Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

両義性と爆発:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督『マリア・ブラウンの結婚』

 今回は二週間ほど前にシネマスコーレで観た、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの傑作『マリア・ブラウンの結婚』(1978)について簡単に記しておきたい。ファスビンダーは個人的には留学時代に『一三回の新月のある年に』(同年)などを観た程度であったが(それはそれで衝撃的ではあった)、今回のファスビンダー特集上映にて、『不安は魂を食いつくす』(1974)と共に本作を観、この映画作家のすごみに改めて触れた。この記事にて、それを少しでも語り出せればと思う。

 まずは映画前半の筋を簡単に記しておこう。ハンナ・シグラ演じる本作の主人公マリア・ブラウンは、第二次世界大戦の最中にヘルマンと結婚する。結婚後すぐに彼は出征し、終戦後も行方知れずのまま、死んだとの知らせをマリアは聞く。だが彼女がアメリカ兵と新たな人生を踏み出そうとしたまさにそのとき、死んだと思われていたヘルマンが帰国し、夫の姿を見た彼女はアメリカ兵を殺してしまう。ヘルマンは彼女の罪を被って投獄される一方で、マリアは彼の釈放の日まで力強く生きていくことを決意する……。

 この映画の一つの特徴は、最後に至るまで様々な「両義性」に作品がつきまとわれていることだ。作中には少なくとも四つの両義性が存在するように思える。

 まずはマリア。彼女はやがて繊維会社社長の愛人となり、同時に秘書としても有能さを発揮することで経済的に成功していく。そこには自立した女性の力強さと共に、その自立が経済的に成長していく西ドイツを背景とした、金銭面に支えられたものであることも描かれる(彼女は徐々に冷徹な仕事の鬼となっていく)。ここにあるのは〈自立した女性〉と〈資本主義の非人間性〉という両義性だ。さらにそこにもう一つの両義性が重ね合わされる。彼女はしばしばヘルマンに面会に行くのだが、徐々に華美になっていく彼女の姿に、私たちは、「彼女は本当に夫を愛しているのか、それとも夫を愛そうとしている自分のことを実は愛しているのか」と判然としなくなってくるのである。単純に言えば、真の愛と偽りの愛の二重性

 こうしたマリアの二重の両義性に加えられるのが、彼女を取り巻く男たちの両義性である。ヘルマンに面会に来た、繊維会社の社長オズワルトはある契約を交わす。劇中では終盤まで明確に示されないが、観客はその内実を察することができるよう演出されている。余命短いオズワルトは、せめて自分が生きている間はマリアと暮らせるよう、ヘルマンを説得するのだ。ヘルマンは釈放の日も、会いにきたマリアと会わず、一足先に出て行方をくらます。そしてオズワルトの死後、彼女にようやく会いにくるのである。ここにあるのは、どちらが本当に彼女を愛しているのか、その不分明性からくる両義性だ。

 最終盤の作劇は特筆に値する。まずマリアは、ヘルマンと再会できた喜びからタバコをガスコンロでつけた後、そのコンロの火を息で吹き消す。タバコをつけた後に火を息で消す描写は前半にあり—そこではマッチについた火が消される—、最後の最後に彼女は資本主義に溺れた存在では無く、かつての、ヘルマンを愛した彼女に戻ったかのように演出される。だがその直後、オズワルトの遺言が開封され、マリアはヘルマンとオズワルトの「契約」の中身を知ることになる。最後の両義性が現れるのはここである。遺言によりヘルマンの覚悟と愛を知った彼女が、自殺を試みようとしたかのような場面—手首を水で濡らす場面—が挟まれたのち、最終的に彼女はタバコを吸おうとしてつけた火で、コンロから漏れていたガスを爆発させてしまう。最後に現れる両義性はそれゆえ、自殺か事故かということになろう。この爆発で映画は幕となる。

 この最後の爆発は無論のこと、オープニングの爆発シーンと照応している。オープニングの結婚式の場面においては、外から室内へと爆弾が投げ込まれることで爆発が起きるのだが、ラストにおいては、室内のガス爆発の衝撃が屋外へと伝播する。ここには最初と最後の、一見したところ鮮やかな—鮮やかにすぎる—映画的照応がある。

 だが、その映画的な照応を見届けて満足した外に出た観客はふと気がつく。両義性は何も解決されていないことに。例えばマリアは真に自立した女性だったのか、資本主義の犠牲となりヘルマンへの愛を失っていたのか、それともその双方は切り離し得ないものだったのか。初まりと終わりを照応させることで、映画としての物語上の完結を目指しつつ、そこに解消されない両義性をなお思考させようとする映画。いや、むしろこう言うべきだろうか。両義性を思考させるためにこそ、両義性を綺麗に物語的に解決することを避けるような、対照的な爆発という映画的な表象で物語を挟み込んだのだと。爆発に始まり爆発に終わるという物語の結構と、そこに解消されない両義性のもたらす剰余—この点にこそ、『マリア・ブラウンの結婚』という作品の、すぐれた映画的緊張があるように思える*1

*1:この「緊張」について付言しておこう。この映画について友人と少しやりとりをした際、「最後はまさにカタルシスである」といったようなことを指摘された。これは本記事の議論を踏まえれば、様々な両義性を含む不穏な映画的持続が、最後に爆発というかたちで起こったときに生じるカタルシス、ということになるだろうか。重要なのは、この両義性と爆発のカタルシスの関係である。一方で両義性を思考させ続けるためには、それを安易に解消するような結末を回避しなければならず、それゆえ「爆発」という終わりが選ばれねばならない。他方でまさに両義性があるからこそ、最後の爆発という表象にカタルシスが発生することになる。それゆえ重要なのは、この両義性と爆発の〈非–弁証法的〉とでもいうべき関係なのであり、これが「緊張」の正体に他ならない。