Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

〈隠すこと〉の一変奏:アガサ・クリスティー『ポアロのクリスマス』

 今回はクリスティーの『ポアロのクリスマス』(1939)を取り上げる。本作はこの時期にかの女が探求していたモチーフがよく分かる佳作である。例によって伏線、ミス・ディレクションといった叙述上の特徴と、手がかりとの関係に絞って簡単に検討する。

 ※用いるのは村上啓夫訳(クリスティー文庫、2003年)である。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

 

 

 本作にはクリスティーにしては珍しい機械的トリックが仕掛けられているが、それを除けば、作品の主要な騙りは以下のところにある。それは、「ハリー・リーとスティーブン・ファーの類似性」を用いて「シメオン・リーとサグデン警視の類似性」を隠すこと、である。以下、それぞれの類似性に関する描写を見ていこう。

1.ハリー・リーとスティーブン・ファーの類似性

 この二人の類似性(外見上のイコン的類似)を示す描写として、以下の二箇所が挙げられる。

「彼は入ってきた人物がハリー・リーかと思ったが、よく見るとファーだった」(ジョンスン大佐の内的独白、239頁)

「もう一人の方は、最初スティーブン・ファーかと思ったが、よく見るとハリー・リーだった」ポアロの内的独白、278頁)

 最初のジョンスン大佐の独白は、当初は「手がかり」と言えるほど明確に示されているわけではない。しかし、続く名探偵ポアロの独白による重層的効果により、併せて「ファーはハリー・リー同様、シメオン・リーの息子(私生児)なのではないか」という方向へと読者を誘導する。

 絶妙なのは、クリスティーのこの記述の「案配」である。これは、ピラールの拾い上げた「ゴムの小さな束と木で作られた何か小さなもの」(135頁)といった物理的なもののように目に付く「手がかり」ではない。これらの記述はむしろ、「伏線」とも「手がかり」とも言えない〈曖昧な両義性〉を有しており、そしてこの曖昧さゆえに、ファーへと疑念を向けさせるミス・ディレクションとして最終的には機能しているように思える。

2.シメオン・リーとサグデン警視の類似性

 この二人の類似性は、外見上のそれというより、「癖」の水準でなされているため、先の類似性に比べてより見抜くのが困難である。シメオンとサグデン警視に共通する癖は以下の二つである。

  1. シメオンにはあごを撫でる癖がある(64, 87頁)。そしてサグデン警視も「あいまいに指先であごをなで」るのである(304頁)。
  2. シメオンはしばしば哄笑する(23日、24日の随所)。他方でサグデン警視もまた「頭をそらして笑った」(334頁)。

 シメオンの癖はともかく、サグデンの癖については目につきにくい仕方で記されており、これらは伏線と言ってよいであろう。

 さて、この二つの類似性だが、双方を併せて示唆する記述は存在しないだろうか。存在する。それこそ執事トレッシリアンの以下のセリフである。

「まるで何もかも以前やったことがあるような気持ちにおそわれるのでございます。たとえば、ベルが鳴り、それに応えて出ていきますと、そこにハリーさまが立ってでもいるように、わたくしには思われるのです—たとえそれがファーさまであっても、どなたかほかの方であっても、そういう錯覚に襲われるのです—そして内心では『はて、自分は前にこれと同じことをやったことがあるぞ』と考えながら……」(255頁)

 ここにはファーとハリーの類似性に加えて、少なくとももう一人の人物の類似性が示唆されている。それこそ、解明部でポアロが指摘するサグデン警視その人なのである。

終わりに

 かくして、この作品の中心的な騙りを次のようにまとめ直すことができるだろう。「手がかりとも伏線とも取れる〈両義的な類似性の記述〉をミス・ディレクションとして用いることで、もう一つの類似性を伏線として隠すこと」にあると。ここには、この時期にクリスティーが探求していた二つのモチーフが畳み込まれている。

 第一に、ある記事で以前論じたように、「人物の類似性」である。そして第二に、「ある叙述の記号の中に別のタイプの叙述の記号を隠すこと」という、私がこの時期のクリスティーの中心的な技法と、現在みなしているものである*1

 ただ後者について言えば、本作の達成はそれほど高くはないかもしれない。詳細は省くが、〈手がかりとミス・ディレクションの判別困難性〉を含めた後の作品に比べて、あくまで「伏線として」隠すことを狙った本作の企みには、大胆さがかけるように思えるからだ*2。それでも繊細な叙述を含む本作は、この時期のクリスティーの美質をよく示している。

*1:作品の冒頭近く、列車内でファーが「たえまなくつづく無数の人々の群れ」に驚き、それらの顔が「とてもよく似ている」ことに嘆息する部分(13頁)は、本作における類似性のトリックを暗示しているとも取れるし、またこうした「誰でもない=誰でもある人々の群れ」の中に犯人を投げ込むという探偵小説の一つの成立条件を記しているとも読める。そしてこれは、クリスティーの叙述上の特徴とも、抜き差しならぬ関係をもつものなのである。

*2:それゆえ、本作を絶頂期に向かう半歩手前の作品と形容できるかもしれない。