・マーティンとエッジウェア卿の執事アルトン
メインの類似は前者であり、後者は幾つかの伏線を踏まえ*1、ポアロが途中で明かすものである。本作では両者は絡み合っている訳ではないが、クリスティーの後の作品では、こうした二通りの類似性が有機的に結び付けられることになる*2。この時期に、登場人物の類似性を二つ、既に組み込んでいるのはやはり特筆すべき趣向と言えるだろう。
2.トリックとそれを支える記号群
本作の核心にある構造をこの節では取り扱う。本作のメイン・トリックは、「ジェーンとカーロッタ、二人の人物の入れ替わりは想定通りだが、それぞれが行ったと思われていた場所が逆だった」というものである。ジェーンが晩餐会に、カーロッタがエッジウェア卿の住む邸に行ったと思われていたのだが、それが実のところ逆であったのである*3。
本作における最大のポイントは、このシンプルなトリックをトリックとして成立させるために、つまり読者を欺くために仕掛けられた様々な探偵小説の記号にある。二つの項に分けて以下検討する。
2-1. 複合的なミス・ディレクション
まずジェーンとエッジウェア卿の執事アルトン、二人の証言を並べてよう。
「わたし、黒は大嫌い」(ジェーン、116頁)
「〔事件の日にやってきた奥様は〕黒ずくめでございました」(アルトン、123頁)
これら二つの矛盾する証言から、ポアロは次のような「仮定」を立てる。
「昨夜邸に入ってきた女は黒の衣装だった〔…〕ところが、ジェーン・ウィルキンスンは絶対に黒を着ないのです! 少なくとも彼女はそういった。そこでかりに、昨夜邸を訪れた女がジェーンでなく〔…〕ジェーン・ウィルキンスンに化けた他の女だったと仮定してみましょう」(138-9頁)
ポアロのこの仮定によって、読者はエッジウェア卿の邸を訪れたのは変装した別人(おそらくはカーロッタ)であり、ジェーン自身は晩餐会に参加したのだ、と誤導される。この誤導はさらに、エッジウェア卿の秘書ミス・キャロルの証言により強化される。彼女は、ジェーンの顔を見ていたと当初述べていたのに、ポアロの実験により、実は来訪した女性の顔を見ていなかったことが判明するのである。発言のこの翻意もまた、「やはり実際はジェーン・ウィルキンスンに化けた女が訪れたのだ」、という疑惑へと読者を誘うだろう。
このようにポアロの「仮定」を中心に三つの証言がまとまることにより、複合的にこれらの記号が「来訪者はジェーンではない」というミス・ディレクションとして機能する。探偵自身の仮定も含まれたこの誤導の複合的な強度ゆえに、〈行った場所の逆転〉というシンプルな真相が盲点に入ってしまうのである。
2-2. 伏線とミス・ディレクションの併置
次は、この真相を告げる「伏線」がどこにあるかを見てみよう。晩餐会当夜に現れた、皆がジェーンと思っていた女性はどのような人物であったろうか。
「私には非常に立派な婦人と思えたが」とサー・モンタギューはあくまでも優雅に、「彼女はギリシャ芸術についてじつにしっかりとした意見を持っていた」
ジェーンが例の魔術的な低い声で、“ええ”とか“いいえ”とか“まあなんてすばらしいのでしょう”とかいっている姿を思い浮かべて、私は密かに微笑を禁じ得なかった。(240頁)
ジェーンを才気豊かな女性と判断するこのサー・モンタギューの発言は、ジェーンの人間像と齟齬をきたすものだが、直後に入る語り手ヘイスティングズの感想がこの齟齬を覆い隠してしまう。もし、ヘイスティングズが「ジェーンに関するサー・モンタギューの感想に私は違和感を覚えた。ポアロに忘れずに伝えておこうと思った」などと述懐していたとすれば、この発言は可視的な「手がかり」として読者の目に止まることになったろう。しかし、ヘイスティングズの発言により、「伏線化」してしまうのである。
要するに、ここはミス・ディレクションが直後に来ることで、ある記号が手がかりではなく、伏線として機能しているのである。探偵小説のある記号の役割はそれ単独ではなく、他の記号との関係によって決まる — このクリスティーにとりわけ固有な記号の使い方が、ここでは併置というかたちで鋭く示されている。
3.真偽反転記号
最後に取り上げるのは、非常に独特な記号である。それは事件前日、ポアロのもとを訪れたブライアン・マーティンが彼に告げる次の発言である。
「ぼくは、彼女〔ジェーン・ウィルキンスン〕が人を殺すくらい、しごく簡単にやってのけるだろうといえるんです」
「もし誰かが彼女に邪魔になったら、即座にその人間を”とり除いて”しまうだろう」(62頁)
この発言は、解明部前までは、こうした発言をわざわざ探偵のもとに言いに来た、ブライアンへと疑惑を向けるミス・ディレクションとして機能する。しかし、最後には、この発言は端的に真実を告げたものであることが判明する。
これは、指示対象が解明の前後で変化してしまうような「ダブル・ミーニング」ではない。そうではなく、偽と思われていた命題が真へと反転する、「真偽反転記号」とでも言うべきものである。これは大胆な記号であり、後続作品においてはより緊張感の増した場面で用いられることになる*4。
またこの作品では、手紙に関する面白いネガティブ・クルーも仕掛けられており、クリスティーの多様な叙述上の技法が、ひとまず出揃った作品と言えるかもしれない。さらには、「名犯人」小説という形容が適切かどうかは分からないにせよ、忘れがたい悪女の犯人像が忘れがたい印象を残す作品でもある。霜月蒼氏の指摘も踏まえ*5、前作『邪悪の家』と併せて、本作をクリスティーの第二期の開始を告げる作品、と位置付けておきたい。
*1:例えば、「〔ブライアンは〕背の高い、〔…〕美男であった」(17頁)という記述と、「〔執事は〕背丈は高く、〔…〕美丈夫である」(67頁)という記述など。
*2:(タイトルをあげるため反転)『ポアロのクリスマス』である。この作品については該当するブログ記事を参照。
*3:後続する幾つかの作品では、二人の人物の入れ替わりがトリックとして用いられている。本作では、入れ替わりが予め想定された上でトリックが仕掛けられており、独創性が高い。
*4:(ネタバレのため反転)その作品とは『ナイルに死す』である。この作品では、サイモンを撃つ直前で、リネットが「あんたは私の男よ!聞こえた?あんたはわたしのものよ…」と述べる。この言葉が真偽反転記号である点については、当該のブログ記事を参照。
*5:「『名探偵ポアロ』というイディオムは、『邪悪の家』=『エッジウェア卿の死』を画期として成立したのである」(霜月蒼『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』、早川書房、2018年、37頁)。