Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

迷霧としてのテクスト:アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』

 『ホロー荘の殺人』(1946)は、アガサ・クリスティーの全盛期と言える1940年代に書かれた傑作である。この記事では、ミス・ディレクションの機能を主軸にした分析によって、本作がクリスティーの最高点の一つをマークした作品でもあることを示せればと思う。

 参照するのはハヤカワ文庫版(中村能三訳、2003年)である。丸括弧内の数字は同書の頁数を指す。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

 

1.事件の構図について

 まずは第29章で明かされる事件の構図を確認しておこう。ジョン・クリストウを殺した犯人は、当初目されていた通り、事件現場で拳銃を握っていた妻のガーダであった。しかしジョンは死ぬ寸前に、愛人のヘンリエッタに「ヘンリエッタ」と彼女の名前を呟くことで、「ガーダを護ってやってくれ」というメッセージを残す。そこで彼女はガーダをフォローするよう行動すると共に、自分に疑惑を向けるようにグレンジ警部とポアロを誘導する。またヘンリエッタの意図を察知したルーシー・アンカテル夫人も、自分自身を含め、さらにエドワードとデイヴィッドにも嫌疑をかけるような誤導を行う。結果疑わしい人物が多数登場することになるこうした事件の構図の意味は、ヘンリエッタの次の発言によく示されている。

実際は犯人である人を嫌疑からはずさせようと思えば、方法は一つしかありません。嫌疑をほかに向けておいて、しかも、一点に集中させないことです。(467-8)

 一人の犯人を多数の容疑者の中に埋め込むこの構図は、「木の葉を隠すなら森の中」のトリックのヴァリエーションに見える。だが、事態は実のところもう少し複雑なのである。

2.一群の曖昧なミス・ディレクション

 この節では、登場人物たちを疑わしく見せる誤導がどのようになされているか、を検討しよう。「アンカテル家関係者」とそれ以外に分けて記述する。

2-1. アンカテル家関係者

 ヘンリエッタ及びアンカテル夫人が疑わしく見せかけようとする人物たちは、いずれもアンカテル家の関係者である。ヘンリエッタ、ルーシー、エドワード、デイヴィッドの4人に疑わしいところがあると、第26章で警部は述べる。以下警部の指摘も踏まえつつ、今挙げた順にどのような誤導が仕掛けられているかを見ていこう。

(A)ヘンリエッタ

 ポワロは、事件の起きたホロー荘の隣人、ヴェロニカが事件前日に荘から持って行った筈のマッチが残された四阿に、木のいたずら描きが残されていることを発見する(246)。その後、このいたずら描きは、ヘンリエッタによって描かれたイグドラシルであることが判明する*1ポアロとこの件で話している最中に彼女は、「夜遅くなって、お夕食のあとで行っ」てそのときに描いたのだと述べる。だがただちにポアロに、「暗闇で"いたずら描き"するものなんかいませんよ」と言われてしまう(407)。

 また彼女は事件が起きた直後に、ガーダが握っていた拳銃を取り上げ、プールに落とすし、絶命寸前のジョンが述べた「ヘンリエッタ」という言葉は、彼女への告発とも受け取れる。

 こうした一連のあやしい発言や振る舞いは容疑をヘンリエッタに向けさせるものである。ただしグレンジ警部が言うように「充分だとは言えませんな」(416)というレベルに留まっている。

(B)ルーシー・アンカテル

 ルーシーは事件直前に外出するときに、じつは自分のバスケットの中に拳銃を入れていたのだと述べる。しかしなぜ拳銃を持ち出した理由を「まるで思い出せ」ない(338-347)。それゆえ疑わしいのだが、どうにも彼女に疑惑の焦点を絞り切ることができない。警部は「あんなこと〔曖昧だが、「うまく説明できない理由で拳銃を持ち出したこと」だろう〕をするなんて気ちがいじみていますよ」と述べる。

 また事件が起きる前に、彼女の射撃の腕は夫ヘンリーによって褒め称えられている(124-5)。この点も彼女への疑惑を強めるだろう。

(C)エドワード・アンカテル

 グレンジ警部は彼に次のように疑いを向けている。「この男〔エドワード〕にはなにかあると思っていました。アンカテル夫人が言っていましたが——いや、はっきり言ったわけじゃありませんが——ヘンリエッタがずっと昔から好きだったそうです。これで動機は成立します」(416)。実際、ルーシーは「エドワードはヘンリエッタ以外の人とは絶対に結婚しませんよ。あの人はそりゃとても一途なところがありますのよ」(279)と述べている。そのヘンリエッタがジョンと不倫しているということが分かれば、エドワードにジョンへの殺意が湧くのも自然だろう、という訳だ。

 だがこのエドワードへの疑惑も中途半端なものに留まる。彼はヘンリエッタとではなく、ミッジと婚約してしまうのである。警部は「これでエドワードに不利だったこの疑惑もご破算になりました」と嘆いてみせる。

(D)デイヴィッド・アンカテル

 警部が彼に抱く疑いはこうである。「アンカテル夫人があの青年のことで、うっかり口を滑らせたことがありました。あの子の母親というのは、保護施設で死んだらしいですな——被害妄想で——みんなが自分を殺そうと企んでいると思っていたんです。〔…〕もしあの子がそうした血を受け継いでいたとしたら、ジョンに対して妄想をいだいていなかったとはいえません」(417)。医者であるジョンは自分を病人と証明しようとしているのだ、という妄想に囚われてデイヴィッドは殺人を犯した、という訳である。

 アンカテル夫人の発言を振り返ると、それは次のようなものだ。「結婚しませんよ、あの子〔デイヴィッド〕は。母親かなんかのことがありますもの」(350)。また、ヘンリエッタポアロに向けて「デイヴィッドも気の毒な子ですわ。〔…〕母親というのがすこしおかしいので——病気なのですよ」(301)と述べる。二人の発言と警部の指摘により、デイヴィッドは疑わしい人物として浮上してくるのである。とはいえ、そこに疑惑の決め手が欠けることも事実である。

2-2. ヴェロニカ・クレイ

 警部が最も疑わしいと考える人物は、ホロー荘の隣人ヴェロニカ・クレイである。彼女はジョンのかつての恋人であり、今なお思いを寄せる彼と事件直前に喧嘩をしている(読者はその喧嘩の模様を比較的長く読むことになる)。それゆえ彼女は動機の面では最も疑わしい人物である。だが、他面では銃を撃ったという「証拠はまるっきり見つからない」し、また銃を盗み出す機会があったかどうかも「証明できない」(413)ままに留まっている。

 

 以上を総括して、グレンジ警部はポアロに真情を吐露する。この発言は重要である。

お分かりでしょう、わたしの言う意味は? みんな疑わしいが、それが漠然としたもので、判断の材料にならないのです*2419-20

 ルーシー、エドワード、ヴェロニカには一面で強い嫌疑がかかる。だが、他面では発言や振る舞いや、さらには機会の不在によりその嫌疑は打ち消されざるをえない。そしてヘンリエッタとデイヴィッドへの疑いはさほど強いものではない。この〈疑惑の漠然さ〉こそ本テクストの大きな特徴なのである。

3.先行作と比較して

3-1. 二つの判別不可能性

 「漠然と疑惑のかかる人物たちの間に真犯人を隠す」、という本作の構図はクリスティーの過去作と比較してみると、その特徴がより浮き彫りになるだろう。その作品*3では、明確なミス・ディレクションが仕掛けられ、疑わしい人物が複数登場する。そしてその登場人物の間に、「手がかり」となるあやしい発言をした真犯人が隠される、という形をとっているのである。

 重要なのは、その作品と『ホロー荘の殺人』との間にある、叙述のあり方の違いである。先述した過去作においては、ミス・ディレクションは可視的な「手がかり」とも並置されることで、「手がかりとミスディレクションの相互判別可能性」が狙われていた(そしてこれは私見によれば、「折れた剣」の「この葉を隠すなら森の中」のトリックの叙述面への転用である)。対してここでは、ミス・ディレクションは「漠然と」したものに留まっている。先行作では、「木の葉」のように個体的輪郭をもった諸対象の関係が、同様に明確な記述———すなわち可視的なミス・ディレクションと手がかり———へと転用されている訳だが、ここでは、輪郭も朧で曖昧なミス・ディレクションのうちに、これまた真犯人への曖昧な疑惑が溶かし込まれるようになっている。言うなれば、〈固体的な判別不可能性から迷霧的な判別不可能性へ〉と移っているように思われる。この二つの判別不可能性をもう少し説明しよう。

  • 固体的な判別不可能性
    …「固体」とは登場人物に対する明確な記述を示す比喩である。すなわち、複数の人物に対するはっきりとしたミス・ディレクションを並列させることで、一つの明示的な手がかりをそのうちに隠し、どれが誤導でどれが手がかりかを識別困難にすること。
  • 迷霧的な判別不可能性
    …多数の曖昧なミス・ディレクションの使用により、他の文——例えば事件を指し示さない記号——との差異が曖昧化し、テクスト全体が「霧」や「霞」、つまり方向を掴むことが困難な「迷霧」のようになることで、真犯人への疑惑をそこに溶かし込むこと。
3-2. 濃淡を持った霧

 他の文——事件を指し示さない記号等——との差異が曖昧化するということ、ここが重要である。三つ、例を挙げておこう。

  1. [ミス・ディレクションを補強する叙述]前節で見た通り、ルーシーは拳銃を持ち出した理由を思い出せない。ただ警部は知らないかもしれないが、実際彼女は二度にわたってヤカンを火にかけてそのまま忘れている(21, 450-1)。ルーシーの「忘れっぽさ」を示すこれら二箇所はミス・ディレクションそのものとは言えないにせよ、それを強化する叙述と言える。
  2. [きわめて曖昧な誤導]第2章で、ヘンリエッタは、バスで出会ったドリス・サンダースをモデルに少女の頭像を作成している。この箇所は、彼女が自分の心を閉ざして仕事を貫徹できることを示す箇所と言える(24, 26)。つまり伏線である。ただここで出てきたモデル「ドリス」と同じ名前の人物が、ホロー荘にも勤めている(ドリス・エモット)。この固有名の同一性は、もしかして同じ人物が偽名を騙ってホロー荘に入り込んでいるのではないか、といった連想へと読者を誘う。
  3. [誤導と言えるかどうか判然としない記述]エドワードがミッジの勤めている店に行き、婚約に至るくだり(380-96)。ここは先述した通り、エドワードへの疑惑を弱めることにつながる部分である。ここには「1」「2」と異なり、明確に誤導と言える部分はない。しかしエドワードがミッジに求婚する箇所(392-3)は確かに唐突ではある。ミッジに対する思いが変化したのは自然な成り行きとはいえ、結婚にまで至るのは、「ヘンリエッタに対する自身の固執から警察の目をそむけるためでは?」という懐疑を抱かせないでもない。いま、「抱かせないでもない」といった曖昧な書き方をしたのは、勿論、通常はそこまでの読みはなされないためだ。先述したグレンジ警部の疑惑によって、かろうじて遡行的に誤導になりうる、といった程度だろう、

 グレンジ警部の指摘により浮かび上がった〈曖昧なミス・ディレクションの乱立〉、これがもたらすのは、その曖昧さが広がっていき、様々な記述がミス・ディレクションか手がかりのように見えてしまう(そしてどちらか、あるいはどちらでもないのか判別するのが困難となる)、という効果だ。そしてテクスト全体に曖昧さは霧のように広がっていくのだが、いま1・2・3で見たように、誤導には濃淡がある。霧は一様の濃度で広がっているのではなく、濃淡をもつのである(その最も濃い部分こそ、警部により指摘された「疑惑」に他ならない)。

 第一節の最後に、この作品は「折れた剣」の単なるヴァリエーションではない、と述べておいた。その意味を明確にしておこう。この作品は「多のうちに一を隠す」ことを問題にしているのでは、根本的にはない。「多」や「一」と言うことができるのは、明確な記述の「固体性」がある場合のみだ。だがこの作品ではもはや「多」ではなく、〈無数の水滴/砂としての記述のうちに一つの水滴/砂を隠すこと〉が問題となっているのである。これは「折れた剣」の叙述面への展開の、極限的な事例となっていると考えることができるだろう。

4.ボルヘス的な探偵小説

 今、霧の成分たる「水滴」と共に、「砂」も書いた。それは、本作のこの着想が、ある作家の有名短編を想起させるためである。それは探偵小説を愛好したことでも知られる作家、ボルヘスの『エル・アレフ』(1957)に収められている「二人の王と二つの迷宮」である。この短編の最後で、アラブの王によって捕らえられたバビロニアの王は、砂漠という「迷宮」に置き去りにされ、死ぬことになる。砂漠には、バビロニアの王が造った迷宮と異なって、「階段も〔…〕扉も〔…〕回廊も〔…〕壁もない」*4。だが、砂漠のある点=砂からは無数の分岐があり、分岐したある点=砂を選んだとしても、また無数の分岐がある。無数の分岐を備えた、終わりなき無数の点からなる砂漠こそ、まさしく「迷宮」の一つの極限形である*5

 ミス・ディレクションの曖昧さによって、無数の記述がすべて手がかりかミス・ディレクションのように見えてしまうこと(あるいはそうではないと判断し難いこと)——『ホロー荘の殺人』のこの結構は、無数の砂/水滴からなる砂漠/霧をどのようにくぐり抜けて一粒の砂/水滴を見つければ良いか、という問題に帰着する。もちろん、ここにはボルヘスとの違いもある。第一に、先に述べた通り、この水滴の集まりである霧には「濃淡」がある。とするなら、それは砂漠の「一様性」と比較することはできないようにも思える。また第二に、そもそもこの作品は解決が一つ与えられる探偵小説であり、その点で円環を一つの特徴とするボルヘス的な世界とは相入れないのではないか、そういう疑問も提起されよう。

 だが、一つの解を与える探偵小説であるからこそ、可能な迷宮性というものが存在する。探偵小説は(少なくともフェアプレイの成立以降は)ミス・ディレクションを、伏線を、手がかりを、ひとまずは区別する。その区別があるからこそ、「曖昧さ」を意識的に導入することができる。結果、無数の記述が様々なグラデーションのもとに置かれ、記号間の役割が判別困難になるようなテクストが出来上がる。そこで、ボルヘスとの関係で次のようにまとめておきたい。この作品はボルヘス的な円環を示すテクストではない。しかしボルヘス的な探偵小説ではある。『ホロー荘の殺人』とは、探偵小説ゆえに可能となった、無数の記述が水滴として濃淡をもった霧を構成し、その霧の中に隠された一つの水滴を探求する、〈迷霧〉としてのテクストなのである。

 

[9/10追記]3-2.以降の議論に修正と補足を加えた。論旨に変更はない。

*1:読者は104頁で既にその絵を見ている。

*2:[9/14追記]二文目は原語をみると、"All vague suspicions, leading nowhere" となっている。つまり直訳気味に訳せば、「みんな疑わしいが、それが漠然としていて、どこへも連れて行ってくれないのです」となる。この「どこへも連れて行ってくれない」という文言は、第3節で指摘する本作の「霧的」特徴と符合している。漠然とした疑惑では、濃淡をもった霧の中で道に迷うだけなのである。

*3:(作品名に触れるため以下反転)それは『杉の柩』である。該当するブログ記事を参照のこと。

*4:ホルヘ・ルイス・ボルヘス「二人の王と二つの迷宮」、『エル・アレフ』、木村榮一訳、平凡社、2005年、177頁。

*5:「迷宮」と「迷路」は思想史上区別されるが、ここではひとしなみに扱う。両者の差異については、例えば以下を参照。和泉雅人『迷宮学入門』、講談社、2000年。